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〇交流電化のメリット交流電化のメリットは、地上設備(変電所)の削減、直流では数キロ置きに設置される変電所が数十キロと長くなるほか、高い電圧を流せるので電流量が減少するため饋電線を細くすることが可能となり、その結果電柱などの構造物も軽くなると言うメリットがあると言われました。〇デメリット実際には狭小トンネルなどの場合路盤の掘り下げもしくは新規のトンネル開削などを行う必要が生じたこと、更に当時の国鉄の方針として動力分散化が進められていて機関車列車よりも加減速などでも有利な電車が優先されたことから、メリットよりもデメリットが目立つようになってきました。 結果的に、在来線における交流電化は、東北本線の...
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北陸本線は、昭和32年10月1日、田村駅~近江塩津駅~敦賀駅間が交流電化されましたが、米原~田村間は、その区間を非電化として蒸気機関車(E10)で連絡したことは前述しましたが、昭和昭和38(1963)年12月28日、米原駅~田村駅間が直流電化され、田村駅の米原寄りにデッドセクションが設置されることとなりました。米原~田村間は小運転の専用機関車で接続すると言うことで、EF55-3の部品を流用して(実際はモーターなど一部のみ)(記事によればEF10という記述もあり)の直流機器と475系の交流機器を使って昭和37(1962)年10月初旬に浜松工場でED30形電気機関車が誕生したそうです。 この機関車...
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このとき導入されたのが、交流整流子式電動機を採用した直接式機関車ED44(ED90)形と水銀整流器を用いたED45(ED91)形であり、当時はその性能が未知数であったこともあり、両方式が比較検討されることになりました。当時の資料などを参照しますと、技術陣は当初は直接式を本命としていたようです、ただし下記にも書きましたように直接式の場合起動時に整流子(ブラシ)から派手に火花を飛ばしながら走るため、 運用ごとにブラシの清掃や交換が必要となったと言われています。 その反面重量面では不利になるものの、整流器式は想定以上の性能を示し、水銀整流器の寿命(当初は5年から10年程度と言われていた)や、高周波問...
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終戦、そしてGHQにより日本占領が終了した昭和27年、国鉄は輸送力増強そして動力の近代化に前向きに取組こととなりました。 海外に目を向けてみると、昭和26(1951)年フランスが商用周波数による交流電化(それまでは16 2/3と言う特殊な周波数を使っており、変換装置などが大掛かりなものとなり、決してコスト的に安いものではなかった)が完成したとのニュースは、日本における交流電化に向けて大きな励みになりました。 早速日本でも、昭和28年、交流電化調査委員会が設けられ、研究が開始されました。 当初は、実用実験に入るため、フランスから試作機を購入することを打診しますが、継続した車両の購入などを要求さ...