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ロマ書六章 キリストに継ぎ合わされて

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今日は、かわいいちゃんのおじい... 今日は、かわいいちゃんのおじいちゃんが日本から訪問されていて、教会にも来てくれましたーー。しかし、お若い!!
今日は、子供たちは、帰国中や風邪で、かわいいちゃん姉妹たちだけでした。。。寂しそうでしたーー。また、早くみんな元気になって教会で会いたいね!
2016年10月30日日曜日礼拝音声は、https://youtu.be/Kf4IqxH_bP0

聖書箇所 ロマ6:1-14, 23

五章では、信仰によってもたらされる義、そして、義がもたらす平和、喜び、栄光について話しました。今日は、続いて六章を見ていきましょう。

★ 恵みのためにもっと罪を犯すべき?

V1-2  1それでは、どういうことになりますか。恵みが増し加わるために、私たちは罪の中にとどまるべきでしょうか。2 絶対にそんなことはありません。罪に対して死んだ私たちが、どうして、なおもその中に生きていられるでしょう。What shall we say then? Shall we continue in sin that grace may abound? 2 Certainly not! How shall we who died to sin live any longer in it?

五章の終わりの方に、罪が増し加わるところに、恵みも増し加わるのなら、もっと罪を犯しましょうという人たちがいるのに対して、そんなことは絶対にありえない。とパウロが言っています。

この章後でパウロが、罪の奴隷と神の奴隷という表現を使っていますが、どちらかに属する道しか私たちにはないのです。ですから、恵みのために罪を犯そうという論理は存在しないのです。なぜなら、そもそも、キリストを信じることとはどういうことでしょうか。またどんな変化をもたらせたのでしょうか。

★ バプテスマ・洗礼とは?

V3- 6 3 それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。4 私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。
5 もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。
6 私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています
バプテスマ、洗礼式を見たことがありますか? バプテスマとは、浸されること。実際に水の中に全身を浸します。イエス・キリストを信じて生きていきますという、人の前にも神の前にも宣言する式。入学式であり、お葬式でもある。4節にあるように、バプテスマは、水の中に完全に入っている時を死とみなし、水から上がるときを復活、新しい命で生きることを表しています。

キリストの死と葬りと復活を水を通して体験し、信仰を公にします。
ここで大切なのは、5節にあるように、キリストに継ぎ合わされることです。継ぎ合わされるとは、どういうことでしょうか。
○ 継ぎ合わされる, planted together; スンフートスsoom'-foo-tos (ギ) …born together with, of joint origin, connate

一つとされることです。接ぎ木をされているようなものですね。根っこが同じ。同じものとされることです。

キリストの死と継ぎ合わされ、キリストの復活と継ぎ合わされることで、新しく生きられるというのです。

○ V6 罪の奴隷でなくなるため。

奴隷とは、鎖につながれて、自分の自由がありません。自分の意思に関わらず、働かなければなりません。罪人というのは、調度そのようです。頭では、してはいけないことと分かっているのにも関わらず、やってしまうのが罪ではないでしょうか。まるで奴隷のようです。

★ 死ななきゃ治らない?   
   鍵は信仰 信じること。人は信じていることしか行動に移せない

V7-10 7 死んでしまった者は、罪から解放されているのです。
8 もし私たちがキリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きることにもなる、と信じます。
9 キリストは死者の中からよみがえって、もはや死ぬことはなく、死はもはやキリストを支配しないことを、私たちは知っています。
10 なぜなら、キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、キリストが生きておられるのは、神に対して生きておられるのだからです。

「馬鹿は死ななきゃ治らない」ということわざが日本にありますが。英語では、the only cure for a fool is death; once a fool, always a food と言えますが。罪を犯す性質というのは、人間が生きている限り無くなることはないのです。それこそ、死ななきゃ治らないものであります。

罪をやめるということは、人間をやめるしか道がないのです。神様の標準を満たす清さというのは、人間では到達できないのです。先日その暴言が取り上げられた尼さんがいましたが、どんなに修行しても死ななきゃ治らない性質っていうものがあるのです。

私たちは、死ななきゃいけないのです。しかし、私たちがしなくてもいいように、キリストが私の身代わりに十字架で死んでくださったのです。私は、どうやって死んだらいいのでしょうか。それは、自分の罪がキリストの十字架で一緒に死んだことを信じることです。

古い人…生きている自我・キリストとともに死んでない内なる人  これが私たちに葛藤を与え、他人に不快を与えます。

信仰による死がもたらす利益

○ 復活がある … みなさん、死ななければ、復活がないのです。あなたの自我、決断、判断、ジャッジをするところが、生きていては、復活がないのです。あなたは、自分に死んでいますか?

○ 感じなくなる … 生きている人は、痛みがあります、いらいらします。いろいろと思い悩みます。しかし、死んだ人には、そんなことがありません。何も感じなくなるのです。例えば、あなたをいらいらさせる人がいるとします。あなたは、相手のここが悪いあそこが悪いと、自我を用いて相手を裁き、余計にイライラします。死んでいないのです。死ぬことは、自分の自我がキリストの十字架の上にあることを認めることです。
そんな、馬鹿な。。。どうやって。このイライラがなくなるの? と思うかもしれません。
聖書のHow? は、いつでも、信仰です。信じることです。
あなたの古い罪の性質が十字架で死んだことを信じることです。

人は、自分の信じている通りにしか行動しません。あなたが、自分が生きていると信じているのに、キリストとともに生きることはできないのです。
死が無ければ復活がないからです。

★ 律法の下ではなく、恵みの下に! 鍵は信仰

V11-14 11 このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。
12 ですから、あなたがたの死ぬべきからだを罪の支配にゆだねて、その情欲に従ってはいけません。
13 また、あなたがたの手足を不義の器として罪にささげてはいけません。むしろ、死者の中から生かされた者として、あなたがた自身とその手足を義の器として神にささげなさい。
14 というのは、罪はあなたがたを支配することがないからです。なぜなら、あなたがたは律法の下にはなく、恵みの下にあるからです。.

キリストの十字架の死と葬りと復活と継ぎ合わされた人は、自分から好んで罪を犯そうという発想がなくなります。罪を犯す、古い人・生きている自我に対して気が付いていて、罪に対しても死んでいるのです。また、罪を自ら犯すことを信じてないからです。そして、今までは、罪の支配の中にいて、律法の支配の下にいたのが、恵みの下に移されていると14節にあります。

律法の下というのは、あなたがすることなすこと、律法に照らし合わされて、裁かれる世界です。これもできてない、あれもできてない、できるようにならなければと私たちを急き立てるものです。しかし、恵みの支配とはなんでしょうか。

恵みとは、私たちに必要な力を与えて、神のために生き、神の御心に沿って生きることができるすべての能力が与えられることです。超自然的な力が与えられることです。罪の奴隷から解放された人は、恵の支配が約束されています。

今日、どれくらいの人が、この恵みをあてにして生きているでしょうか。ここに期待して、かけて生きているでしょうか。
もう一度いいます、死んでいる人でないと、恵みの支配下にいないのです。両方に足を突っ込んで生きる道は存在しないのです。

★ 神の下さる賜物

V23 罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。 For the wages of sin is death, but the gift of God is eternal life in Christ Jesus our Lord.

続いて、罪の支配の至る道は、死であり、キリストに継ぎ合わされた人の道は、永遠のいのちに至ると続きます。

ここに、「神の下さる賜物」は、とあります。いのちに至る道の生き方は、神様からのプレゼント、贈り物であって、あなたが労苦して稼ぐものではありません。このプレゼントは、信じることから始まります。そして、死ぬことを通して、復活の命にあふれさせます。死ぬことを通して恵みに満ち溢れさせます。

あなたの自我は、今日どこにありますか? 悩み、もがきがありますか。キリストの死と復活に継ぎ合わされましょう。恵みの支配に入りましょう。


#キリスト教 #クリスチャン #信仰 #教会 #礼拝 #聖書

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Speaking in Tongues 異言の祈りについて

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日曜日は、ゆきくんの18才の御... 日曜日は、ゆきくんの18才の御誕生日をお祝いしました。
教会にきだしたころは、8歳か、9歳くらいだったかなぁ。。。。可愛かったことを覚えていますが、こんなに立派な大人になりました。ハレルヤ。神様感謝します! 教会のみなさんで祝福のお祈りができました。これからも、素敵な男性に育っていきますように。。。。
この日曜日は、初めて、エリックがメッセージをしました。

23 Oct 2016日曜日礼拝メッセージ

Eric’s Story of Speaking in Tongues. エリックの体験談
Holy Spirit gives us the ability to speak in other tongues: 
聖霊様が私たちに異言で話す能力を下さる

Acts使徒 2:1-4
“And when the day of Pentecost was fully come, they were all with one accord in one place. 2 And suddenly there came a sound from heaven as of a rushing mighty wind, and it filled all the house where they were sittng. 3 And there appeared to them cloven tongues like as of fire, and it sat upon each of them. 4 And they were all filled with the Holy Ghost, and began to speak with other tongues, as the Spirit gave them utterance.” 五旬節の日になって、みなが一つの所に集まっていた。2 すると突然、天から、激しい風が吹いて来るゆな響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。3 また、炎のような分かれた舌が現れて、ひとりひとりの上にとどまった。4 すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。

① Unity 一致について

I also love the encouraging words of the Apostle Paul on the subject.パウロはまた言いました

1 Cor.コリント 14:18
“I thank my God, I speak with tongues more than ye all.” 私は、あなたがたのだれよりも多くの異言を話すことを神に感謝していますが、

② Don’t strive 自分の努力によらない

Ps. 詩編46:10 “Be still, and know that I am God…” 
“let go and let God” あきらめて、神様にしてもらうこと


③ Edifying yourself 自分の徳を高める

1 Cor. コリント14:4 “He that speaketh in an unknown tongue edifieth himself…” 異言を話す者は自分の徳を高めますが、預言する者は教会の徳を高めます。

④ Intercession とりなし

Rom.ロマ8:26
“Likewise the Spirit also helpeth our infirmities: for we know not what we should pray for as we ought: for the Spirit itself maketh intercession for us with groaning which cannot be uttered.”  御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。

It is a supernatural solution to natural problems. 自然界の問題に対する超自然的な解決が与えられる。

⑤ Mind doesn’t bear fruit; 知性は実を結ばない

1 Cor.コリント14:2
“For he that speaketh in an unknown tongue speaketh not unto men, but unto God: for no man understandeth him; howbeit in the spirit he speaketh mysteries.”もし私が異言で祈るなら、私の霊は祈るが、私の知性は実を結ばないのです。

“Could you not spare one Hour?” 一時間もできないのか?
という、ムーブメントが昔ありましたが、
異言の祈りなら、いつでもどこでも、いくらでも祈ることができます。




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イエス様からの招き デレック・ブラウン

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すっかり秋のシアトルです。お友... すっかり秋のシアトルです。お友達が朝とった写真です。
美しいシアトル。。。。
先週来週は、ずっと雨ですが、これもシアトルらしい。
木の葉もすっかり紅葉して、雨と風で道は絨毯のようになっています。。。
ヨハネ21章1-14節

1 この後、イエスはテベリヤの湖畔で、もう一度ご自分を弟子たちに現された。その現された次第はこうであった。
2 シモン・ペテロ、デドモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナのナタナエル、ゼベダイの子たち、ほかにふたりの弟子がいっしょにいた。
3 シモン・ペテロが彼らに言った。「私は漁に行く。」彼らは言った。「私たちもいっしょに行きましょう。」彼らは出かけて、小舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。
4 夜が明けそめたとき、イエスは岸べに立たれた。けれども弟子たちには、それがイエスであることがわからなかった。
5 イエスは彼らに言われた。「子どもたちよ。食べる物がありませんね。」彼らは答えた。「はい。ありません。」
6 イエスは彼らに言われた。「舟の右側に網をおろしなさい。そうすれば、とれます。」そこで、彼らは網をおろした。すると、おびただしい魚のために、網を引き上げることができなかった。
7 そこで、イエスの愛されたあの弟子がペテロに言った。「主です。」すると、シモン・ペテロは、主であると聞いて、裸だったので、上着をまとって、湖に飛び込んだ。
8 しかし、ほかの弟子たちは、魚の満ちたその網を引いて、小舟でやって来た。陸地から遠くなく、百メートル足らずの距離だったからである。
9 こうして彼らが陸地に上がったとき、そこに炭火とその上に載せた魚と、パンがあるのを見た。
10 イエスは彼らに言われた。「あなたがたの今とった魚を幾匹か持って来なさい。」
11 シモン・ペテロは舟に上がって、網を陸地に引き上げた、それは百五十三匹の大きな魚でいっぱいであった。それほど多かったけれども、網は破れなかった。
12 イエスは彼らに言われた。「さあ来て、朝の食事をしなさい。」弟子たちは主であることを知っていたので、だれも「あなたはどなたですか」とあえて尋ねる者はいなかった。
13 イエスは来て、パンを取り、彼らにお与えになった。また、魚も同じようにされた。
14 イエスが、死人の中からよみがえってから、弟子たちにご自分を現されたのは、すでにこれで三度目である。

今日は、イギリスから、デレック・ブラウン先生をお迎えしての合同礼拝でした。ですから、今日は、日本人教会はありませんでした。ブラウン先生のメッセージは、次の通り

I am.

旧約聖書で神様がご自分の名前を、「わたしは、ある」と紹介されましたが、神様は、I am. であると今朝協調しておられる。

イエス様は、昨日も今日も明日も同じ。しかし、昨日の油注ぎは、昨日のものであり、今日は今日でI am. と言うお方がともにおられるのです。

今朝、ここにイエス様が来られたらどんなだろう。。。。本来イエス様中心の教会であるはずなのに、教会は宗教的になりすぎて、I am. であるお方を見逃している。

ヨハネ21章の一節に、英語では、the morning comes there stood Jesus. その後、朝が来て、イエスがそこに立っておられた。とある。

今日皆さん、朝ここに来られて、どんな気持ちでここに来たかしりませんが、いろんなことがあり、いろんな思いを引きずりながら来たことでしょう。しかし、それでも、朝がくる。そして、聖書は、そこにイエスがおられたと書いてあるのです。

聖書は、「夜に涙を流しても、朝には喜びがある」とあります。また、「神の恵みは朝毎に新しい。」とあります。ヨハネ21章も、いろいろなことの後に、この朝が来ました。キリストの癒し、みわざ、弟子たちの召し、ペテロの裏切り、イエス様の十字架の死、イエス様は、自分が生きていることを四十日間人々に現され、示されました。復活を信じない人たちに現れました。

ルカの15章で、何もかも捨ててきたという弟子たちに、これからは人をとる漁師になると約束されました。

あなたも、そうだ、そんな約束もあったものだ。あんな夢ももったものだと思うことがあるかもしれない。。。

ペテロは、どうしていいかわらなかったので、昔なじみの漁に出ることにした。そして、他の友たちもついてきた。

皆さん、いいですか、この朝、イエス様はご自分を表されたのです。すべては、イエス・キリストなのです。
いいワーシップでも、教会でも、いいメッセージを聞くことでもないのです、イエス・キリストです。キリストに関することであります。

ペテロは、漁にでました。彼は、自分の召命に対して、迂回をするようにして漁にでました。そこには、絶望と、自分に対する失望があったからです。
そして、漁に出てても、昔からなじんだ仕事であっても、何もとれなかったのです。一匹もです。
私たちも、よくなれている仕事があるでしょう、癒しのミニストリーでも、預言でも、牧会でも慣れ親しんできた仕事でも、うまくいかない、一匹もとれないようなことがある。

イエス・キリストの臨在こそが、魚を引き寄せる一番の要因であるのです。

イエスがそこにおられるかどうか、が重要なのです。

学校に行こうが、何をしようが、そこにイエスがいるかどうかで、全ては違ってくるのです。

There stood Jesus
イエスはそこに立っておられた。

しかし、弟子たちは、イエスが分からなかったのです。

「こどもたちよ、魚がとれましたか?」 ときかれても、分からなかった。イエス様は、あなた方に今、この季節、「イエスがいる」ことを知ってほしいのです。イエス・キリストがすべてであることを。

「右に網をおろしてみなさい」と言われました。そう言われてもイエスと気が付かなかったでしたち。
右側というのは、なぜ右側なのか。ここには、深遠な意味がある。

右は、権威という意味がある。弟子たちが、権威をそこに招いたときに、大量の魚がとれた。いくら働いても、キリストの権威なしに働いても何もとれないのです。

また、有名な放蕩息子の絵画を見たことがあるだろうか。放蕩息子を抱く父の手であるが、右は、女性の手をしており、左は男の手をしている。右は、母のやさしさを表す。母のやさしさは、我々は、ただ受け入れるということであるが、我々は、しばしば、それをしようとはしない。

また、この朝に、岸辺からイエスの声がするとはだれが想像しただろう。キリストは、私たちが今まで予想したことのないところから語り掛けるというしるしである。

イエス・キリストが我々の中心である。

ヨハネは、言った。「主です!」

いくら熱心に主の仕事をしていようと、どんな立派な仕事をしようが、キリストと関係を持っていなければ、分からない。ヨハネは、キリストとの親しい関係にあって、それが主であると分かったのです。

ペテロは、それと聞いて、裸であったが、そこにある、漁師の服をまとってから水に飛び込んだ。何を示しているのだろう。一度、キリストから、人を取る漁師にしてあげようと召された。

その召命の象徴として服をまとい、思い切って水に飛び込んでイエス様のもとに急いだのであった。再献身の始まりであった。

今日一日のためイエスを求めよう。今日一日のみことばを求めよう。あなたの召命の服を着て水に飛び込もう。あなたには、フレッシュな信仰が必要です。今日、再献身して、召しに生きるためには、新しく神を信頼する必要があります。今日一日の信仰でいいのです。

イエスは、パンと魚を用意して待っていた。キリストご自身は、いのちのパンと言われるおかたである。これは、キリストからの個人的なあなたへの招きであります。

朝食は、英語で、Breakfast といいます。つまり、Break the fast 断食をやめる。食べない、不足していることを破ることです。
あなたの過去の失敗、成功しない道、なかなか取れない漁、家族の問題、何も開かれないそういう 不足の気持ちを破ることです。
イエスがともにいて、食事をさせてくださり、そして、その断食を破らせてくださいます。

イエスは、来なさいと招いています。これは、新しい献身の第一歩であり、始まりです。昨日のことは、終わりました。今日から、あなたは新たにまた力を得るのです。


#キリスト教 #クリスチャン #信仰 #教会 #礼拝 #聖書

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ローマ書五章1-11 節 義がもたらした変化

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ご近所に、水曜日に新しいスタバ... ご近所に、水曜日に新しいスタバができましたー。ここにスタバがあったなーーと思っていた調度そこにできました。
マーサーストリートにあります。
店内には、これでもか、とコンセ... 店内には、これでもか、とコンセントの数。椅子のないところにも。。。ここも、アマゾニアンで朝は、ごった返しています。 そのお向かいのビルですが、大き... そのお向かいのビルですが、大きなガラス窓がびりびりに、、レースのように、細かくひびが入っています。光に反射して、とても美しいです。壊れたものなのに、こんなに美しいなんて、なんとなく、誌的だなーーと思って思わず写真をパチリ。。。ここは、お散歩コースです。こちらもマーサーストリートです。
2016年10月9日日曜日礼拝音声は、https://youtu.be/NQcxDlaaH4w

先週は、義をもたらす信仰について話しましたね。さて、信仰を持った私たちに、一体どのような変化が起こるのでしょうか。ということを五章を通して学んで行きましょう。

★シャロームの中に招き入れられた

V1,2 ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。2 またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。Therefore, having been justified by faith, we have peace with God through our Lord Jesus Christ, 2 through whom also we have access by faith into this grace in which we stand, and rejoice in hope of the glory of God.

パウロは、この恵みに入れてくださった神の栄光を大いに喜んでいると語ります。信仰によって義とされた私たちは、神の平安に招き入れられた。キリストによって平安が与えられたとあります。

平安というのは、旧約聖書の神の名でも同じみ、ジェホバ・シャロームに代表する、神のご性質でもあり、私たちにとって大きな意味のあることです。

シャロームとは、ただ何もない静けさ安らかさではなく、混沌とした状態から神によって回復された状態をさします。戦いの中でも与えられる平安。。。もちろん新約聖書では、ギリシャ語を使いますから、ここでは、エイレーネという言葉、同じく平安が使われていますが、これもまた似たような意味が込められています。エイレーネの語源は、つなぐ、加わるという言葉です。二つのものを一つにしたうえでの平安です。なかなか、奥が深いですね。

すなわち、罪の混沌、暗闇を通り抜け、今や、キリストによって、神の回復に加えられている。そして、キリストとの親しい交わりの中で安らぎを得ている、そんな場所に私たちは入れられているのですよ。ということです。

Shalom / Eirene  Restored / to join to connect の語源…神との親しい交わりに加わっている

★患難の意味の変化

続く聖句が、

V3-5 3 そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、4 忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。5 この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。3 And not only that, but we also glory in tribulations, knowing that tribulation produces perseverance; 4 and perseverance, character; and character, hope. 5 Now hope does not disappoint, because the love of God has been poured out in our hearts by the Holy Spirit who was given to us.

なぜ、患難の話しがこの場面で出てくるのでしょう。やはり、当時迫害があったからでしょう。信仰ゆえの苦しみというのは、義、信仰、そしてキリストのことを話す時には切り離せなかったことがらだったのでしょう。

信仰によって義とされたキリスト者は、患難に対するものの見方が変化する。患難を喜ぶのはキリスト教の特徴でもある。(中国宣教の証し:音声でお聞きください)
自分自身が平安の中に入れられていることを軸にしているからです。すなわち、どういうとでしょうか。神のGOODNESS を軸にしているのです。そこに根差して生きているのがキリスト者なわけです。

キリストを信じる前は、患難、苦しみは、私にとっては、苦しむためだけのもの、それを通して強くなるとしても、ディフェンスメカニズムを作って、内面的に不健康な人になってしまいました。主を信じて通る患難とは、パウロは次のように語っています。
「患難さえも喜んでいます。」と。喜び…誇りに思うの意も含む

○忍耐が練られた品性をうみ

 忍耐…hypomoneヒポモネーギリシャ語の言葉の意味は、「下に続く」前向きに継続的に待ち望むことです。すなわち、神の良さに信頼して、前向きに、従っていくことです。そして、それが練られた品性を産みだします。

 品性とは、人格ですね。練られるというのは、試験されて、試されて、やっぱり本物であると、確認されることです。安全な車でも、ちゃんと試験を通って、この車は安全です、衝撃テストなどを受けて、ここまでは大丈夫ですと証明されます。それと同じように、この人の人格は間違いないと神様からお墨付きをもらうのです。

○希望に導く品性

 品性は、もちろん一晩で出来上がったりしません。悩みながら神様に聞きながらできていきます。まるで、炉にいられて火で精錬される金のように、たくさんの金粕がでてくるでしょう。それらを取り除きながら、純粋なものになってくのです。
品性の作りの作業において、神様の関係は切り離せません。もちろん、忍耐とは、神様の素晴らしさに信頼しての忍耐ですから。自分を知り、神を知る機会となります。この過程の中で、希望が生まれます。また、逆に言えば、品性なくしては、希望はないといえます。

希望とは、将来の記憶。将来のこと、まだ実際に起きてないことが、良いことと信じること。

絶望をとおらなけば希望もない。本当に希望をはっきりと持っている人は、苦労していない人ではなく、実は、苦労している人であります。

キリストは、希望をもって、目の前の十字架をもろともせずに、従ったとへブル書に書いてあります。

へブル12:2 信仰の創始者であり、完成者でイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。looking unto Jesus, the author and finisher of our faith, who for the joy that was set before Him endured the cross, despising the shame, and has sat down at the right hand of the throne of God.

○聖霊によって

神の霊は、ギャップを埋める。こないだ聞いたレクチャーのなかでの話です。脳の神経、シナプスとシナプスはくっついていない。間が空いている。そのあいだがあるにも関わらず、感情、記憶、ホルモンの分泌など、必要な情報が伝わっていく。その学者は言いました。神は、初めからおられた。神は、そのギャップを埋める方だと。

私たちは、神様の働き方について分からない。

頭でわからないこと。霊によって感じながら試練の中をすごす。神様は、私たちが見えていない、ギャップの中ですでに、いつも働いておられるのです。

証し; キリストを信じているからということで、難しい状況に直面することが多かった。どうしていいか、分からなかった。言い返すのも違うし。心の中で一呼吸して、神様を呼んだ。ただ、祈った。その時、腹の底に熱いものがこみあげてきた。「私は神に愛されている」という強い確信がこみあげた。そして、二年後にすべてが益にされた。詳細は、音声にてお聞きください。

★神を喜ぶ生活へ shalom の確認

信仰ゆえの患難についての話からまた、シャロームに戻ります。いかに、キリストが私たちのシャロームを作ってくださったか、また、私たちは、どれだけ、神を喜んで生きているのかということの確認になっています。

V6-11
6 私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。7 正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。8 しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。9 ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらです。10 もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです。11 そればかりでなく、私たちのために今や和解を成り立たせてくださった私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を大いに喜んでいるのです。For when we were still without strength, in due time Christ died for the ungodly. 7 For scarcely for a righteous man will one die; yet perhaps for a good man someone would even dare to die. 8 But God demonstrates His own love toward us, in that while we were still sinners, Christ died for us. 9 Much more then, having now been justified by His blood, we shall be saved from wrath through Him. 10 For if when we were enemies we were reconciled to God through the death of His Son, much more, having been reconciled, we shall be saved by His life. 11 And not only that, but we also rejoice in God through our Lord Jesus Christ, through whom we have now received the reconciliation.

今日は、パウロが、平安と喜びに挟まれた、患難のお話しをしてくれたと思います。すでに平安、シャロームに入れられた私たちですから、私たちがどんな、試練に会おうとも、神様とともに、耐え抜くときに、そこにまた、回復をもたらす力が働き、私たちを喜びから喜びに導いてくださる。

神様は、今日私たちにそのように語っておられるのではないでしようか。

#キリスト教 #クリスチャン #信仰 #教会 #礼拝 #聖書

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ローマ四章 Romans Chapter 4

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私の学校の学生ラウンジ。ご飯を... 私の学校の学生ラウンジ。ご飯を食べたり、本を読んだり。。。とてもピースフルです。。。。 何とか、忙しい中、ジムに行きま... 何とか、忙しい中、ジムに行きました。あれ、サウスレイクユニオンに、ゾカコーヒーが来てるーー!!! 嬉しいーー。今まで、グリーンレイクに行ってたんですよねー。しかし、アマゾニアンですごい賑わいです。列が、長いです。。。。。
2016年10月2日日曜日礼拝メッセージ音声は、https://youtu.be/F_QsVKWrqSU

先週は、ローマ三章からユダヤ人の誇り律法と義について話しました。今日は、義をもたらす信仰について話したいと思います。ローマ書四章では、主にアブラハムの人生に重ねてパウロは信仰について説明しています。

★義に導く信仰

○自分の限界を知る

ロマ4:5
5 何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです。5 But to him who does not work but believes on Him who justifies the ungodly, his faith is accounted for righteousness,

 この箇所を読んだときに、これまで三章読んでみて、以前と違うように聞こえました。「自分が、何の良い働きもしていない、不敬けんな者であると認めることができるか? 」ということです。ユダヤ人たちは、自分たちを敬けんな人間だととらえ、律法に従って良い行いをしていると自分たち自身を信じていたのです。信仰への始まりは、自分の限界を知り、自分に絶望することです。

○儀式・形式によらない、信仰は心を変えるものである

ロマ4:10
10 どのようにして、その信仰が義とみなされたのでしょうか。割礼を受けてからでしょうか。まだ割礼を受けていないときにでしょうか。割礼を受けてからではなく、割礼を受けていないときにです。10 How then was it accounted? While he was circumcised, or uncircumcised? Not while circumcised, but while uncircumcised.

アブラハムは、割礼を受けたので義と認められたのではありません。彼は、心で神様を信じたときに、義と認められました。私たちは、心の中のコンディションと外の形式をやったらないを混同してはなりません。心が変わらなければ、義とはならないのです。

私たちの場合で言えば、あなたが、もし宗教行事に定期的に参加していても、心が変わらなかったならば、意味がないのです。それは、人のせいにはできません
神様と自分との関係の中で吟味しなければなりません。よく受身的に、自分は恵まれないとか、もう教えられることはないとかいう方に出会いますが、真の霊の人は、どんな状況からでも学ぶことができる人です。母教会の牧師から教えられたことの一つ。。。高慢は、耳を閉ざすが一番の妨げ。

○信仰は私たちに約束を与える

ロマ4:13-14
13 というのは、世界の相続人となるという約束が、アブラハムに、あるいはまた、その子孫に与えられたのは、律法によってではなく、信仰の義によったからです。
14 もし律法による者が相続人であるとするなら、信仰はむなしくなり、約束は無効になってしまいます。13 For the promise that he would be the heir of the world was not to Abraham or to his seed through the law, but through the righteousness of faith. 14 For if those who are of the law are heirs, faith is made void and the promise made of no effect, 15 because the law brings about wrath; for where there is no law there is no transgression.

「大切なのは信仰・希望・愛だ」とⅠコリント13章にありますが、私たちが信じるとき、必ず受け取るものがあります。それは、希望です。希望とは、自分の将来・まだ見ないことをを信じることです。それは、神に対する信頼、初めて、心で「神様、あなたを心で信じます。私は、不敬けんなものです、律法も守れません。けれども、救いをもたらす神様を信じます。信頼して生きていきます。」というときに、必ず、将来へ約束である希望がもたらされます。アブラハムは、信じたので、世界の相続人となる約束が与えられました。まだ、子供がいない時にです。

○祝福の継承の約束

ロマ4:16
16 そのようなわけで、世界の相続人となることは、信仰によるのです。それは、恵みによるためであり、こうして約束がすべての子孫に、すなわち、律法を持って いる人々にだけでなく、アブラハムの信仰にならう人々にも保証されるためなのです。「わたしは、あなたをあらゆる国の人々の父とした」と書いてあるとおり に、アブラハムは私たちすべての者の父なのです。16 Therefore it is of faith that it might be according to grace, so that the promise might be sure to all the seed, not only to those who are of the law, but also to those who are of the faith of Abraham, who is the father of us all.

約束は、アブラハムの信仰に習っている人たちに及びます。アブラハムの信仰が彼だけの人生にとどまっていないところに注目しましょう。あなたの信仰は、周りを祝福するためにもあるのです。また、あなたの生き方を見て、信仰の道についてくる人が必ず起きるということです。

○外面的要因・人間の常識に左右されない

ロマ4:18-19
18 彼は望みえないときに望みを抱いて信じました。それは、「あなたの子孫はこのようになる」といわれていたとおりに、彼があらゆる国の人々の父となるためでした。19 アブラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることとを認めても、その信仰は弱まりませんでした。18 who, contrary to hope, in hope believed, so that he became the father of many nations, according to what was spoken, “So shall your descendants be.”19 And not being weak in faith, he did not consider his own body, already dead (since he was about a hundred years old), and the deadness of Sarah’s womb.

アブラハムもサラも年老いていました。常識では、赤ちゃんは生まれません。聖書は、「それでもかられの信仰は弱りませんでした。」とあります。信仰とは、外面的なコンディションによって左右されず、私たちの常識におさまらないことを覚えましょう。今、状況が悪くて、とても信じる気になれない人がいるなら、どうぞアブラハムに励まされてください。彼は、百歳でも子供が与えられると信じたのです。そして、それは、現実になりました!

○”それでも”信じるという信頼

ロマ4:21-24a
21 神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。22 だからこそ、それが彼の義とみなされたのです。23 しかし、「彼の義とみなされた」と書いてあるのは、ただ彼のためだけでなく、24 また私たちのためです。21 and being fully convinced that what He had promised He was also able to perform. 22 And therefore “it was accounted to him for righteousness.” 23 Now it was not written for his sake alone that it was imputed to him, 24 but also for us.

アブラハムは、自分の今の年齢や状況、いつまで待っても開かれないという事実よりも、神様にはそれでも成就する力があると、「堅く」信じました。私たちの信仰のチャレンジは、レイヤーになっています。初めは、自分が何の働きも無い者で不敬けんなものだと気づくところからです。信仰を持ち続けてもいろいろなチャレンジが人生の中にはあります。しかし、大変な状況の中でも、それでも、なお私は神様に信頼する! という強い姿勢が私たちには必要です。それこそ、本当の信仰だといえましょう。

自由意志/愛vs ご利益信仰

○イエス様を通して

ロマ4:24b-25
すなわち、私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちも、その信仰を義とみなされるのです。25 主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。It shall be imputed to us who believe in Him who raised up Jesus our Lord from the dead, 25 who was delivered up because of our offenses, and was raised because of our justification.

アブラハムは、キリストのいない時代にここまで信仰を貫きました。私たちには、キリストが与えられ、明らかにされています。考えてみると、アブラハムの時代に比べると、大きな恵みです。キリストに根差し、キリストと生き、キリストとともに死ぬ。キリストと共に生きる、そこに必要な助け励ましが聖霊様から来る。こんな、至れりつくせりなことはないでしょう。私たちは、キリストについて行く限り、義とされてるのです。


#キリスト教 #クリスチャン #信仰 #教会 #礼拝 #聖書

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ローマ書二章

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日曜日の教会学校のボードです。... 日曜日の教会学校のボードです。子供たちが、聖書の言葉を覚えたり、お祈りしていることが、家庭にも反映しているようで、とても嬉しく思っています。教会学校に来たら、シールをご褒美で集めます。そして、教会学校の子供のお店で、お買い物ができます! 頑張れ、子供たち! 木曜日のロバの子スラスの一幕。... 木曜日のロバの子スラスの一幕。。。J ちゃん。これでも、怒ったときの意思表示。口をとんがらがせます。。。しかし、怒っていること、あまり伝わらない。。。可愛すぎて。笑
2016年9月11日日曜日礼拝音声は、https://youtu.be/EZu1QSyXCNg

シリーズロマ書ですが。先週、一章では、ロマ書のメインテーマと、福音、義、そして、異邦人の罪について話しました。今日は、その続きです。続いて、人を裁く罪、ユダヤ人の罪と罪のお話しが続きます。義=正しさについて話すには、罪について話さないわけにはいられないからです。私たちは、みな正しくありたいという願望を心に持ちながら生きています。そして、それゆえに罪悪感に苦しんだりするわけです。人間の大きくの問題は、義に関することと言っても過言ではありません。

★ 人を裁く罪 ユダヤ人の罪The sins that judge others --- sins of Jew

ローマ2:1

ですから、すべて他人をさばく人よ。あなたに弁解の余地はありません。あなたは、他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めています。さばくあなたが、それと同じことを行っているからです。

一章の終わりで、様々な罪のリストがありました。そして、続いて、人を裁く人よ。あなたに弁明の余地はありません。。。。と続きます。人を裁く人は、誰でも、自分を罪に定めているというのです。

  ◎ 裁きについて

私たちは、裁きについて甘く考えていることが多い。良いか悪いかを決める。審判する。また、人を罪に定めることであるが。聖書は、誰をも裁いてはいけませんと書いてあります。裁かれないためだ。。。とルカ七章。人にレッテルを貼ることも裁きです。『あの人は、ああいう人だから。。。』というのも裁きです。あなたが、人を審判することが裁きです。

二つの側面。

① The plank from your own eye, and you will see clearly the speck from your brother’s eye. Matt. 7:5 自分の目の梁、他人の目のちり マタイ7:5
人は、人のしている悪には気が付くけど、自分の悪には気が付かない鈍さをもっている。それは、高慢さから出ているとも言える。

② Sawing and reaping Gal. 6:7 種まきと刈り取りの法則ガラテヤ6:7
人は、種まきと刈り取りの法則ガラテヤ6:7の通りに、人を裁く通りに、自分も裁かれるようになる。(自分が裁きを下した人と同じことをして裁かれるようになる)

この法則も、神の知恵です。それは、裁かれることによって、自分を知り、悔い改めに導かれるからです。

ローマ2: 4, 5

4 それとも、神の慈愛があなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と忍耐と寛容とを軽んじているのですか。
5 ところが、あなたは、かたくなさと悔い改めのない心のゆえに、御怒りの日、すなわち、神の正しいさばきの現われる日の御怒りを自分のために積み上げているのです。

◎ Self-righteousness (自己義)

人の罪の中で、いくつか大きいもの、取り除きにくいもの。悪魔が大好きなものがあります。それは、赦さない罪と、自己義。です。分かりやすい、悪人のする罪、盗みや暴力と比べて、目に見えにくいものです。かえって上品に見えている人の方が、大きな罪を持っているのかもしれません。

自己義、という言葉があります。これは、自分がいろいろと神様の御用をやっているし、罪を犯していないから自分は正しい、義だと思っていることです。これは、大きな間違いです。義は、一章でちらりと話しましたが、信仰によります。自分からは出てこないのです。自分で自分を正しく保てるのなら、神様はいらないのです。

パウロは、言っています。「神の慈愛が私たちを悔い改めに導くことをあなたがたは知らないのですか」

私の証し;

神学校行きたてのころ、私は、自己義満載の人でした。献身者たるもの、こうあるべきだ、みたいな考えでいました。そして、クラスメイトを裁いていました。「この人は召されていない。自分の力でここにいる。召しでなく、自分で何かになろうとしている。事実、あれもしない、これもしないじゃないか。」といつも裁いていた。一学期中自分がしんどかった。その人を見ると辛いし、自分がイライラする。あるとき、朝、聖書を読んでいる時、1ヨハネ4:8 「愛のないものに神は分かりません。なぜなら神は愛だからです。」という言葉に出会いました。とても、ショックを受けました。自分の持っていると思っているもの、自己義について強く示されました。私たちは、自分の測りで他人を測り裁いていますが、神の測りは、どこまでも愛であり、その愛の測りのないものは、神を知ってはいないのだ。。。と語られたのです。私は、泣き崩れ、悔い改めました。私の、愛のなさ。愛のアプローチの無さに気が付いて、自分がされたらどんなに傷つくかということも思い知らされました。そして、悔い改めました。私は、自分の自己義の大きさにはっきり直面することとなりました。

◎裁く人たちへの解放の鍵

神様の慈愛に気付くこと。愛の測りを知ること。そして、悔い改めること。この二つは、私たちの盲目な霊の目を開かせます。開かせて、まず自分自身が見えるようになるのです。

★律法を知っているひとたちへPeople who know the law of God.

律法というのは、聖書のことでもあります。アブラハムが信仰を持ち、そして、神の人となり、その子孫たちがユダヤ人となりました。ユダヤ人にモーセを通して十戒が与えられ。また、モーセが神の書物を書きました。ユダヤ人たちは、律法を持つている=神の民 ということで、自分たちのことをとても誇りに思っていたのです。そして、自分たちは、その律法という「測り」を持って、周りを測り続けていました。

しかし、パウロは、そこをついて、

ローマ2:13
13 それは、律法を聞く者が神の前に正しいのではなく、律法を行う者が正しいと認められるからです。13 (for not the hearers of the law are just in the sight of God, but the doers of the law will be justified;

ローマ2:16
16 私の福音によれば、神のさばきは、神がキリスト・イエスによって人々の隠されたことをさばかれる日に、行われるのです。16 in the day when God will judge the secrets of men by Jesus Christ, according to my gospel.

「律法を聞いている人が正しいのではなくて、行っている人が正しいんですよ。」と主張します。そして、「自己義も、裁きの日に、人の目には隠れていたとしても、神様に裁かれるのですよ。」と。

★心の割礼circumcision is that of the heart

ローマ2:26-29

26 もし割礼を受けていない人が律法の規定を守るなら、割礼を受けていなくても、割礼を受けている者とみなされないでしょうか。27 また、からだに割礼を受けていないで律法を守る者が、律法の文字と割礼がありながら律法にそむいているあなたを、さばくことにならないでしょうか。28 外見上のユダヤ人がユダヤ人なのではなく、外見上のからだの割礼が割礼なのではありません。29 かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による、心の割礼こそ割礼です。その誉れは、人からではなく、神から来るものです。

ユダヤ人と異邦人との大きな違いは、律法を持つか持たないかもそうですが、割礼もまた一つの違いです。割礼とは、神様との契約関係にあることを示し、男性の性器の一部を切り取るという儀式です。

しかし、割礼を受けていても、律法を行っていないなら、自分を裁くことになっていないか? というのです。ユダヤ人は、そもそも、人種でなく、アブラハムから始まった信仰を引き継ぎ、神様と関係のある人がユダヤ人なのですから、外見上のユダヤ人、人目に隠れたユダヤ人という言い方をしています。

文字ではなく、御霊による心の割礼こそ、割礼である。すなわち、神様に示され、心から悔い改めること、そこに聖霊様が働く、それこそ、本当の割礼であり、それは、人の業ではなく、神の業であり、神の栄光である。というのです。
二章、いかがでしたか? 今日は、自己義を取るか、神の愛の測りを取るか? ということだけ覚えていただけたらと思います。今週も神の愛にとどまりましょう。


#キリスト教 #クリスチャン #教会 #礼拝 #神の愛 #聖書

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One Heart シリーズSonship③子としての資質・成熟

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小さい人たちは、どうしてバスケ... 小さい人たちは、どうしてバスケットを見るとかぶりたくなるのだろうか。。。。お約束です。笑  私も、よく、バケツを頭にかぶって歩き回って、そんなことしてたら背が伸びないよ! なんて叱られました。背は、順調に伸びましたけど。。。笑 いつも子供たちと遊んでくれた優... いつも子供たちと遊んでくれた優しいゆうこちゃんが、日本に帰国となりました。最後に一緒にランチをしました。。。本当に、ありがとう。そして、日本でも大いに神様に祝福されますように。。。。お祈りしています。 日曜日は、しょうたくんが、お別... 日曜日は、しょうたくんが、お別れのあいさつに教会に来てくれました。しょうたくんは、水曜日に帰国です。。。寂しいなー。。。ボーイズたちは、悲しくて、悲しくて。。。特に、小さいほうのボーイは、泣いて帰らないでとせがんでいました。かわいいな。。。しょうたくん、今まで、いいお兄ちゃんでいてくれてありがとう!!!!
2016年8月28日日曜日礼拝音声は, https://youtu.be/2F8A6s0C4ZI

一つ心、一つmindのコミュニティの中で、欠かせないsonship 神の子であることですが、先週は、子であるアイデンティティについて学びました。天の父なる神様の懐で充足していること、神の子である自分の素晴らしさを知っていて、満足していることが大切でしたね。今日は、子としての成熟の道について話して行きましょう。

★ 父母を敬うこと Honor Your Parents

出エジ20:12 あなたの父と母を敬え。あなたの神、主が与えようとしておられる地で、あなたの齢が長くなるためである。

聖書の祝福の流れは、先日の賜物セミナーの治める者のところでも話しましたが、父から子に流れるものです。それは、霊的なことであり、肉的な血縁関係においてもしかり、霊的な親子関係でもしかりです。また、神の子としてもそうです。イエス様が、父である前に子であったことを思い出しましょう。イエス様は、子として模範の歩みを地上でされました。(先週の記事参照) 聖書の中には様々な例があります。

〇 聖書に見る霊的父と子の例
   エリヤとエリシャ  
   モーセとヨシュア
   ナオミとルツ   など

今の時代は、インターネットやテレビなどで、メッセージを聞くことができ便利です。そして、メディアを通してメッセージを聞き、そして献金をして、教会に行かず、人に繋がらず、それで信仰を守っている人もいます。が、これでは、成長も霊的な祝福も得ることができないのです。

今日は、エリヤとエリシャの例から見ていきたいと思います。

★ 子である資質 Qualities as a son

Ⅰ列王19:19-21

エリヤはそこを立って行って、シャファテの子エリシャを見つけた。エリシャは、十二くびきの牛を先に立て、その十二番目のくびきのそばで耕していた。エリヤが彼のところを通り過ぎて自分の外套を彼に掛けたので、20 エリシャは牛をほうっておいて、エリヤのあとを追いかけて行って言った。「私の父と母とに口づけさせてください。それから、あなたに従って行きますから。」エリヤは彼に言った。「行って来なさい。私があなたに何をしたというのか。」21 エリシャは引き返して来て、一くびきの牛を取り、それを殺し、牛の用具でその肉を調理し、家族の者たちに与えてそれを食べさせた。それから、彼は立って、エリヤについて行って、彼に仕えた。

Ⅱ列王2:1-6 

主がエリヤをたつまきに乗せて天に上げられるとき、エリヤはエリシャを連れてギルガルから出て行った。2 エリヤはエリシャに、「ここにとどまっていなさい。主が私をベテルに遣わされたから」と言ったが、エリシャは言った。「主は生きておられ、あなたのたましいも生きています。私は決してあなたから離れません。」こうして、彼らはベテルに下って行った。3 すると、ベテルの預言者のともがらがエリシャのところに出て来て、彼に言った。「きょう、主があなたの主人をあなたから取り上げられることを知っていますか。」エリシャは、「私も知っているが、黙っていてください」と答えた。4 それからエリヤは彼に、「エリシャ。ここにとどまっていなさい。主が私をエリコに遣わされたから」と言った。しかし、彼は言った。「主は生きておられ、あなたのたましいも生きています。私は決してあなたから離れません。」こうして、彼らはエリコに来た。5 エリコの預言者のともがらがエリシャに近づいて来て、彼に言った。「きょう、主があなたの主人をあなたから取り上げられることを知っていますか。」エリシャは、「私も知っているが、黙っていてください」と答えた。6 エリヤは彼に、「ここにとどまっていなさい。主がヨルダンへ遣わされたから」と言った。しかし、彼は言った。「主は生きておられ、あなたのたましいも生きています。私は決してあなたから離れません。」こうして、ふたりは進んで行った。.

★ 何が必要か。子である資質。5 Qualities as a son

・父に選ばれる。(召し)

 v19 エリシャはエリヤに見つけられる。

ヨハネ15:16
16 あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。

最近のキリスト教界では、自分の師を探す人が多いです。Youtube でもいろいろなメッセージが聞けますし。チャーチショッピングという言葉すらあります。自分上位で、教会や自分の従う人を決め、気にいらなければ替えるという考え方が浸透して少なくともアメリカでは長いのではないでしょうか。日本では少し違いますが。。。
エリシャは、エリヤに見いだされました。その上に神様の大きな摂理と召しが関わっていました。
イエス様も、弟子たちを選びました。弟子がイエス様を選んだのではありません。
私たちは、自分がこの神様を選んで、自分から神の子となったと思い違いをしてはいけないのです。いろいろな不思議な導きがあり、神様が私を引き寄せてくださったからこそ、信じることができたのです。
 
・共に歩むことを自分が選ぶこと。(義務感や強いられてではない)

 v20 エリシャは牛をほうっておいて、エリヤのあとを追いかけて行って言った。「私の父と母とに口づけさせてください。それから、あなたに従って行きますから。」エリヤは彼に言った。「行って来なさい。私があなたに何をしたというのか。」21 エリシャは引き返して来て、一くびきの牛を取り、それを殺し、牛の用具でその肉を調理し、家族の者たちに与えてそれを食べさせた。それから、彼は立って、エリヤについて行って、彼に仕えた。

エリシャは、エリヤの召しに応答しました。決断しました。エリヤについて行く。そして、エリヤの神にお仕えすると。子であることの資質の二番目は、ついて行く決断です。大前提に神に。そして、自分の師について行く決断です。

・父を愛し、敬う。

 エリシャは、エリヤについて生活し、共に神の奉仕をし、エリシャの働きをまじかでみます。エリシャはエリヤを尊敬していました。みなさん、神を敬い愛することはどういうことでしょうか。それは、「神の愛することを愛し、そして、神の憎むことを憎むこと」です。それこそ、神の心を受け継いでいるものの資質です。エリシャは、エリヤに従い、エリヤにつくことで、神の心を学んでいきました。

私も、かけがえのない学びを母教会でさせていただきました。それは、その時には気が付かないのですが、母教会の外に出るとよく分かります。私と、牧師先生が似ているのです!

・どんなことがあっても躓くことを拒否する。NO offence

 いよいよ別れの時が近づいてきました。エリヤが天に召されることがもう知られていました。先ほど読んだⅡ列王記2 章の通り。エリシャはどうしても先生、エリヤから離れたくなかった。帰りなさいと三度言われても、「いいえ、私はあなたから離れません」と言った。ここに深い真理があると思いました。ルツもナオミに里に帰るように言われても決して帰りませんでした。「あなたの神は私の神です。」と言って、ナオミについて行ったのです。
エリシャは、エリヤだけについて行っているのではなく、エリヤにならい、エリヤが従っている神から絶対に離れないという心でついて行っていたのです。

今、思えば、私にこの資質があれば、ずいぶん成熟が早かっただろうに。。。と思う出来事が数々あります。。。リーダーの言葉や態度に躓いて、それ以上、ついて行けないと思うのです。神様に従っていくときに、必ず、躓きそうな時があります。そんな時、その向こうにいらっしゃる神にどこまでもついて行く、そのような心が試されます。

・“子”である父を見続ける。父の従ってる神を見続ける。

エリシャは、お仕えしたエリヤのような働き、いや、バトンを受け取り、次の世代ではさらに偉大な働きがしたいと願いました。
エリシャは、エリヤが天に昇るのを見たら、二つの分の霊がもらえると言われた。彼は目を離さずに見続けた。そして、エリシャは、エリヤよりも大きな業をするようなものになった。
これが、私たちの弟子訓練の姿です。キリストをオナーしている師の姿を見続ける。追いかける。その先の、オナーを受けているイエス様を見続けるのです。イエス様ご自身も、もうこれ以上理不尽なことはない、十字架を耐え抜かれました。

へブル12:2

「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。」

そして、それをしている私たちの後ろにもついてくる弟子ができるのです。これ以上の弟子の道、子の道はありません。これ以上、効率的であるとか、一気に大勢の弟子を育てるとか、ありえません。これが聖書の道、やり方なのです。


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One Heart シリーズSonship②アイデンティティ

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アマゾンの例のバナナ配りですが... アマゾンの例のバナナ配りですが。最近ユニフォームを着ておられます。どうやら、バナナを渡す人たちのことを、バリスタならぬ、「バニスタ」というようです。。。。しかも、12 の背番号です。これは、シーホークスのサポーターというこてでしょうか。。。。いろんな意味で、パロってます。 日曜日は、エリックの誕生日祝い... 日曜日は、エリックの誕生日祝いを教会で。好物のバナナケーキをグルテンフリーで作って持っていきました。。。図らずも、メンズテーブルになってます。。。
2016年8月21日日曜日礼拝音声は、https://youtu.be/JYXPsXiKdKc

一つ心、一つmindのコミュニティの中で、欠かせないことがあります。それは、英語では、Sonship と言いますが、日本語では、「子であること」です。子であることがなぜ、一つになることにおいて重要なのでしょうか。二週間前は、「孤児の心」のことを話しました。子であることが分からないと、私たちは、交わりを避けるようになり、真の人間関係よりも、自分が何かを達成することによって、人に認められたい、また人に受け入れられようとします、あるいは、人の優位に立って、グループの中で自分のアイデンティティを保とうとします。。このような、力が働いていては、真のコミュニティを築くことができないのです。

今日は、「子であること」パート2ということで、父と子の関係、父なる神の子であるあなたの独自性について話してみたいと思います。

★誰が神の子であるのか

父なる神の子、イエス・キリストを信じるだけで、私たちは、神の子となる特権が与えられる。それは、罪の生き方をやめる決意であり、キリストが自分の罪の刑罰として身代わりに十字架にかかってくださったことを信じることです。

ヨハネ1:12 

12 しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。 But as many as received Him, to them He gave the right to become children of God, to those who believe in His name:

と、ある通り、キリストによって私たちは、神の子とされるのです。

○神の家族の交わりに入れられる

神の子となり、神の家族の一員となった私たちには、天のお父さんを「アバ、父」(おとうちゃん)と呼ぶ霊が心に宿ります。そして、三位一体の神が互いに交わっているように、家族の交わりの中に入ります。

Ⅰヨハネ1: 3

私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。3 that which we have seen and heard we declare to you, that you also may have fellowship with us; and truly our fellowship is with the Father and with His Son Jesus Christ.

Ⅰヨハネ1: 7

7 しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。7 But if we walk in the light as He is in the light, we have fellowship with one another, and the blood of Jesus Christ His Son cleanses us from all sin.

「一つ」となることについて話してますが、真の交わりのためには、一人一人の罪が解決し、光の中を一人一人が歩んでいなければならないことが分かります。これは、何も努力して修行をして罪を絶対に犯さない完ぺきな人間になってから、というのではありません。恥を明るみにだして、ありのままの自分で、罪を取り去るキリストに信頼して光の中を歩むことです。その時に、私たちの間に隠れる恥が無くなり、私たちは、ますます一つになるのです。
―――バンデージブレーキングとアカウンタビリティーグループの例

○キリストと共同相続人となる。

ロマ8:14-17  14 神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。15 あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父」と呼びます。16 私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。17 もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光とをともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。14 For as many as are led by the Spirit of God, these are sons of God. 15 For you did not receive the spirit of bondage again to fear, but you received the Spirit of adoption by whom we cry out, “Abba, Father.” 16 The Spirit Himself bears witness with our spirit that we are children of God, 17 and if children, then heirs—heirs of God and joint heirs with Christ, if indeed we suffer with Him, that we may also be glorified together.

天の霊的財産はキリストによって私のものとなった  

私たちの身分は、一気に変わります。キリストと天の共同相続人となるのです。私たちが稼がなかったものを私たちは受けるのです。天では、すでに「キリスト=あなた」とみなされているのです。しかし、私たちがいつまでも生まれたての赤ちゃんでは、この相続財産を有効活用することができません。赤ちゃんは相続が決まっているけれでも、親は、現金を全部赤ちゃんに任せたりはしませんね。私たちは、どのように子として、成熟していったらいいのでしょうか。そこが問題となっています。

まず第一に

★子であることに充足していること

そこに、充足しているか。Doing < Being これが分からなければ、主の働きをするのが難しい。

私の経験; 孤児の心を持っていた私は、何もできなくなるくらいに疲れ果てたことがあった。そして、ただただ毎日神様の癒し、父なる神様の懐で休むことだけを目標にするしかない時期があった。そんなとき、一人の傷ついている人が私の目の前に来て、目があった瞬間に、その人が泣き出した。一緒に泣いた。そして、何と、不思議なことにその人の心がそれ以来癒されたのだ。。。

父なる神の懐にとどまるパワフルさを初めて経験した一瞬だった。

★イエス様の子としてのモデル(模範)

Everything that Jesus did, He did as a son to a father – this is the life and the lifestyle to which we are to be conformed. (John Alley)

私たちの人生の目的は、キリストを信じたときから、キリストの追従者となりましたね。そして、一番のゴールは、キリストのように生きることとなりました。イエス様はどんな風に地上を生きてくださったのでしょうか。

イエス様は、彼の神の子としてのアイデンティティを生涯全うされた。わたしはこれを喜ぶといわれ、また、荒野での試みでは、アイデンティティをことごとく試された。十字架にかかる時にも、最後まで独自性を失うことがなかった。
何かを成し遂げる以上に、何者であるかを自分が知り、つかみ、離さないところに強さがある。

私たちは、自分の神の子である独自性の中に安息を見出し、そして、充足してこそ、自分のミニストリーを全うすることができる。

その上で、父なる神に従ったイエス様

キリストは、自分のエゴをいかす生き方はしなかった。すべて、父なる神の心とともにあり、父なる神の時に従った。父のしていることをし、父のいるところにいると言った。

ヨハネ5: 19

そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分からは何事も行うことができません。父がなさることは何でも、子も同様に行うのです。19 Then Jesus answered and said to them, “Most assuredly, I say to you, the Son can do nothing of Himself, but what He sees the Father do; for whatever He does, the Son also does in like manner.

マルコ14: 36

またこう言われた。「アバ、父よ。あなたにおできにならないことはありません。どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください。」36 And He said, “Abba, Father, all things are possible for You. Take this cup away from Me; nevertheless, not what I will, but what You will.”

イエス様は、わたしを見たものは父をも見たのです。。。と言われるほどに、父と心を一つにしていた。父の心を知り、父について行くイエス様、そのイエス様について行くというのが私たちの生き方なのです。父の心と一つになることが鍵となります。。。また、これが、子の成熟の鍵でもあります。

子である資質については、次の週でお話しします。

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One Heart シリーズ男女 ⑤ 聖書の解釈

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日曜日のメッセージの時に使った... 日曜日のメッセージの時に使ったスライド。下の記事を読むときに役立ちます。しかし、これが一番最後にくると思ってアップロードしたつもりだったけど。。。。 日本から、もとシアトル留学して... 日本から、もとシアトル留学してホライズンに来ていた方が結婚してハニムーンで来てくださいました。月曜日にカヤックをしに近くのユニオン湖に行きました。とってもきれいな一日でした。 木曜日は、ロバの子ピクニックデ... 木曜日は、ロバの子ピクニックデーで、総勢二十人、ぞーろぞろシアトルセンターに遊びに行きました。チェリー姫がおにぎりをぱくついてます。彼女は、噴水に大はしゃぎでしゅうし、走り回っていました。が、かわいいちゃんは、水の音が怖くて、ずっとうずくまっていました。。。あは。人それぞれですね。笑 木曜日は暑い日で、たーーーくさ... 木曜日は暑い日で、たーーーくさんの子供連れさんが来ていました。また、八月にピクニックデーを計画しています。 日曜日は、教会員のみどりさんが... 日曜日は、教会員のみどりさんが、ランチタイムに大きなケーキを持ってきてくれました。彼女は、腎臓と肝臓を移植するという大手術、本当に死にかけたんですが、神様に奇跡的に助けられ今があります。今日は、三年快気祝いともう一年先まで病院いらずのお祝いです。感謝する心の素晴らしさを教えられたランチタイムとなりました。。。。。
2016年7月17日日曜日礼拝音声は、https://youtu.be/fwv_rSh0qVE

3. 1テモテTimothy2:1-15

 女が教えることを許すべきではない?
Should we not permit a woman to teach?

そこで、まず初めに、このことを勧めます。すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人たちのために願い、祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい。2 それは、私たちが敬虔に、また、威厳をもって、平安で静かな一生を過ごすためです。3 そうすることは、私たちの救い主である神の御前において良いことであり、喜ばれることなのです。4 神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。5 神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。6 キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自身をお与えになりました。これが時至ってなされたあかしなのです。7 そのあかしのために、私は宣伝者また使徒に任じられ―私は真実を言っており、うそは言いません―信仰と真理を異邦人に教える教師とされました。8 ですから、私は願うのです。男は、怒ったり言い争ったりすることなく、どこででもきよい手を上げて祈るようにしなさい。9 同じように女も、つつましい身なりで、控えめに慎み深く身を飾り、はでな髪の形とか、金や真珠や高価な衣服によってではなく、10 むしろ、神を敬うと言っている女にふさわしく、良い行いを自分の飾りとしなさい。11 女は、静かにして、よく従う心をもって教えを受けなさい。12 私は、女が教えたり男を支配したりすることを許しません。ただ、静かにしていなさい。13 アダムが初めに造られ、次にエバが造られたからです。14 また、アダムは惑わされなかったが、女は惑わされてしまい、あやまちを犯しました。15 しかし、女が慎みをもって、信仰と愛と聖さとを保つなら、子を産むことによって救われます。

★間違ったみ言葉の解釈の例

この個所はよく間違って解釈されて、教会生活に適用されているみ言葉の一つでもあります。罪の呪いと人間的な文化から、当時の文化や、パウロの書法を無視して読むと、だいたい次のような解釈になります。。。
女一般は、人を教えるようなものではない。なぜなら、イブが騙されたように、女というものはそれほど愚かで、男性より劣っている。しかも、男性がはじめに作られたから、男性のほうが偉いのだ。女が、慎み深くして、信仰をもっているなら、子供を産むことことができれば、救われるのだ。
と、いう風に読めませんか?  私も駆け出しのクリスチャンのころは、そう理解し、なんだかがっかりしました。江戸時代じゃあるまいし、子供を産んでこそ女性の値打ちがあるのか。。。女性には子供を産むことしか価値がないのかー、なんていう理解でした。
さて、今日もこんがらがった紐をほどいていきましょう。まずは、

★このみ言葉の背景

この手紙は、エペソにいるテモテに宛ててパウロが書いている。当時、エペソには、アルテミスという神が拝まれていた。そして、ダイアナという24の乳房を持つ女の神がおり、子宝、出産時に母子を守る神として信仰されていた。そして、女が男の起源であるとし、女は偉いという考えがあった。神殿娼婦たちがおり、魔術やシーザー礼拝も盛んであった。政治と教育の中心であった。
また、オカルトで栄えていた町であり、パウロが福音を伝え、多くの改宗者がおこったので、町の経済が立ち行かなくなったことは使途の働きでも読み取れる。
エペソ教会の開拓した創始者は、ブリスキラという女性であった。ですから、少し考えれば、パウロが女性に対して教えるなということは、あまりにも不自然なことです。

★書法 ミニキアズム

ここで、また大切な文書構成を見てみたいと思います。先週話した、キアズマ書法がここでも用いられています。

All → Men → Woman ( 女性一般・一人の女・女性一般 )
V1-7 8   9-10 11-15a 15b
All human men women ( women / a woman / women (they) )

と、このように目的語が変化していっている。A woman というのは、ある特定の人をさして言っているのである。

★パウロの要点は

全ての人に祈って欲しい。目的は、全ての人が救われるように。。。男性に祈って欲しいし、女性にも同じように祈って欲しい。両方とも神にあって聖い方法によって、男性は、聖くあり、怒らずに。女性は、謙遜に、礼節をもって祈ることを教えている。


★女性に関してミニキアズムの中身v9-15を 詳しく見てみましょう

V9 Likewise 同じように  

というのは、パウロは、男性が、争いや怒りを捨ててどこでも手をあげて祈るように、女性も以下のことを捨てて祈りなさいという意味です。パウロは、祈りなさいという言葉を女性のところでは省略して書いています。

V9,10 髪を編んだり、おしゃれをすることは悪いこと?

私はこの箇所に従って、ずっと神学生のときから地味な格好をしていました。あるとき、教会の姉妹から、「お願いだから、もう少し、おしゃれして、先生。。。」と言われました。パウロは、おしゃれ禁止と言っているのでしょうか。

当時のエペソの文化では、女性が自分の身を飾りたてることは、性的な乱れを象徴しているものでした。当時、着飾っている妻を見ると、あの人は、不倫をしているのだと思われたそうです。そういう背景から、パウロは、霊的な、内面的な姿を行いによって飾ることを勧めているのです。

真珠は、ローマの時代最も優れた宝石と思われていました。ですから、真珠を身につけることは、装飾の極みとされました。

V11-15a  特定の女を指して、あの女に教えさせるな

当時、間違った教えをする偽教師たちがはびこっていました。そして、その異端的な教えをしているリーダーの中の一人にこの女性がいました。また、当時は、女性は教育や学問、宗教教育もきちんと受けて来られなかった背景を受けて、パウロが一番に言った言葉が、この女は、きちんと習うことと、神・教会に従うことを学ぶべきだと言っています。

この言い方は、女性に対してだからin silence and full submission という言葉を使っているのではなく、しばしばラビに習うときや、宗教的な学びをするときは、男性に対しても一般的に使われていた言い回しです。

V13 ですから、この女に教えさせてはいけない。黙らせなさい。

思い出してください。エペソでは、アルテミスを信じているという文化的背景から、女性は男性の起源であるという考えがありました。

V12 の、私は、女が教えたり男を支配したりすることを許しませんauthority over a man? は、ギリシャ語では、 “authentein”が使われていて、 ….. 英語でいうオーソリティではありません。
Proper translation would be ; “I do not allow a woman to teach nor to proclaim herself author of man” ですから、正しい翻訳は、「私は、この女が自分こそが男の起源であるという教えをすることを許しません。」となります。

○そして、パウロは、人間がどのように創造されたかを説明するに至り、それから、この女性は、偽りの教えに騙されている者として、同じく騙された初めの人エバの話が出てきています。

V13-14 男性がはじめに蛇に騙されなかったらえらいと言っているのではない。男性は、自分の意志で罪を犯したのですが。。。(どちらがえらい、悪いかという考え方は、男女間の競争の考え方です) 女が男性の起源だからとして威張るのではない、ということ。これも、文化的に、女性の神を信仰していた地域ならではのことです。そして、男性も女性も罪を犯したけれども、みな、キリストへの信仰によって、みな救われることができるのだ。と言っている。

○子を産むことによって救われる?? The Childbearing

① V15 The Childbearing あの出産

Saved はSozo です。キリストによる全人格的な救いです。それは、初め人アダムとエバから罪が入ったけれども、あの出産によってみんな救われることができるというのです。あの出産というのは、キリストの誕生です。キリストがこの世に生まれ、罪の贖いをしてくださったからこそ、私たちは救われるのです。

② また、当時のエペソの背景から。。。

V15 今までは、エペソの人たちは、Greek goddess Artemis / a rulership of woman/ a god of fertilityに子供を産むときに母子ともに死なないように祈っていた。しかし、クリスチャンたちは、キリストにあって、罪からの呪いである全てのことから守られ、子供を産むという危険においても死から救われる。といういみ。である、とも解釈できる。

私は、①のほうがすんなり文脈にあうと思います。

<まとめ>

パウロは、すべての人が救われることが神の心であることを説きながら、救われた私たちの務めである祈りについて、男性にも、女性にも祈ることを教えています。またその中で、キアズム処方を用いて、当時エペソ教会の問題であった間違った教えをする女性の偽教師について、この女性に学びをさせなければならないことを言及し、きちんと教えを受けるまで黙っているように指導しました。


#Bible #クリスチャン #教会 #礼拝メッセージ #聖書

ワオ!と言っているユーザー

シリーズOne Heart 男女間の一致 ①

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土曜日は、教会のお友達の養子縁... 土曜日は、教会のお友達の養子縁組シャワーに行きました。私たちと、一週間違いで結婚した彼らは、第一子を亡くしました。それから、流産が続き、養子を迎えることにしました。そして、二年くらいの手続きの末にはれて養子縁組でき養子を迎えました。今日は、お祝いにみなさんで集まりました。この木は、彼らへの祝福のメッセージを葉っぱにして木にして飾ったものです。 左側が新しいお父さん。ちょうど... 左側が新しいお父さん。ちょうど次の日は、父の日。おめでとう。ティム。良かったね。たくさん泣いてきた分、これからたくさん笑うようになるといいですね。 右は、新しいお母さん、箱を見つ... 右は、新しいお母さん、箱を見つけて喜んでいるのは、養子となったクラーク君。人懐っこく、みんなに愛されているクラーク君。元気に育ってね!  一週間違いで結婚した私たちも、特別彼らのことは心にかかっていたので、今日はうれしかったです。
2016年6月19日日曜日礼拝音声は、https://youtu.be/PCPl3VCAoeY

今日からまた新しいシリーズを始めていきたいと思います。それは、 One Heart です。先週ダンとクゥエントがお話ししてくれました。いかに、個人の恥、罪が私たちの一致を妨げ、集まることをやめさせ、心を分裂させるのか。私たちは、一つ心となるために主に教会として召されているのだ、ということを学びました。

イエス様の、夢、パッションがよく表れている個所を読みましょう。

◎イエス様の心

ヨハネ17:21-23

21 それは、父よ。あなたがわたしにおられ、わたしがあなたにいるように、彼らがみな一つとなるためです。また、彼らもわたしたちにおるようになるためです。そのことによって、あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるためなのです。22 またわたしは、あなたがわたしに下さった栄光を、彼らに与えました。それは、わたしたちが一つであるように、彼らも一つであるためです。23 わたしは彼らにおり、あなたはわたしにおられます。それは、彼らが全うされて一つとなるためです。それは、あなたがわたしを遣わされたことと、あなたがわたしを愛されたように彼らをも愛されたこととを、この世が知るためです。

私たちの信じている神は、三位一体の神です。三者が一体となり、交わりを保ちながら働いておられます。また、思い出して下さい。十字架にかかられる前に、イエス様の第一の祈り、御父への願いは何だったでしょうか。ヨハネ17章にある通り、イエス様の願いは、御父とイエス様が一つであるように、イエス様と信じる者たちが一つであるように。また、信じる者たち同士も一つあるようにと祈られました。そして、イエス様の昇天によって聖霊のバプテスマによって、完成されました。私たちは、完全に一つとされ、三位一体の神が機能しているように、私たちも複数ですが、一つ体となって機能することが出来るようになったのです。
神に似せられて私たちが創造された特徴には、この複数であるが一つであるという点にあります。

そして、イエス様がおっしゃっているように、私たちが全うされて一つなること、これこそがイエス様の教会への期待なのです。教会の成熟度は、人数やどれくらい大きく影響を及ぼしていかではなく、いかに一つなっているかなのです。これからしばらく、いかに教会が一つになれるのだろうかという点に焦点をおいて話していきたいと思います。

今日は、私たちのコミュニティの最小単位、カップル、男女間の一致に関して話していきたいと思います。

◎神の人間創造について

聖書の一番初め、創造の御業の記事を見てみましょう。

創世記1:26-28

26 神は仰せられた。「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。」27 神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。28 神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」

そもそも、人間は、男と女で、人間なのです。男と女があってこそ、完成系。一つなのです。

それが、神様のデザイン。似姿です。そして、神様の計画は、
この人間に、地を従え、支配する権威を神はお与えになった。男性にだけではなく、男性と女性両方が共にたって、ともに地を従えること、これが神のデザインでした。

◎ 神のデザイン Oneness

神様は、男性のあばら骨を取って女性を創造された。人は、もともと一人であった。だからこそ、女ができたときに、アダムは、非常に喜んで言った「これこそ、今や、私の骨からの骨、私の肉からの肉。これを女と名づけよう。これは男から取られたのだから。」“This is now bone of my bones And flesh of my flesh; She shall be called Woman, Because she was taken out of Man.”

まさに、このとき、アダムは体験するので、自分から出たもの、自分と一つであるものが、自分に対峙して自分と交わりを持っている喜びを表現しました。一つであることを祝いました。私たちの神は、交わりの神であります。三位で一体。一つである互いが互いに向き合い、互いに愛しあい、互いに尊敬しあいながら交わりを保ち、働いている。アダムは、この神の似姿の完成形を体験し、喜びの声をあげているのです!

◎ 人間の罪とその結果である呪い

呪いと聞いたら、私たちにとっては、たたりじゃーーーみたいな、怖い印象を受けますが、呪いとは、神のもたらした罰というのではなく、むしろ人間の罪が必然的に生み出した結果と考えたらいいでしょう。人は、罪を犯しました。それに伴って次のような結果が伴いました。

創世記Genesis 3:16-19

16 女にはこう仰せられた。「わたしは、あなたのうめきと苦しみを大いに増す。あなたは、苦しんで子を産まなければならない。しかも、あなたは夫を恋い慕うが、彼は、あなたを支配することになる。」17 また、人に仰せられた。「あなたが、妻の声に聞き従い、食べてはならないとわたしが命じておいた木から食べたので、土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。あなたは、一生、苦しんで食を得なければならない。18 土地は、あなたのために、いばらとあざみを生えさせ、あなたは、野の草を食べなければならない。19 あなたは、顔に汗を流して糧を得、ついに、あなたは土に帰る。あなたはそこから取られたのだから。あなたはちりだから、ちりに帰らなければならない。」

この呪いを聞いて、どう思いますか。今の現代の男女の在り方であり、ある意味で伝統と言われている在り方ではありませんか。実は、これは、罪の結果で起きたことなのです。

すなわち、女性は、子供を非常な苦しみと痛みをもって産まなければならない。

女は、夫を恋い慕うが、夫・男に支配される。

男は、苦しんで食べていくために、仕事をしなければならない。

そして、人間は死ぬようになった。

私たちは、これを魂に刷り込ませて生きています。何千年もこれが当たり前です。そして、この呪いから発生して、私たち人間の中に三つのマインドセットが入っていきました。

一つ目に、競争の観念…

今まで一つ、一体でありともに立って美しく働いていた男女の間に、競争観念が入りました。どちらが相手を支配するかという戦いか始まりました。男性は、強い意志の女性に自尊心を脅かされ、女性は、男性の支配に反発心を抱きます。

二つ目に、分裂の観念…

今まで一つだった男女の間に距離ができたのです。独立心は、アメリカでは非常に祝われていますが、独立心は裏を返すと分裂心とも言えるものです。もともと、神は、三位一体であり、互いに支えあいながら存在しています。また男女もともともは一つであり、完全な愛と尊敬の中で存在していました。罪により、分裂が入ったのです。

三つ目に、永遠観の喪失…

今まで、死ななかった人間に死が入ったのです。すなわち、人間の時間に限りができたのです。ですから、人間は、刹那的な喜びに目が行くようになりました。今までは、永遠を生きる、永遠に生きるのですから、問題をやり過ごしたり、ほったらかしたりすることはありませんでした。
みなさん、誰かと仲たがいしても、そんなに気にしないのではないですか。その人と会わなければいいのですから。その人と会う時間をやり過ごせばいいだけだと思うのではないでしょうか。それだから、決して、関係の修復をしようとしないのです。その時だけよければいい。という気持ちが働く。これは、永遠の神様の考えに逆行する考えです。

私たちが永遠を信じているのなら、関係を修復しよとするのが当たり前です。天国においてその人と必ずあって愛の交わりをすると思えば、今そうしなければと思うはずです。

◎ サタンの陰謀・文化・み言葉

  サタンは、分裂をプロモートします。気を付けてください。サタンは、もともと神様から分裂したので地に落とされた存在です。彼らの目的は、人々を神様から分裂させることです。また、人々を分裂させることです。人の罪によって、一致、一つである観念が失われた今、いかに私たちのマインドがそちらに流れやすいかということに気をとめておく必要があります。
また、私たちを取り巻く文化の中には、人間の罪による呪いが根深く根差しています。

例) 男尊女卑、フェミニズム  教会文化の中にも、女性の役割というものが決められている。女性のリーダーを認めない教会もある。

これらのことは、神様の国から来ていることでしょうか?

◎ 罪の呪いから解放されたイエス・キリスト

ガラテヤ3:13

キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれたものである」と書いてあるからです。Jesus pays the penalty for this treason by bearing the curse

ロマ6:23

罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。
The wages of sin is death, but the free gift of God is eternal life through Jesus Christ our Lord

誰でもイエス・キリストを信じるなら、この呪いから解放されるのです。
イエス様を信じるものには、永遠の命が与えられます。死を恐れる必要がありません。
そして、人間の堕落以来刈り取ってきた呪いとは決別できるのです。

私は、この真理とみ言葉を繰り返し、妊娠時に宣言して、痛みなく子供を産んだクリスチャンを二人知っています!
男女の上にある呪いもすべてキリストによって解決されているのです。
ハレルヤ! 分裂も競争心ももうないはずなのです。一つとなるために必要なすべては、イエス様によって備えられているのです!

◎ クリスチャンたちは目覚めなければならない

みなさん、けれどもなぜキリスト教会の中にまだ、人間の堕落から来た女性・男性のものの見方がしみついているのでしょうか。その一つの理由に、聖書の解釈が文化的なフィルターを通して間違ってなされ、教えられてきたという事実があるからなのです。そして、伝統的に間違った教えを教会でしているために、日本でも、世の中よりも教会の中のほうが女性の地位が低いという現象が起きているのです。
次週から、よく間違って解釈されているみ言葉を開いて学んでいきたいと思います。


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