地名考
4月
29日
これまで、漫然とこんな名前に不思議と思わずに使っていた
恐らく地元の人々はこの名称が何故付いているのか、何処から
来たのかは分からないであろう
wahooも半世紀以上にわたり、不思議とも違和感を覚えずにいた
先般、網野善彦氏の著作を拝読し、wahooの実体験がこれを
裏付けていると確信をした
昭和37〜38年(1962頃)画像の外海府を歩いた
当時は道路が無く、海岸線を歩き沢をよじ登りバス路線のある
地区までの旅であった
その途中に「願」と云う集落があり、小さな布切れで一部を覆った
「海女」が双眼の水中眼鏡を着けて収穫をしていた
後にその地区の人にその状況を話し伺うと、能登半島の舳倉島から
出稼ぎに来た「海女」で何人かは地元の人間と世帯を持ったが
その「海女」は故人となっている
戦前(1945)には韓国 済州島からも来ていたと話していた
前述した網野善彦氏は茨城の霞ヶ浦から紀伊半島、瀬戸内海
九州五島列島、済州島、隠岐、若狭、能登、佐渡に跨り
『海夫』や「松浦党」などの海遊民がおり、交易などを
盛んにしていたと書いている
この『海夫』は「海部」や「海府」などと表記されている
平安、奈良の時代を遡り、海遊民が自由に行き来したのは
多くの学者が述べている
税としての「調」に北の「昆布」が載っている記録があるという
地名はその地域の歴史を物語る大切なもので、簡単に変更する事で
貴重な歴史遺産を抹消する昨今を憂いている