今月11月15日は坂本龍馬没後150年でした。龍馬が倒れた慶応3年11月15日の春 4月に「海援隊」が発足。最初の航海に使ったのが大洲藩から借り受けた船を「いろは丸」と名付け長崎から瀬戸内海を航海して上方に初航海に出ました。4月19日の事でした。いろは丸はイギリスで建造された全長54m、45馬力、160トンの鉄製スクリュー船で乗員乗客(お客も乗っていたらしい)34名が乗船していました。4月23日深夜11時頃 香川県荘内半島沖で紀州藩船明光丸と衝突してしまい、曳航しようとしましたが沈没してしまいます(いろは丸事件)。乗員乗客は全員 明光丸に救助され、翌朝鞆の浦に上陸します。鞆の浦で24日から27日まで鞆の浦で龍馬は明光丸側と補償談判をします。しかし鞆の浦での交渉は決裂し、その後長崎で談判を再開して後藤象二郎 岩崎弥太郎、五代才助などを入れて 結果的に紀州藩から賠償金額83526両を支払う事で決着します。日銀高知支店のHPによると現在の価格で164億円と言う事だそうです。(後に減額して7万両が支払われています)長崎で紀州藩から土佐藩に賠償金が支払われましたがその一週間後11月15日に龍馬は京都近江屋で刺客に襲われ、賠償金を見る事は有りませんでした。補償金は、いろは丸船主の大洲藩や海援隊士に支払われたとされています。龍馬を失った海援隊はその年に解散になった様です。長崎土佐商会と海援隊の会計責任者であった岩崎弥太郎は龍馬の意志を継いで後の三菱商会を興しています。 時は移って昭和63年、鞆の浦の町おこし隊 「鞆を愛する会」はいろは丸の海底調査に乗り出します。有志を募り4回の海底調査をして いろは丸と龍馬の足跡を探しました。その調査を元に資料館として開館しているのが「いろは丸展示館」です。内部には沈んでいる いろは丸の状態を再現したジオラマや引き揚げた品々を展示しています。海底調査の結果 龍馬が補償交渉に挙げた積み荷の 最新式エミエール銃400丁も金塊も発見出来ませんでした。このストーリーは鞆の浦で考えられたに違いありません。海援隊の前身の亀山社中の時にも船を失っています。大洲藩より船をリースして海援隊初航海にこの海難事故を再び起こしているので龍馬は海難事故に関して色々学んでいたと思われます。大藩の紀州藩は 脱藩浪士の海援隊のゲリラ戦法に翻弄された様にも思われます。黒船来航以後 日本社会は外国文明の波による急速なパラダイムシフトが起こった時代です。今の時代にも通じる部分があるように思います。龍馬没後150年、今も龍馬が愛される所以なのでしょう。 長崎での賠償交渉中 龍馬達は丸山界隈にこんな流行歌を流行らせています。 船を沈めたその償いは金を取らずに国をとる〜 いろは丸賠償金について : http://www3.boj.or.jp/kochi/ryomatookane5.html