イエス様からの招き デレック・ブラウン
10月
17日
1 この後、イエスはテベリヤの湖畔で、もう一度ご自分を弟子たちに現された。その現された次第はこうであった。
2 シモン・ペテロ、デドモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナのナタナエル、ゼベダイの子たち、ほかにふたりの弟子がいっしょにいた。
3 シモン・ペテロが彼らに言った。「私は漁に行く。」彼らは言った。「私たちもいっしょに行きましょう。」彼らは出かけて、小舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。
4 夜が明けそめたとき、イエスは岸べに立たれた。けれども弟子たちには、それがイエスであることがわからなかった。
5 イエスは彼らに言われた。「子どもたちよ。食べる物がありませんね。」彼らは答えた。「はい。ありません。」
6 イエスは彼らに言われた。「舟の右側に網をおろしなさい。そうすれば、とれます。」そこで、彼らは網をおろした。すると、おびただしい魚のために、網を引き上げることができなかった。
7 そこで、イエスの愛されたあの弟子がペテロに言った。「主です。」すると、シモン・ペテロは、主であると聞いて、裸だったので、上着をまとって、湖に飛び込んだ。
8 しかし、ほかの弟子たちは、魚の満ちたその網を引いて、小舟でやって来た。陸地から遠くなく、百メートル足らずの距離だったからである。
9 こうして彼らが陸地に上がったとき、そこに炭火とその上に載せた魚と、パンがあるのを見た。
10 イエスは彼らに言われた。「あなたがたの今とった魚を幾匹か持って来なさい。」
11 シモン・ペテロは舟に上がって、網を陸地に引き上げた、それは百五十三匹の大きな魚でいっぱいであった。それほど多かったけれども、網は破れなかった。
12 イエスは彼らに言われた。「さあ来て、朝の食事をしなさい。」弟子たちは主であることを知っていたので、だれも「あなたはどなたですか」とあえて尋ねる者はいなかった。
13 イエスは来て、パンを取り、彼らにお与えになった。また、魚も同じようにされた。
14 イエスが、死人の中からよみがえってから、弟子たちにご自分を現されたのは、すでにこれで三度目である。
今日は、イギリスから、デレック・ブラウン先生をお迎えしての合同礼拝でした。ですから、今日は、日本人教会はありませんでした。ブラウン先生のメッセージは、次の通り
I am.
旧約聖書で神様がご自分の名前を、「わたしは、ある」と紹介されましたが、神様は、I am. であると今朝協調しておられる。
イエス様は、昨日も今日も明日も同じ。しかし、昨日の油注ぎは、昨日のものであり、今日は今日でI am. と言うお方がともにおられるのです。
今朝、ここにイエス様が来られたらどんなだろう。。。。本来イエス様中心の教会であるはずなのに、教会は宗教的になりすぎて、I am. であるお方を見逃している。
ヨハネ21章の一節に、英語では、the morning comes there stood Jesus. その後、朝が来て、イエスがそこに立っておられた。とある。
今日皆さん、朝ここに来られて、どんな気持ちでここに来たかしりませんが、いろんなことがあり、いろんな思いを引きずりながら来たことでしょう。しかし、それでも、朝がくる。そして、聖書は、そこにイエスがおられたと書いてあるのです。
聖書は、「夜に涙を流しても、朝には喜びがある」とあります。また、「神の恵みは朝毎に新しい。」とあります。ヨハネ21章も、いろいろなことの後に、この朝が来ました。キリストの癒し、みわざ、弟子たちの召し、ペテロの裏切り、イエス様の十字架の死、イエス様は、自分が生きていることを四十日間人々に現され、示されました。復活を信じない人たちに現れました。
ルカの15章で、何もかも捨ててきたという弟子たちに、これからは人をとる漁師になると約束されました。
あなたも、そうだ、そんな約束もあったものだ。あんな夢ももったものだと思うことがあるかもしれない。。。
ペテロは、どうしていいかわらなかったので、昔なじみの漁に出ることにした。そして、他の友たちもついてきた。
皆さん、いいですか、この朝、イエス様はご自分を表されたのです。すべては、イエス・キリストなのです。
いいワーシップでも、教会でも、いいメッセージを聞くことでもないのです、イエス・キリストです。キリストに関することであります。
ペテロは、漁にでました。彼は、自分の召命に対して、迂回をするようにして漁にでました。そこには、絶望と、自分に対する失望があったからです。
そして、漁に出てても、昔からなじんだ仕事であっても、何もとれなかったのです。一匹もです。
私たちも、よくなれている仕事があるでしょう、癒しのミニストリーでも、預言でも、牧会でも慣れ親しんできた仕事でも、うまくいかない、一匹もとれないようなことがある。
イエス・キリストの臨在こそが、魚を引き寄せる一番の要因であるのです。
イエスがそこにおられるかどうか、が重要なのです。
学校に行こうが、何をしようが、そこにイエスがいるかどうかで、全ては違ってくるのです。
There stood Jesus
イエスはそこに立っておられた。
しかし、弟子たちは、イエスが分からなかったのです。
「こどもたちよ、魚がとれましたか?」 ときかれても、分からなかった。イエス様は、あなた方に今、この季節、「イエスがいる」ことを知ってほしいのです。イエス・キリストがすべてであることを。
「右に網をおろしてみなさい」と言われました。そう言われてもイエスと気が付かなかったでしたち。
右側というのは、なぜ右側なのか。ここには、深遠な意味がある。
右は、権威という意味がある。弟子たちが、権威をそこに招いたときに、大量の魚がとれた。いくら働いても、キリストの権威なしに働いても何もとれないのです。
また、有名な放蕩息子の絵画を見たことがあるだろうか。放蕩息子を抱く父の手であるが、右は、女性の手をしており、左は男の手をしている。右は、母のやさしさを表す。母のやさしさは、我々は、ただ受け入れるということであるが、我々は、しばしば、それをしようとはしない。
また、この朝に、岸辺からイエスの声がするとはだれが想像しただろう。キリストは、私たちが今まで予想したことのないところから語り掛けるというしるしである。
イエス・キリストが我々の中心である。
ヨハネは、言った。「主です!」
いくら熱心に主の仕事をしていようと、どんな立派な仕事をしようが、キリストと関係を持っていなければ、分からない。ヨハネは、キリストとの親しい関係にあって、それが主であると分かったのです。
ペテロは、それと聞いて、裸であったが、そこにある、漁師の服をまとってから水に飛び込んだ。何を示しているのだろう。一度、キリストから、人を取る漁師にしてあげようと召された。
その召命の象徴として服をまとい、思い切って水に飛び込んでイエス様のもとに急いだのであった。再献身の始まりであった。
今日一日のためイエスを求めよう。今日一日のみことばを求めよう。あなたの召命の服を着て水に飛び込もう。あなたには、フレッシュな信仰が必要です。今日、再献身して、召しに生きるためには、新しく神を信頼する必要があります。今日一日の信仰でいいのです。
イエスは、パンと魚を用意して待っていた。キリストご自身は、いのちのパンと言われるおかたである。これは、キリストからの個人的なあなたへの招きであります。
朝食は、英語で、Breakfast といいます。つまり、Break the fast 断食をやめる。食べない、不足していることを破ることです。
あなたの過去の失敗、成功しない道、なかなか取れない漁、家族の問題、何も開かれないそういう 不足の気持ちを破ることです。
イエスがともにいて、食事をさせてくださり、そして、その断食を破らせてくださいます。
イエスは、来なさいと招いています。これは、新しい献身の第一歩であり、始まりです。昨日のことは、終わりました。今日から、あなたは新たにまた力を得るのです。
ぼ
投稿日 2016-10-18 19:46
ワオ!と言っているユーザー
投稿日 2016-10-19 09:05
ワオ!と言っているユーザー