大分は八鹿酒造と西の関酒造の日本酒です。
日本全国で日本酒で乾杯をしようと各自治体が乾杯条例を続々と制定しています。
ここ京都は日本酒の生産が伏見にある蔵を中心に全国有数な地です。
そんな中で京都市は全国に先駆けて乾杯条例を制定し施行しました。(平成25年1月15日)
★京都大分県人会はサッポロビールさんが来賓でしたので出来ませんでした。
京都大分県人会総会に兵庫神戸大分県人会を代表して出席してきました。
土御門内裏跡の碑
現在は「京都ガーデンパレス」 に。
ここは鳥羽天皇、崇徳天皇、近衛天皇の三代の天皇が約24年間に渡り使用していた
里内裏(平安宮内裏以外の邸宅を天皇の在所として用いたもの)があったところです。
南北は上長者町・下長者町通、東西は烏丸通・室町通間の100メートル四方を占めていましたが、火災に遭い台風で倒壊。保元の乱(1156)によって廃絶されました。
南北は上長者町・下長者町通、東西は烏丸通・室町通間の100メートル四方を占めていましたが、
火災に遭い台風で倒壊。保元の乱によって廃絶されました。
この石標はその里内裏跡を示すものです。
現在は、平成8年その一部が京都ガーデンパレスとなってます。
禁門の変(きんもんのへん)は、元治元年7月19日(1864年8月20日)に、京都で起きた武力衝突事件。
蛤御門の変(はまぐりごもんのへん)、元治の変(げんじのへん)、元治甲子の変とも呼ばれる。
門の周辺が長州藩との激戦地となった。
現在でも蛤御門の門柱に命中した弾痕を確認することができる。
【禁門の変(蛤御門の変)】
京都を追放されていた長州藩勢力が、会津藩主・京都守護職松平容保らの排除を目指して挙兵し、
京都市中において市街戦を繰り広げた事件である。
御所の西辺である京都蛤御門付近で長州藩兵と会津・桑名藩兵が衝突、ここに戦闘が勃発。
蛤御門(はまぐりごもん)は、現在の京都御苑の外郭九門の一つ。
本来の正式名称は 「新在家御門(しんざいけごもん)」 門の形状は高麗門型の筋鉄門。
御所の火災の際、滅多に開くことのなかった門がこの時だけは開いたため、
固く閉じていたものが火にあぶられて開いたことをハマグリになぞらえて
「蛤御門」 という俗称が付けられたとされる。
京都御所の南西角にあるムクの巨樹。
かってはここに清水谷家という公家の屋敷があったためにこの名が付いています。
京都御苑の中の樹木の中ではそんなに大きな木ではないが目立つ位置にあります。
幹周/約4m、樹齢/約300年。
幕末の1854年(元治元年)に起きた蛤御門の変の時には,長州藩士の来島又兵衛が
この木の下で討ち死にしたといわれています。
昨日の京都は真夏のような暑さでした。
そんな中で京都に行く用事があり時間が少しありましたので京都御所に!
氷点下ビールでカンパイ!
アサヒスーパードライ・エキストラコールド!
ブラックニッカ クリアのフリージングハイボールです!
久しぶりのカラオケでした! 歌ってる画像はありません!
- ブログルメンバーの方は下記のページからログインをお願いいたします。
ログイン
- まだブログルのメンバーでない方は下記のページから登録をお願いいたします。
新規ユーザー登録へ