《襍・/・画  “ 秋景(13)”  ❖ ’23-105 ❖》

観音埼灯台(かんのんさきとうだい)は、日本最古の洋式灯台。
神奈川県横須賀市、三浦半島東端の観音崎に立っている。
白色八角形の中型灯台で、日本の灯台50選に選ばれている。
我々を含め地元民は、かんのんざき、といっていた!?!
剱埼灯台(つるぎさきとうだい)は、神奈川県三浦市東部、
剱崎突端に立つ白亜塔形の大型灯台。
ここも我々は、〝けんざき〟とよんでいる。

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観音埼灯台(かんのんさきとうだい)、剱埼灯台(つるぎさきとうだい);
1866年、米・英・仏・阿蘭陀の4ヶ国と結んだ「改税条約」(江戸条約)によって、
江戸幕府が建設を約束した8ヶ所の灯台(条約灯台)の二つ。
観音埼灯台(かんのんさきとうだい)は、東京湾、浦賀水道を照らし、
東京湾海上交通センターとあわせ
海上交通が輻輳する浦賀水道航路の安全に寄与している。
初代の設計はレオンス・ヴェルニー等が担当したが、大正時代の地震により2度再建され、
現在の灯台は3代目にあたる。
かつて浦賀水道を照らしていた西浦賀の燈明堂に代わり、
1869年に点灯した。
「改税条約」(江戸条約)によって建設された8ヶ所の灯台の中で、
最も早く完成・点灯した。
初代建設当初は煉瓦造りの四角い洋館建て設計だった。
設計は、レオンス・ヴェルニー(仏人)等が担当。
屋上に灯塔を設けたフランス風白色八角形の煉瓦造灯台で、
地上から灯火までの高さは 12.12 m 。
フランス製の第3等フレネル式レンズ、3重心灯器を使用し、
実効光度 1,750 cd 、光達距離は14海里(約 26 km)。
 

剱埼灯台の設計は「灯台の父」と呼ばれるお雇い外国人リチャード・ブラントンが担当。
当初は石造であった。現在使用されている灯台はコンクリート造である。
関東地震(関東大震災)の後に再建された2代目のもの。
三浦半島南東端に位置し浦賀水道・相模灘を照らす。
剱崎から南南東に位置する館山市洲崎(洲埼灯台)までが、
浦賀水道(東京湾)と太平洋の境界となる。
周辺は岩礁が発達し、対岸に房総半島を望む風光明媚な地である。

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《今日・・11月1日は、燈台記念日》
日本最初の洋式燈台は、1868に東京湾入り口近くの観音崎に設置された。
この日に着工された事を記念して海上保安庁が1949(昭和24)年に制定した。 

この観音崎灯台のあたり周辺にかつて、ガクアジサイの群落が要所にあった。
今や、風前のともしび。時代と共に開発で植物環境も変化。一寸寂しい。
観音崎燈台の近くに走水(はしりみず)という場所がある。
その地の上、丘陵地帯は防衛大学校の広大な敷地。
東京湾を眼下に国防を担う学生が学んでいる。
創設当初の学生は、九州人が多くいて、泳ぎが苦手な人が見受けられた。
暖かな日曜日、走水海岸で自主トレ!!してる学生さんがいた。
懸命に練習中の学生さんを餓鬼の僕らは、茶化したものだ。
この防衛大学校のお陰で緑濃い丘陵になっている。その恩恵で美味しい湧き水がでる。
美味しい水が、海岸の生物にも及び、魚介類の宝庫である。
ここ走水の鯵は、絶品である。美味なアジフライがいただける。
近年、当地に横須賀美術館が出来た。走水は、歴史的にも面白い土地だ。
残念なのは、横須賀の海岸線が埋め立てられ平成町等が出来た事。
子供の頃、夏の灯籠流しを楽しんだ。そのお供物野菜等が馬堀海岸にあつまる!!
夏の海水浴は、なんともすごいことになっていた。今となっては、楽しい思い出。
今、京浜急行は、浦賀が支線になっているが、かつては本線だった。
浦賀にドックがあり元々は、そこへの交通機関として開通したのが京急である。
段々と忘れ去られるかつての環境。かろうじて残ったのが、走水だ。
この先、開発変貌しないことを祈る。素朴だが由緒ある土地。
観音崎・剣崎燈台周辺だけでも歴史的環境として残って欲しい。 

「令和伍年(皇紀2683年)11月1日、記」

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