今日は、かわいいちゃんのおじいちゃんが日本から訪問されていて、教会にも来てくれましたーー。しかし、お若い!!
今日は、子供たちは、帰国中や風邪で、かわいいちゃん姉妹たちだけでした。。。寂しそうでしたーー。また、早くみんな元気になって教会で会いたいね!
2016年10月30日日曜日礼拝音声は、https://youtu.be/Kf4IqxH_bP0
聖書箇所 ロマ6:1-14, 23
五章では、信仰によってもたらされる義、そして、義がもたらす平和、喜び、栄光について話しました。今日は、続いて六章を見ていきましょう。
★ 恵みのためにもっと罪を犯すべき?
V1-2 1それでは、どういうことになりますか。恵みが増し加わるために、私たちは罪の中にとどまるべきでしょうか。2 絶対にそんなことはありません。罪に対して死んだ私たちが、どうして、なおもその中に生きていられるでしょう。What shall we say then? Shall we continue in sin that grace may abound? 2 Certainly not! How shall we who died to sin live any longer in it?
五章の終わりの方に、罪が増し加わるところに、恵みも増し加わるのなら、もっと罪を犯しましょうという人たちがいるのに対して、そんなことは絶対にありえない。とパウロが言っています。
この章後でパウロが、罪の奴隷と神の奴隷という表現を使っていますが、どちらかに属する道しか私たちにはないのです。ですから、恵みのために罪を犯そうという論理は存在しないのです。なぜなら、そもそも、キリストを信じることとはどういうことでしょうか。またどんな変化をもたらせたのでしょうか。
★ バプテスマ・洗礼とは?
V3- 6 3 それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。4 私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。
5 もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。
6 私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています
バプテスマ、洗礼式を見たことがありますか? バプテスマとは、浸されること。実際に水の中に全身を浸します。イエス・キリストを信じて生きていきますという、人の前にも神の前にも宣言する式。入学式であり、お葬式でもある。4節にあるように、バプテスマは、水の中に完全に入っている時を死とみなし、水から上がるときを復活、新しい命で生きることを表しています。
キリストの死と葬りと復活を水を通して体験し、信仰を公にします。
ここで大切なのは、5節にあるように、キリストに継ぎ合わされることです。継ぎ合わされるとは、どういうことでしょうか。
○ 継ぎ合わされる, planted together; スンフートスsoom'-foo-tos (ギ) …born together with, of joint origin, connate
一つとされることです。接ぎ木をされているようなものですね。根っこが同じ。同じものとされることです。
キリストの死と継ぎ合わされ、キリストの復活と継ぎ合わされることで、新しく生きられるというのです。
○ V6 罪の奴隷でなくなるため。
奴隷とは、鎖につながれて、自分の自由がありません。自分の意思に関わらず、働かなければなりません。罪人というのは、調度そのようです。頭では、してはいけないことと分かっているのにも関わらず、やってしまうのが罪ではないでしょうか。まるで奴隷のようです。
★ 死ななきゃ治らない?
鍵は信仰 信じること。人は信じていることしか行動に移せない
V7-10 7 死んでしまった者は、罪から解放されているのです。
8 もし私たちがキリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きることにもなる、と信じます。
9 キリストは死者の中からよみがえって、もはや死ぬことはなく、死はもはやキリストを支配しないことを、私たちは知っています。
10 なぜなら、キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、キリストが生きておられるのは、神に対して生きておられるのだからです。
「馬鹿は死ななきゃ治らない」ということわざが日本にありますが。英語では、the only cure for a fool is death; once a fool, always a food と言えますが。罪を犯す性質というのは、人間が生きている限り無くなることはないのです。それこそ、死ななきゃ治らないものであります。
罪をやめるということは、人間をやめるしか道がないのです。神様の標準を満たす清さというのは、人間では到達できないのです。先日その暴言が取り上げられた尼さんがいましたが、どんなに修行しても死ななきゃ治らない性質っていうものがあるのです。
私たちは、死ななきゃいけないのです。しかし、私たちがしなくてもいいように、キリストが私の身代わりに十字架で死んでくださったのです。私は、どうやって死んだらいいのでしょうか。それは、自分の罪がキリストの十字架で一緒に死んだことを信じることです。
古い人…生きている自我・キリストとともに死んでない内なる人 これが私たちに葛藤を与え、他人に不快を与えます。
信仰による死がもたらす利益
○ 復活がある … みなさん、死ななければ、復活がないのです。あなたの自我、決断、判断、ジャッジをするところが、生きていては、復活がないのです。あなたは、自分に死んでいますか?
○ 感じなくなる … 生きている人は、痛みがあります、いらいらします。いろいろと思い悩みます。しかし、死んだ人には、そんなことがありません。何も感じなくなるのです。例えば、あなたをいらいらさせる人がいるとします。あなたは、相手のここが悪いあそこが悪いと、自我を用いて相手を裁き、余計にイライラします。死んでいないのです。死ぬことは、自分の自我がキリストの十字架の上にあることを認めることです。
そんな、馬鹿な。。。どうやって。このイライラがなくなるの? と思うかもしれません。
聖書のHow? は、いつでも、信仰です。信じることです。
あなたの古い罪の性質が十字架で死んだことを信じることです。
人は、自分の信じている通りにしか行動しません。あなたが、自分が生きていると信じているのに、キリストとともに生きることはできないのです。
死が無ければ復活がないからです。
★ 律法の下ではなく、恵みの下に! 鍵は信仰
V11-14 11 このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。
12 ですから、あなたがたの死ぬべきからだを罪の支配にゆだねて、その情欲に従ってはいけません。
13 また、あなたがたの手足を不義の器として罪にささげてはいけません。むしろ、死者の中から生かされた者として、あなたがた自身とその手足を義の器として神にささげなさい。
14 というのは、罪はあなたがたを支配することがないからです。なぜなら、あなたがたは律法の下にはなく、恵みの下にあるからです。.
キリストの十字架の死と葬りと復活と継ぎ合わされた人は、自分から好んで罪を犯そうという発想がなくなります。罪を犯す、古い人・生きている自我に対して気が付いていて、罪に対しても死んでいるのです。また、罪を自ら犯すことを信じてないからです。そして、今までは、罪の支配の中にいて、律法の支配の下にいたのが、恵みの下に移されていると14節にあります。
律法の下というのは、あなたがすることなすこと、律法に照らし合わされて、裁かれる世界です。これもできてない、あれもできてない、できるようにならなければと私たちを急き立てるものです。しかし、恵みの支配とはなんでしょうか。
恵みとは、私たちに必要な力を与えて、神のために生き、神の御心に沿って生きることができるすべての能力が与えられることです。超自然的な力が与えられることです。罪の奴隷から解放された人は、恵の支配が約束されています。
今日、どれくらいの人が、この恵みをあてにして生きているでしょうか。ここに期待して、かけて生きているでしょうか。
もう一度いいます、死んでいる人でないと、恵みの支配下にいないのです。両方に足を突っ込んで生きる道は存在しないのです。
★ 神の下さる賜物
V23 罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。 For the wages of sin is death, but the gift of God is eternal life in Christ Jesus our Lord.
続いて、罪の支配の至る道は、死であり、キリストに継ぎ合わされた人の道は、永遠のいのちに至ると続きます。
ここに、「神の下さる賜物」は、とあります。いのちに至る道の生き方は、神様からのプレゼント、贈り物であって、あなたが労苦して稼ぐものではありません。このプレゼントは、信じることから始まります。そして、死ぬことを通して、復活の命にあふれさせます。死ぬことを通して恵みに満ち溢れさせます。
あなたの自我は、今日どこにありますか? 悩み、もがきがありますか。キリストの死と復活に継ぎ合わされましょう。恵みの支配に入りましょう。
ぽ
日曜日は、ゆきくんの18才の御誕生日をお祝いしました。
教会にきだしたころは、8歳か、9歳くらいだったかなぁ。。。。可愛かったことを覚えていますが、こんなに立派な大人になりました。ハレルヤ。神様感謝します! 教会のみなさんで祝福のお祈りができました。これからも、素敵な男性に育っていきますように。。。。
この日曜日は、初めて、エリックがメッセージをしました。
23 Oct 2016日曜日礼拝メッセージ
Eric’s Story of Speaking in Tongues. エリックの体験談
Holy Spirit gives us the ability to speak in other tongues:
聖霊様が私たちに異言で話す能力を下さる
Acts使徒 2:1-4
“And when the day of Pentecost was fully come, they were all with one accord in one place. 2 And suddenly there came a sound from heaven as of a rushing mighty wind, and it filled all the house where they were sittng. 3 And there appeared to them cloven tongues like as of fire, and it sat upon each of them. 4 And they were all filled with the Holy Ghost, and began to speak with other tongues, as the Spirit gave them utterance.” 五旬節の日になって、みなが一つの所に集まっていた。2 すると突然、天から、激しい風が吹いて来るゆな響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。3 また、炎のような分かれた舌が現れて、ひとりひとりの上にとどまった。4 すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。
① Unity 一致について
I also love the encouraging words of the Apostle Paul on the subject.パウロはまた言いました
1 Cor.コリント 14:18
“I thank my God, I speak with tongues more than ye all.” 私は、あなたがたのだれよりも多くの異言を話すことを神に感謝していますが、
② Don’t strive 自分の努力によらない
Ps. 詩編46:10 “Be still, and know that I am God…”
“let go and let God” あきらめて、神様にしてもらうこと
③ Edifying yourself 自分の徳を高める
1 Cor. コリント14:4 “He that speaketh in an unknown tongue edifieth himself…” 異言を話す者は自分の徳を高めますが、預言する者は教会の徳を高めます。
④ Intercession とりなし
Rom.ロマ8:26
“Likewise the Spirit also helpeth our infirmities: for we know not what we should pray for as we ought: for the Spirit itself maketh intercession for us with groaning which cannot be uttered.” 御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。
It is a supernatural solution to natural problems. 自然界の問題に対する超自然的な解決が与えられる。
⑤ Mind doesn’t bear fruit; 知性は実を結ばない
1 Cor.コリント14:2
“For he that speaketh in an unknown tongue speaketh not unto men, but unto God: for no man understandeth him; howbeit in the spirit he speaketh mysteries.”もし私が異言で祈るなら、私の霊は祈るが、私の知性は実を結ばないのです。
“Could you not spare one Hour?” 一時間もできないのか?
という、ムーブメントが昔ありましたが、
異言の祈りなら、いつでもどこでも、いくらでも祈ることができます。
え
すっかり秋のシアトルです。お友達が朝とった写真です。
美しいシアトル。。。。
先週来週は、ずっと雨ですが、これもシアトルらしい。
木の葉もすっかり紅葉して、雨と風で道は絨毯のようになっています。。。
ヨハネ21章1-14節
1 この後、イエスはテベリヤの湖畔で、もう一度ご自分を弟子たちに現された。その現された次第はこうであった。
2 シモン・ペテロ、デドモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナのナタナエル、ゼベダイの子たち、ほかにふたりの弟子がいっしょにいた。
3 シモン・ペテロが彼らに言った。「私は漁に行く。」彼らは言った。「私たちもいっしょに行きましょう。」彼らは出かけて、小舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。
4 夜が明けそめたとき、イエスは岸べに立たれた。けれども弟子たちには、それがイエスであることがわからなかった。
5 イエスは彼らに言われた。「子どもたちよ。食べる物がありませんね。」彼らは答えた。「はい。ありません。」
6 イエスは彼らに言われた。「舟の右側に網をおろしなさい。そうすれば、とれます。」そこで、彼らは網をおろした。すると、おびただしい魚のために、網を引き上げることができなかった。
7 そこで、イエスの愛されたあの弟子がペテロに言った。「主です。」すると、シモン・ペテロは、主であると聞いて、裸だったので、上着をまとって、湖に飛び込んだ。
8 しかし、ほかの弟子たちは、魚の満ちたその網を引いて、小舟でやって来た。陸地から遠くなく、百メートル足らずの距離だったからである。
9 こうして彼らが陸地に上がったとき、そこに炭火とその上に載せた魚と、パンがあるのを見た。
10 イエスは彼らに言われた。「あなたがたの今とった魚を幾匹か持って来なさい。」
11 シモン・ペテロは舟に上がって、網を陸地に引き上げた、それは百五十三匹の大きな魚でいっぱいであった。それほど多かったけれども、網は破れなかった。
12 イエスは彼らに言われた。「さあ来て、朝の食事をしなさい。」弟子たちは主であることを知っていたので、だれも「あなたはどなたですか」とあえて尋ねる者はいなかった。
13 イエスは来て、パンを取り、彼らにお与えになった。また、魚も同じようにされた。
14 イエスが、死人の中からよみがえってから、弟子たちにご自分を現されたのは、すでにこれで三度目である。
今日は、イギリスから、デレック・ブラウン先生をお迎えしての合同礼拝でした。ですから、今日は、日本人教会はありませんでした。ブラウン先生のメッセージは、次の通り
I am.
旧約聖書で神様がご自分の名前を、「わたしは、ある」と紹介されましたが、神様は、I am. であると今朝協調しておられる。
イエス様は、昨日も今日も明日も同じ。しかし、昨日の油注ぎは、昨日のものであり、今日は今日でI am. と言うお方がともにおられるのです。
今朝、ここにイエス様が来られたらどんなだろう。。。。本来イエス様中心の教会であるはずなのに、教会は宗教的になりすぎて、I am. であるお方を見逃している。
ヨハネ21章の一節に、英語では、the morning comes there stood Jesus. その後、朝が来て、イエスがそこに立っておられた。とある。
今日皆さん、朝ここに来られて、どんな気持ちでここに来たかしりませんが、いろんなことがあり、いろんな思いを引きずりながら来たことでしょう。しかし、それでも、朝がくる。そして、聖書は、そこにイエスがおられたと書いてあるのです。
聖書は、「夜に涙を流しても、朝には喜びがある」とあります。また、「神の恵みは朝毎に新しい。」とあります。ヨハネ21章も、いろいろなことの後に、この朝が来ました。キリストの癒し、みわざ、弟子たちの召し、ペテロの裏切り、イエス様の十字架の死、イエス様は、自分が生きていることを四十日間人々に現され、示されました。復活を信じない人たちに現れました。
ルカの15章で、何もかも捨ててきたという弟子たちに、これからは人をとる漁師になると約束されました。
あなたも、そうだ、そんな約束もあったものだ。あんな夢ももったものだと思うことがあるかもしれない。。。
ペテロは、どうしていいかわらなかったので、昔なじみの漁に出ることにした。そして、他の友たちもついてきた。
皆さん、いいですか、この朝、イエス様はご自分を表されたのです。すべては、イエス・キリストなのです。
いいワーシップでも、教会でも、いいメッセージを聞くことでもないのです、イエス・キリストです。キリストに関することであります。
ペテロは、漁にでました。彼は、自分の召命に対して、迂回をするようにして漁にでました。そこには、絶望と、自分に対する失望があったからです。
そして、漁に出てても、昔からなじんだ仕事であっても、何もとれなかったのです。一匹もです。
私たちも、よくなれている仕事があるでしょう、癒しのミニストリーでも、預言でも、牧会でも慣れ親しんできた仕事でも、うまくいかない、一匹もとれないようなことがある。
イエス・キリストの臨在こそが、魚を引き寄せる一番の要因であるのです。
イエスがそこにおられるかどうか、が重要なのです。
学校に行こうが、何をしようが、そこにイエスがいるかどうかで、全ては違ってくるのです。
There stood Jesus
イエスはそこに立っておられた。
しかし、弟子たちは、イエスが分からなかったのです。
「こどもたちよ、魚がとれましたか?」 ときかれても、分からなかった。イエス様は、あなた方に今、この季節、「イエスがいる」ことを知ってほしいのです。イエス・キリストがすべてであることを。
「右に網をおろしてみなさい」と言われました。そう言われてもイエスと気が付かなかったでしたち。
右側というのは、なぜ右側なのか。ここには、深遠な意味がある。
右は、権威という意味がある。弟子たちが、権威をそこに招いたときに、大量の魚がとれた。いくら働いても、キリストの権威なしに働いても何もとれないのです。
また、有名な放蕩息子の絵画を見たことがあるだろうか。放蕩息子を抱く父の手であるが、右は、女性の手をしており、左は男の手をしている。右は、母のやさしさを表す。母のやさしさは、我々は、ただ受け入れるということであるが、我々は、しばしば、それをしようとはしない。
また、この朝に、岸辺からイエスの声がするとはだれが想像しただろう。キリストは、私たちが今まで予想したことのないところから語り掛けるというしるしである。
イエス・キリストが我々の中心である。
ヨハネは、言った。「主です!」
いくら熱心に主の仕事をしていようと、どんな立派な仕事をしようが、キリストと関係を持っていなければ、分からない。ヨハネは、キリストとの親しい関係にあって、それが主であると分かったのです。
ペテロは、それと聞いて、裸であったが、そこにある、漁師の服をまとってから水に飛び込んだ。何を示しているのだろう。一度、キリストから、人を取る漁師にしてあげようと召された。
その召命の象徴として服をまとい、思い切って水に飛び込んでイエス様のもとに急いだのであった。再献身の始まりであった。
今日一日のためイエスを求めよう。今日一日のみことばを求めよう。あなたの召命の服を着て水に飛び込もう。あなたには、フレッシュな信仰が必要です。今日、再献身して、召しに生きるためには、新しく神を信頼する必要があります。今日一日の信仰でいいのです。
イエスは、パンと魚を用意して待っていた。キリストご自身は、いのちのパンと言われるおかたである。これは、キリストからの個人的なあなたへの招きであります。
朝食は、英語で、Breakfast といいます。つまり、Break the fast 断食をやめる。食べない、不足していることを破ることです。
あなたの過去の失敗、成功しない道、なかなか取れない漁、家族の問題、何も開かれないそういう 不足の気持ちを破ることです。
イエスがともにいて、食事をさせてくださり、そして、その断食を破らせてくださいます。
イエスは、来なさいと招いています。これは、新しい献身の第一歩であり、始まりです。昨日のことは、終わりました。今日から、あなたは新たにまた力を得るのです。
ぼ
ご近所に、水曜日に新しいスタバができましたー。ここにスタバがあったなーーと思っていた調度そこにできました。
マーサーストリートにあります。
店内には、これでもか、とコンセントの数。椅子のないところにも。。。ここも、アマゾニアンで朝は、ごった返しています。
そのお向かいのビルですが、大きなガラス窓がびりびりに、、レースのように、細かくひびが入っています。光に反射して、とても美しいです。壊れたものなのに、こんなに美しいなんて、なんとなく、誌的だなーーと思って思わず写真をパチリ。。。ここは、お散歩コースです。こちらもマーサーストリートです。
2016年10月9日日曜日礼拝音声は、https://youtu.be/NQcxDlaaH4w
先週は、義をもたらす信仰について話しましたね。さて、信仰を持った私たちに、一体どのような変化が起こるのでしょうか。ということを五章を通して学んで行きましょう。
★シャロームの中に招き入れられた
V1,2 ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。2 またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。Therefore, having been justified by faith, we have peace with God through our Lord Jesus Christ, 2 through whom also we have access by faith into this grace in which we stand, and rejoice in hope of the glory of God.
パウロは、この恵みに入れてくださった神の栄光を大いに喜んでいると語ります。信仰によって義とされた私たちは、神の平安に招き入れられた。キリストによって平安が与えられたとあります。
平安というのは、旧約聖書の神の名でも同じみ、ジェホバ・シャロームに代表する、神のご性質でもあり、私たちにとって大きな意味のあることです。
シャロームとは、ただ何もない静けさ安らかさではなく、混沌とした状態から神によって回復された状態をさします。戦いの中でも与えられる平安。。。もちろん新約聖書では、ギリシャ語を使いますから、ここでは、エイレーネという言葉、同じく平安が使われていますが、これもまた似たような意味が込められています。エイレーネの語源は、つなぐ、加わるという言葉です。二つのものを一つにしたうえでの平安です。なかなか、奥が深いですね。
すなわち、罪の混沌、暗闇を通り抜け、今や、キリストによって、神の回復に加えられている。そして、キリストとの親しい交わりの中で安らぎを得ている、そんな場所に私たちは入れられているのですよ。ということです。
Shalom / Eirene Restored / to join to connect の語源…神との親しい交わりに加わっている
★患難の意味の変化
続く聖句が、
V3-5 3 そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、4 忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。5 この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。3 And not only that, but we also glory in tribulations, knowing that tribulation produces perseverance; 4 and perseverance, character; and character, hope. 5 Now hope does not disappoint, because the love of God has been poured out in our hearts by the Holy Spirit who was given to us.
なぜ、患難の話しがこの場面で出てくるのでしょう。やはり、当時迫害があったからでしょう。信仰ゆえの苦しみというのは、義、信仰、そしてキリストのことを話す時には切り離せなかったことがらだったのでしょう。
信仰によって義とされたキリスト者は、患難に対するものの見方が変化する。患難を喜ぶのはキリスト教の特徴でもある。(中国宣教の証し:音声でお聞きください)
自分自身が平安の中に入れられていることを軸にしているからです。すなわち、どういうとでしょうか。神のGOODNESS を軸にしているのです。そこに根差して生きているのがキリスト者なわけです。
キリストを信じる前は、患難、苦しみは、私にとっては、苦しむためだけのもの、それを通して強くなるとしても、ディフェンスメカニズムを作って、内面的に不健康な人になってしまいました。主を信じて通る患難とは、パウロは次のように語っています。
「患難さえも喜んでいます。」と。喜び…誇りに思うの意も含む
○忍耐が練られた品性をうみ
忍耐…hypomoneヒポモネーギリシャ語の言葉の意味は、「下に続く」前向きに継続的に待ち望むことです。すなわち、神の良さに信頼して、前向きに、従っていくことです。そして、それが練られた品性を産みだします。
品性とは、人格ですね。練られるというのは、試験されて、試されて、やっぱり本物であると、確認されることです。安全な車でも、ちゃんと試験を通って、この車は安全です、衝撃テストなどを受けて、ここまでは大丈夫ですと証明されます。それと同じように、この人の人格は間違いないと神様からお墨付きをもらうのです。
○希望に導く品性
品性は、もちろん一晩で出来上がったりしません。悩みながら神様に聞きながらできていきます。まるで、炉にいられて火で精錬される金のように、たくさんの金粕がでてくるでしょう。それらを取り除きながら、純粋なものになってくのです。
品性の作りの作業において、神様の関係は切り離せません。もちろん、忍耐とは、神様の素晴らしさに信頼しての忍耐ですから。自分を知り、神を知る機会となります。この過程の中で、希望が生まれます。また、逆に言えば、品性なくしては、希望はないといえます。
希望とは、将来の記憶。将来のこと、まだ実際に起きてないことが、良いことと信じること。
絶望をとおらなけば希望もない。本当に希望をはっきりと持っている人は、苦労していない人ではなく、実は、苦労している人であります。
キリストは、希望をもって、目の前の十字架をもろともせずに、従ったとへブル書に書いてあります。
へブル12:2 信仰の創始者であり、完成者でイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。looking unto Jesus, the author and finisher of our faith, who for the joy that was set before Him endured the cross, despising the shame, and has sat down at the right hand of the throne of God.
○聖霊によって
神の霊は、ギャップを埋める。こないだ聞いたレクチャーのなかでの話です。脳の神経、シナプスとシナプスはくっついていない。間が空いている。そのあいだがあるにも関わらず、感情、記憶、ホルモンの分泌など、必要な情報が伝わっていく。その学者は言いました。神は、初めからおられた。神は、そのギャップを埋める方だと。
私たちは、神様の働き方について分からない。
頭でわからないこと。霊によって感じながら試練の中をすごす。神様は、私たちが見えていない、ギャップの中ですでに、いつも働いておられるのです。
証し; キリストを信じているからということで、難しい状況に直面することが多かった。どうしていいか、分からなかった。言い返すのも違うし。心の中で一呼吸して、神様を呼んだ。ただ、祈った。その時、腹の底に熱いものがこみあげてきた。「私は神に愛されている」という強い確信がこみあげた。そして、二年後にすべてが益にされた。詳細は、音声にてお聞きください。
★神を喜ぶ生活へ shalom の確認
信仰ゆえの患難についての話からまた、シャロームに戻ります。いかに、キリストが私たちのシャロームを作ってくださったか、また、私たちは、どれだけ、神を喜んで生きているのかということの確認になっています。
V6-11
6 私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。7 正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。8 しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。9 ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらです。10 もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです。11 そればかりでなく、私たちのために今や和解を成り立たせてくださった私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を大いに喜んでいるのです。For when we were still without strength, in due time Christ died for the ungodly. 7 For scarcely for a righteous man will one die; yet perhaps for a good man someone would even dare to die. 8 But God demonstrates His own love toward us, in that while we were still sinners, Christ died for us. 9 Much more then, having now been justified by His blood, we shall be saved from wrath through Him. 10 For if when we were enemies we were reconciled to God through the death of His Son, much more, having been reconciled, we shall be saved by His life. 11 And not only that, but we also rejoice in God through our Lord Jesus Christ, through whom we have now received the reconciliation.
今日は、パウロが、平安と喜びに挟まれた、患難のお話しをしてくれたと思います。すでに平安、シャロームに入れられた私たちですから、私たちがどんな、試練に会おうとも、神様とともに、耐え抜くときに、そこにまた、回復をもたらす力が働き、私たちを喜びから喜びに導いてくださる。
神様は、今日私たちにそのように語っておられるのではないでしようか。
ぼ
私の学校の学生ラウンジ。ご飯を食べたり、本を読んだり。。。とてもピースフルです。。。。
何とか、忙しい中、ジムに行きました。あれ、サウスレイクユニオンに、ゾカコーヒーが来てるーー!!! 嬉しいーー。今まで、グリーンレイクに行ってたんですよねー。しかし、アマゾニアンですごい賑わいです。列が、長いです。。。。。
2016年10月2日日曜日礼拝メッセージ音声は、https://youtu.be/F_QsVKWrqSU
先週は、ローマ三章からユダヤ人の誇り律法と義について話しました。今日は、義をもたらす信仰について話したいと思います。ローマ書四章では、主にアブラハムの人生に重ねてパウロは信仰について説明しています。
★義に導く信仰
○自分の限界を知る
ロマ4:5
5 何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです。5 But to him who does not work but believes on Him who justifies the ungodly, his faith is accounted for righteousness,
この箇所を読んだときに、これまで三章読んでみて、以前と違うように聞こえました。「自分が、何の良い働きもしていない、不敬けんな者であると認めることができるか? 」ということです。ユダヤ人たちは、自分たちを敬けんな人間だととらえ、律法に従って良い行いをしていると自分たち自身を信じていたのです。信仰への始まりは、自分の限界を知り、自分に絶望することです。
○儀式・形式によらない、信仰は心を変えるものである
ロマ4:10
10 どのようにして、その信仰が義とみなされたのでしょうか。割礼を受けてからでしょうか。まだ割礼を受けていないときにでしょうか。割礼を受けてからではなく、割礼を受けていないときにです。10 How then was it accounted? While he was circumcised, or uncircumcised? Not while circumcised, but while uncircumcised.
アブラハムは、割礼を受けたので義と認められたのではありません。彼は、心で神様を信じたときに、義と認められました。私たちは、心の中のコンディションと外の形式をやったらないを混同してはなりません。心が変わらなければ、義とはならないのです。
私たちの場合で言えば、あなたが、もし宗教行事に定期的に参加していても、心が変わらなかったならば、意味がないのです。それは、人のせいにはできません
神様と自分との関係の中で吟味しなければなりません。よく受身的に、自分は恵まれないとか、もう教えられることはないとかいう方に出会いますが、真の霊の人は、どんな状況からでも学ぶことができる人です。母教会の牧師から教えられたことの一つ。。。高慢は、耳を閉ざすが一番の妨げ。
○信仰は私たちに約束を与える
ロマ4:13-14
13 というのは、世界の相続人となるという約束が、アブラハムに、あるいはまた、その子孫に与えられたのは、律法によってではなく、信仰の義によったからです。
14 もし律法による者が相続人であるとするなら、信仰はむなしくなり、約束は無効になってしまいます。13 For the promise that he would be the heir of the world was not to Abraham or to his seed through the law, but through the righteousness of faith. 14 For if those who are of the law are heirs, faith is made void and the promise made of no effect, 15 because the law brings about wrath; for where there is no law there is no transgression.
「大切なのは信仰・希望・愛だ」とⅠコリント13章にありますが、私たちが信じるとき、必ず受け取るものがあります。それは、希望です。希望とは、自分の将来・まだ見ないことをを信じることです。それは、神に対する信頼、初めて、心で「神様、あなたを心で信じます。私は、不敬けんなものです、律法も守れません。けれども、救いをもたらす神様を信じます。信頼して生きていきます。」というときに、必ず、将来へ約束である希望がもたらされます。アブラハムは、信じたので、世界の相続人となる約束が与えられました。まだ、子供がいない時にです。
○祝福の継承の約束
ロマ4:16
16 そのようなわけで、世界の相続人となることは、信仰によるのです。それは、恵みによるためであり、こうして約束がすべての子孫に、すなわち、律法を持って いる人々にだけでなく、アブラハムの信仰にならう人々にも保証されるためなのです。「わたしは、あなたをあらゆる国の人々の父とした」と書いてあるとおり に、アブラハムは私たちすべての者の父なのです。16 Therefore it is of faith that it might be according to grace, so that the promise might be sure to all the seed, not only to those who are of the law, but also to those who are of the faith of Abraham, who is the father of us all.
約束は、アブラハムの信仰に習っている人たちに及びます。アブラハムの信仰が彼だけの人生にとどまっていないところに注目しましょう。あなたの信仰は、周りを祝福するためにもあるのです。また、あなたの生き方を見て、信仰の道についてくる人が必ず起きるということです。
○外面的要因・人間の常識に左右されない
ロマ4:18-19
18 彼は望みえないときに望みを抱いて信じました。それは、「あなたの子孫はこのようになる」といわれていたとおりに、彼があらゆる国の人々の父となるためでした。19 アブラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることとを認めても、その信仰は弱まりませんでした。18 who, contrary to hope, in hope believed, so that he became the father of many nations, according to what was spoken, “So shall your descendants be.”19 And not being weak in faith, he did not consider his own body, already dead (since he was about a hundred years old), and the deadness of Sarah’s womb.
アブラハムもサラも年老いていました。常識では、赤ちゃんは生まれません。聖書は、「それでもかられの信仰は弱りませんでした。」とあります。信仰とは、外面的なコンディションによって左右されず、私たちの常識におさまらないことを覚えましょう。今、状況が悪くて、とても信じる気になれない人がいるなら、どうぞアブラハムに励まされてください。彼は、百歳でも子供が与えられると信じたのです。そして、それは、現実になりました!
○”それでも”信じるという信頼
ロマ4:21-24a
21 神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。22 だからこそ、それが彼の義とみなされたのです。23 しかし、「彼の義とみなされた」と書いてあるのは、ただ彼のためだけでなく、24 また私たちのためです。21 and being fully convinced that what He had promised He was also able to perform. 22 And therefore “it was accounted to him for righteousness.” 23 Now it was not written for his sake alone that it was imputed to him, 24 but also for us.
アブラハムは、自分の今の年齢や状況、いつまで待っても開かれないという事実よりも、神様にはそれでも成就する力があると、「堅く」信じました。私たちの信仰のチャレンジは、レイヤーになっています。初めは、自分が何の働きも無い者で不敬けんなものだと気づくところからです。信仰を持ち続けてもいろいろなチャレンジが人生の中にはあります。しかし、大変な状況の中でも、それでも、なお私は神様に信頼する! という強い姿勢が私たちには必要です。それこそ、本当の信仰だといえましょう。
自由意志/愛vs ご利益信仰
○イエス様を通して
ロマ4:24b-25
すなわち、私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちも、その信仰を義とみなされるのです。25 主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。It shall be imputed to us who believe in Him who raised up Jesus our Lord from the dead, 25 who was delivered up because of our offenses, and was raised because of our justification.
アブラハムは、キリストのいない時代にここまで信仰を貫きました。私たちには、キリストが与えられ、明らかにされています。考えてみると、アブラハムの時代に比べると、大きな恵みです。キリストに根差し、キリストと生き、キリストとともに死ぬ。キリストと共に生きる、そこに必要な助け励ましが聖霊様から来る。こんな、至れりつくせりなことはないでしょう。私たちは、キリストについて行く限り、義とされてるのです。
ぼ
日曜日の教会学校のボードです。子供たちが、聖書の言葉を覚えたり、お祈りしていることが、家庭にも反映しているようで、とても嬉しく思っています。教会学校に来たら、シールをご褒美で集めます。そして、教会学校の子供のお店で、お買い物ができます! 頑張れ、子供たち!
木曜日のロバの子スラスの一幕。。。J ちゃん。これでも、怒ったときの意思表示。口をとんがらがせます。。。しかし、怒っていること、あまり伝わらない。。。可愛すぎて。笑
2016年9月11日日曜日礼拝音声は、https://youtu.be/EZu1QSyXCNg
シリーズロマ書ですが。先週、一章では、ロマ書のメインテーマと、福音、義、そして、異邦人の罪について話しました。今日は、その続きです。続いて、人を裁く罪、ユダヤ人の罪と罪のお話しが続きます。義=正しさについて話すには、罪について話さないわけにはいられないからです。私たちは、みな正しくありたいという願望を心に持ちながら生きています。そして、それゆえに罪悪感に苦しんだりするわけです。人間の大きくの問題は、義に関することと言っても過言ではありません。
★ 人を裁く罪 ユダヤ人の罪The sins that judge others --- sins of Jew
ローマ2:1
ですから、すべて他人をさばく人よ。あなたに弁解の余地はありません。あなたは、他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めています。さばくあなたが、それと同じことを行っているからです。
一章の終わりで、様々な罪のリストがありました。そして、続いて、人を裁く人よ。あなたに弁明の余地はありません。。。。と続きます。人を裁く人は、誰でも、自分を罪に定めているというのです。
◎ 裁きについて
私たちは、裁きについて甘く考えていることが多い。良いか悪いかを決める。審判する。また、人を罪に定めることであるが。聖書は、誰をも裁いてはいけませんと書いてあります。裁かれないためだ。。。とルカ七章。人にレッテルを貼ることも裁きです。『あの人は、ああいう人だから。。。』というのも裁きです。あなたが、人を審判することが裁きです。
二つの側面。
① The plank from your own eye, and you will see clearly the speck from your brother’s eye. Matt. 7:5 自分の目の梁、他人の目のちり マタイ7:5
人は、人のしている悪には気が付くけど、自分の悪には気が付かない鈍さをもっている。それは、高慢さから出ているとも言える。
② Sawing and reaping Gal. 6:7 種まきと刈り取りの法則ガラテヤ6:7
人は、種まきと刈り取りの法則ガラテヤ6:7の通りに、人を裁く通りに、自分も裁かれるようになる。(自分が裁きを下した人と同じことをして裁かれるようになる)
この法則も、神の知恵です。それは、裁かれることによって、自分を知り、悔い改めに導かれるからです。
ローマ2: 4, 5
4 それとも、神の慈愛があなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と忍耐と寛容とを軽んじているのですか。
5 ところが、あなたは、かたくなさと悔い改めのない心のゆえに、御怒りの日、すなわち、神の正しいさばきの現われる日の御怒りを自分のために積み上げているのです。
◎ Self-righteousness (自己義)
人の罪の中で、いくつか大きいもの、取り除きにくいもの。悪魔が大好きなものがあります。それは、赦さない罪と、自己義。です。分かりやすい、悪人のする罪、盗みや暴力と比べて、目に見えにくいものです。かえって上品に見えている人の方が、大きな罪を持っているのかもしれません。
自己義、という言葉があります。これは、自分がいろいろと神様の御用をやっているし、罪を犯していないから自分は正しい、義だと思っていることです。これは、大きな間違いです。義は、一章でちらりと話しましたが、信仰によります。自分からは出てこないのです。自分で自分を正しく保てるのなら、神様はいらないのです。
パウロは、言っています。「神の慈愛が私たちを悔い改めに導くことをあなたがたは知らないのですか」
私の証し;
神学校行きたてのころ、私は、自己義満載の人でした。献身者たるもの、こうあるべきだ、みたいな考えでいました。そして、クラスメイトを裁いていました。「この人は召されていない。自分の力でここにいる。召しでなく、自分で何かになろうとしている。事実、あれもしない、これもしないじゃないか。」といつも裁いていた。一学期中自分がしんどかった。その人を見ると辛いし、自分がイライラする。あるとき、朝、聖書を読んでいる時、1ヨハネ4:8 「愛のないものに神は分かりません。なぜなら神は愛だからです。」という言葉に出会いました。とても、ショックを受けました。自分の持っていると思っているもの、自己義について強く示されました。私たちは、自分の測りで他人を測り裁いていますが、神の測りは、どこまでも愛であり、その愛の測りのないものは、神を知ってはいないのだ。。。と語られたのです。私は、泣き崩れ、悔い改めました。私の、愛のなさ。愛のアプローチの無さに気が付いて、自分がされたらどんなに傷つくかということも思い知らされました。そして、悔い改めました。私は、自分の自己義の大きさにはっきり直面することとなりました。
◎裁く人たちへの解放の鍵
神様の慈愛に気付くこと。愛の測りを知ること。そして、悔い改めること。この二つは、私たちの盲目な霊の目を開かせます。開かせて、まず自分自身が見えるようになるのです。
★律法を知っているひとたちへPeople who know the law of God.
律法というのは、聖書のことでもあります。アブラハムが信仰を持ち、そして、神の人となり、その子孫たちがユダヤ人となりました。ユダヤ人にモーセを通して十戒が与えられ。また、モーセが神の書物を書きました。ユダヤ人たちは、律法を持つている=神の民 ということで、自分たちのことをとても誇りに思っていたのです。そして、自分たちは、その律法という「測り」を持って、周りを測り続けていました。
しかし、パウロは、そこをついて、
ローマ2:13
13 それは、律法を聞く者が神の前に正しいのではなく、律法を行う者が正しいと認められるからです。13 (for not the hearers of the law are just in the sight of God, but the doers of the law will be justified;
ローマ2:16
16 私の福音によれば、神のさばきは、神がキリスト・イエスによって人々の隠されたことをさばかれる日に、行われるのです。16 in the day when God will judge the secrets of men by Jesus Christ, according to my gospel.
「律法を聞いている人が正しいのではなくて、行っている人が正しいんですよ。」と主張します。そして、「自己義も、裁きの日に、人の目には隠れていたとしても、神様に裁かれるのですよ。」と。
★心の割礼circumcision is that of the heart
ローマ2:26-29
26 もし割礼を受けていない人が律法の規定を守るなら、割礼を受けていなくても、割礼を受けている者とみなされないでしょうか。27 また、からだに割礼を受けていないで律法を守る者が、律法の文字と割礼がありながら律法にそむいているあなたを、さばくことにならないでしょうか。28 外見上のユダヤ人がユダヤ人なのではなく、外見上のからだの割礼が割礼なのではありません。29 かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による、心の割礼こそ割礼です。その誉れは、人からではなく、神から来るものです。
ユダヤ人と異邦人との大きな違いは、律法を持つか持たないかもそうですが、割礼もまた一つの違いです。割礼とは、神様との契約関係にあることを示し、男性の性器の一部を切り取るという儀式です。
しかし、割礼を受けていても、律法を行っていないなら、自分を裁くことになっていないか? というのです。ユダヤ人は、そもそも、人種でなく、アブラハムから始まった信仰を引き継ぎ、神様と関係のある人がユダヤ人なのですから、外見上のユダヤ人、人目に隠れたユダヤ人という言い方をしています。
文字ではなく、御霊による心の割礼こそ、割礼である。すなわち、神様に示され、心から悔い改めること、そこに聖霊様が働く、それこそ、本当の割礼であり、それは、人の業ではなく、神の業であり、神の栄光である。というのです。
二章、いかがでしたか? 今日は、自己義を取るか、神の愛の測りを取るか? ということだけ覚えていただけたらと思います。今週も神の愛にとどまりましょう。
ぼ
アマゾンの例のバナナ配りですが。最近ユニフォームを着ておられます。どうやら、バナナを渡す人たちのことを、バリスタならぬ、「バニスタ」というようです。。。。しかも、12 の背番号です。これは、シーホークスのサポーターというこてでしょうか。。。。いろんな意味で、パロってます。
日曜日は、エリックの誕生日祝いを教会で。好物のバナナケーキをグルテンフリーで作って持っていきました。。。図らずも、メンズテーブルになってます。。。
2016年8月21日日曜日礼拝音声は、https://youtu.be/JYXPsXiKdKc
一つ心、一つmindのコミュニティの中で、欠かせないことがあります。それは、英語では、Sonship と言いますが、日本語では、「子であること」です。子であることがなぜ、一つになることにおいて重要なのでしょうか。二週間前は、「孤児の心」のことを話しました。子であることが分からないと、私たちは、交わりを避けるようになり、真の人間関係よりも、自分が何かを達成することによって、人に認められたい、また人に受け入れられようとします、あるいは、人の優位に立って、グループの中で自分のアイデンティティを保とうとします。。このような、力が働いていては、真のコミュニティを築くことができないのです。
今日は、「子であること」パート2ということで、父と子の関係、父なる神の子であるあなたの独自性について話してみたいと思います。
★誰が神の子であるのか
父なる神の子、イエス・キリストを信じるだけで、私たちは、神の子となる特権が与えられる。それは、罪の生き方をやめる決意であり、キリストが自分の罪の刑罰として身代わりに十字架にかかってくださったことを信じることです。
ヨハネ1:12
12 しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。 But as many as received Him, to them He gave the right to become children of God, to those who believe in His name:
と、ある通り、キリストによって私たちは、神の子とされるのです。
○神の家族の交わりに入れられる
神の子となり、神の家族の一員となった私たちには、天のお父さんを「アバ、父」(おとうちゃん)と呼ぶ霊が心に宿ります。そして、三位一体の神が互いに交わっているように、家族の交わりの中に入ります。
Ⅰヨハネ1: 3
私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。3 that which we have seen and heard we declare to you, that you also may have fellowship with us; and truly our fellowship is with the Father and with His Son Jesus Christ.
Ⅰヨハネ1: 7
7 しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。7 But if we walk in the light as He is in the light, we have fellowship with one another, and the blood of Jesus Christ His Son cleanses us from all sin.
「一つ」となることについて話してますが、真の交わりのためには、一人一人の罪が解決し、光の中を一人一人が歩んでいなければならないことが分かります。これは、何も努力して修行をして罪を絶対に犯さない完ぺきな人間になってから、というのではありません。恥を明るみにだして、ありのままの自分で、罪を取り去るキリストに信頼して光の中を歩むことです。その時に、私たちの間に隠れる恥が無くなり、私たちは、ますます一つになるのです。
―――バンデージブレーキングとアカウンタビリティーグループの例
○キリストと共同相続人となる。
ロマ8:14-17 14 神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。15 あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父」と呼びます。16 私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。17 もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光とをともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。14 For as many as are led by the Spirit of God, these are sons of God. 15 For you did not receive the spirit of bondage again to fear, but you received the Spirit of adoption by whom we cry out, “Abba, Father.” 16 The Spirit Himself bears witness with our spirit that we are children of God, 17 and if children, then heirs—heirs of God and joint heirs with Christ, if indeed we suffer with Him, that we may also be glorified together.
天の霊的財産はキリストによって私のものとなった
私たちの身分は、一気に変わります。キリストと天の共同相続人となるのです。私たちが稼がなかったものを私たちは受けるのです。天では、すでに「キリスト=あなた」とみなされているのです。しかし、私たちがいつまでも生まれたての赤ちゃんでは、この相続財産を有効活用することができません。赤ちゃんは相続が決まっているけれでも、親は、現金を全部赤ちゃんに任せたりはしませんね。私たちは、どのように子として、成熟していったらいいのでしょうか。そこが問題となっています。
まず第一に
★子であることに充足していること
そこに、充足しているか。Doing < Being これが分からなければ、主の働きをするのが難しい。
私の経験; 孤児の心を持っていた私は、何もできなくなるくらいに疲れ果てたことがあった。そして、ただただ毎日神様の癒し、父なる神様の懐で休むことだけを目標にするしかない時期があった。そんなとき、一人の傷ついている人が私の目の前に来て、目があった瞬間に、その人が泣き出した。一緒に泣いた。そして、何と、不思議なことにその人の心がそれ以来癒されたのだ。。。
父なる神の懐にとどまるパワフルさを初めて経験した一瞬だった。
★イエス様の子としてのモデル(模範)
Everything that Jesus did, He did as a son to a father – this is the life and the lifestyle to which we are to be conformed. (John Alley)
私たちの人生の目的は、キリストを信じたときから、キリストの追従者となりましたね。そして、一番のゴールは、キリストのように生きることとなりました。イエス様はどんな風に地上を生きてくださったのでしょうか。
イエス様は、彼の神の子としてのアイデンティティを生涯全うされた。わたしはこれを喜ぶといわれ、また、荒野での試みでは、アイデンティティをことごとく試された。十字架にかかる時にも、最後まで独自性を失うことがなかった。
何かを成し遂げる以上に、何者であるかを自分が知り、つかみ、離さないところに強さがある。
私たちは、自分の神の子である独自性の中に安息を見出し、そして、充足してこそ、自分のミニストリーを全うすることができる。
その上で、父なる神に従ったイエス様
キリストは、自分のエゴをいかす生き方はしなかった。すべて、父なる神の心とともにあり、父なる神の時に従った。父のしていることをし、父のいるところにいると言った。
ヨハネ5: 19
そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分からは何事も行うことができません。父がなさることは何でも、子も同様に行うのです。19 Then Jesus answered and said to them, “Most assuredly, I say to you, the Son can do nothing of Himself, but what He sees the Father do; for whatever He does, the Son also does in like manner.
マルコ14: 36
またこう言われた。「アバ、父よ。あなたにおできにならないことはありません。どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください。」36 And He said, “Abba, Father, all things are possible for You. Take this cup away from Me; nevertheless, not what I will, but what You will.”
イエス様は、わたしを見たものは父をも見たのです。。。と言われるほどに、父と心を一つにしていた。父の心を知り、父について行くイエス様、そのイエス様について行くというのが私たちの生き方なのです。父の心と一つになることが鍵となります。。。また、これが、子の成熟の鍵でもあります。
子である資質については、次の週でお話しします。
ぼ
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