新幹線建設と国鉄 第1話 十河信二総裁と阿川弘之
12月
10日
新幹線に関しては、戦前の弾丸列車計画まで遡ることができます。
実際に、丹那トンネルなど一部の区間は建設に着手していましたし、日本坂トンネルのように戦前には完成し、一時期は在来東海道線で利用された区間もあったと言われています。
昭和30年代の輸送力はひっ迫しており、東海道線の全線複々線化も視野に入れて検討されましたが、鉄道技術研究所が新幹線による東京~大阪3時間運転の可能性を示したことを受け、鉄道が斜陽産業と思われていた中に光明を見出したと言えます。
最終的には、十河信二の決断が大きかったと言えましょう。
世間は鉄道斜陽論が一般的であり、鉄道は時代遅れであり今後は飛行機や高速道路による自動車輸送が増大するものであり、高速鉄道などは妄想の産物でしかないと言われていました。
このように、新幹線建設に関しては並々ならぬ情熱を持っていた十河総裁でしたが、当時の国鉄は運輸省から分離したとはいえ、国鉄自身も、そして政府も国鉄は国の機関という意識が双方にあって、運輸省は国鉄を監督する立場にあるとはいえ、その立ち位置は現在の国交省とJR各社という位置づけとはかなり異なっていました。
また、作家の阿川弘之(元海軍士官で、絵本・「きかんしゃやえもん」の作者)が、世界の三バカと呼ばれた(ピラミッド・万里の長城・戦艦大和)と同じく、新幹線も同じ道を辿るのではないかと、新聞で発表し、国鉄に再検討を促したと言った話もありました。
それでも、十河信二としては高速輸送としての新幹線が国鉄が生き残るべき道であると信じて建設に邁進することになります。
新幹線建設の計画には、桜木町事故で引責辞任していた島秀雄を口説いて副総裁格の技師長として迎え入れ、島技師長とのコンビで新幹線計画は進められました。
改めて、こうして十河信二という人を振り返ってみますと、改めて胆力のある総裁であったことが伺えます。
特に、国鉄は、輸送量の増大もあったとはいえ、十河総裁在任中の国鉄は黒字決算を続けていましたし、動力近代化による運輸の合理化や、支社制度の導入による本社機能のスリム化等、機構改革にも着手して政治力を発揮しています。
また、新幹線建設に関しても政治力を発揮し、当時の大蔵大臣、佐藤栄作の助言により世界銀行からのの借り入れなどを実現させたことも特筆されます。
ただ、当初から新幹線の建設費を過少に見積もっていたこと、さらに新幹線建設のために地方交通線(ローカル線)の建設を渋ったことなどから、新幹線開業前に昭和38年には再任されることは無かったのですが、これは上記のような理由で政治家に嫌われて詰め腹を切らされた形でした。その後は国鉄監査委員を務めていた、石田禮介氏に総裁の任が回ってくることになるのですが本題から外れますので、今日はこの辺で止めておくこととしましょう。
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