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鉄労から見た当局の生産性運動  第二話

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二ヶ月も開けてしまいましたが、再び生産性運動とその取り巻く環境ということでお話しをさせていただこうと思います。

国鉄幹部の生産性研修、管理局の局長クラス及び本社の局長クラスの研修を開始

国鉄が自製の生産性運動の取組始めた頃、国鉄本社では管理局などにあっても管理職の生産性運動が始まっていましたが、本社のあっては生産性運動に関しては冷ややかな幹部もいたと言われています。
その辺は、大野光基著、「国鉄を売った官僚たち」にも出てきますが、昭和46年度経営計画が理事会で決定され、国鉄としての独自の生産性運動がスタート、経営理念として以下のような文言が刻まれました。
「われわれは、人間尊重の理念に基づいた経営に徹し、労使一体となって全職員が積極的に再建に参画することが必要である。このことが、ひいては国鉄の発展及び職員の福祉向上につながる唯一の道である。」
として、生産性運動は国鉄経営と一体化した経営としてスタート、本社局長及び鉄道管理局長研修が第一回目が5月24日から、第二回目が6月8日から3泊4日の計画で始まったとされています。
生産性研修は、管理局長に対しても強い自己反省の機会となったとして、以下のような発言があったとしています。
引用してみたいと思います。

生産性研修は管理局長に対しても、強い自己反省の機会となった。「組合側に闘争をやらないでくれと当局は頼んでいた」「組合の前に当局は妥協に妥協を重ねてきた」「私自身忸怩たるものがある、もっと勉強したい」というような発言が相次ぎ。「もはや組合と対決しかない」というのがほとんどの局長の結論であった。

「国鉄を売った官僚たち」 P175~176

と有りますように、現場に近い管理局長には生産性運動が自己反省であり組合への妥協をしてきた事への反省となったことは間違いないと言えそうですが、本社はこうした生産性運動に関しては無関心であったそうです。

キャリア制度は国鉄時代は変更されることはなく

現場を預かる鉄道管理局長が、東京南鉄道管理局長外数名が欠席したのに対して、本社局長クラスはわずか一人だけという結果だったことに、国鉄本社の中では生産性運動に対していかに無関心であったかが窺えます。
国鉄本社の局長クラスにしてみれば、その向いている方向は現場ではなく、政府であり国会議員の動向などに向いていたのかもしれません。
実際、本社採用のキャリアの場合は、他の省庁のキャリア同様のスピード出世であり、20代で現場長などを経験することとなるため、現場の改革などを思い描くと言う意識は勢い少なくなるわけです。

こうした学歴偏重の問題は現在にも残っており、官僚制度の問題と言えます。
国鉄としてもこの辺を打開しようとした動きはありましたが、結果的に国鉄が民営化されるまで変更が加えられることはありませんでした。
国鉄の強固な官僚主義は、結果的に国鉄にあって事なかれ主義を生み出し、安易に組合との妥協を生み出す結果となり、更に政府の介入を招くことになるなどの大きな弊害を生んだと言えるかもしれません。

組合から見た生産性運動

そこで、今度は再び組合側から見た生産性運動を見ていきたいと思います。

鉄労では、国鉄が行っている生産性運動が、間違った形の運動になりつつあることを懸念しています。
すなわち、生産性運動が、サービス超勤のや担当業務以外の業務への強制などと言う形で新たな職員の負担になっているのではないかと指摘しています。
少なくとも、鉄労は正しい生産性運動理論を身につけることは、当面の重要かつ急を要する課題だと認識していました。
更に、も、当局幹部に生産性運動に熱心でないものが居ることも十分把握していたようです。

さらに、国労でも生産性運動に対する反対運動が行われているのですが、かなり混乱していたと、国鉄民主化の道では書かれています。

すなわち、国労自体は元々民同左派以外に、当時は反戦青年委員会(いわゆる新左翼)のグループによる攪乱があったようで、2月24・25日に開催された、拡大中央委員会では傍聴者によるヤジ(反戦青年委員会)が盛んに飛んでおり、議長が、「お通夜のような会議にしようとは思わぬが、限度がある。」として度々注意したがダメであったと書かれています。

階級闘争


国労の方針としては、生産性運動を粉砕するための教育を行うという方針が決定したものの、目新しいものではなく。
生産性運動に対する理論的に身につける総合運動とは、「マルクスの階級闘争理論を身につける」ことであったとしています。

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鉄労から見た当局の生産性運動

スレッド
生産性運動当時の組合の相関図を... 生産性運動当時の組合の相関図を模式的に書いてみました。
鉄労は結成当初から生産性運動を提唱

生産性運動は、鉄労にしてみれば組合結成当初(新国労時代)からの理念であり、
生産性運動の3原則

  1. 雇用の維持拡大

  2. 労使の協力と協議

  3. 成果の公正な分配



が、その根底にあるものであるとしていました。

食い違う組合の考え方

鉄労にしてみれば、国鉄当局が合理化を推進するために、生産性運動を導入したという考え方に立っていたの対し、国労・動労は鉄労が当局の施策に乗っかってちゃっかり組合員を増やしているという発想になったわけです。

実際は、鉄労が新国労と呼ばれた時代から生産性運動の理念を提唱しており、合理化の推進は生産性を高めることであるとして、合理化に反対であった国労・動労の反合理化闘争とは一線を画すものでした。

当局の生産性運動は、方向が間違えていると指摘

そんな中、当局の生産性運動は、粗製濫造気味で正しい生産性教育がなされていないのではないかと危惧しています

国鉄民主化への道 P494から、少し長いですが引用します。

最近特に注目されることは、国鉄当局が、管理者、職場の中堅職員に生産性運動を徹底的に行っているという事実であります。私たちは経営者が生産性教育を実施するのは当然のことだと思いますし、我が国の有識者の手によって、昭和30年から発足したこの運動を、昨今要約取り上げたことについて、むしろ遅きに失するものと、かねてから指摘してたところであります。
それだけに、国鉄当局が進めている生産性教育が、効果的で正しく普及することを期待するものでありますが、現在のところ粗製濫造の感があり、生産性運動の真の意義を体せず、超過勤務の強制、分担業務以外のものの強要という誤った形に昇華されようとしている事実が随所に現れつつあります。(中略)私たちが正しい生産性運動の理論を身につけることは、当面の重要でかつ急を要する課題だと思います。


引用終わり

と有りますように、本来に生産性運動の理念は、生産性向上による、雇用の増大であり、労働者(のみに限りませんが)への富の再配分が目的でした。
以下は、「生産性運動に関する3原則 」と呼ばれるもので、日本生産性本部が掲げている、本来の生産性運動の理念を現したものです。

(1)雇用の維持・拡大
生産性の向上は、究極において雇用を増大するものであるが、過渡的な過剰人員に対しては、国民経済的観点に立って能う限り配置転換その他により、失業を防止するよう官民協力して適切な措置を講ずるものとする。
(2)労使の協力と協議
生産性向上のための具体的な方法については、各企業の実情に即し、労使が協力してこれを研究し、協議するものとする。
(3)成果の公正配分
生産性向上の諸成果は、経営者、労働者および消費者に、国民経済の実情に応じて公正に分配されるものとする。

国鉄当局のミスは、生産性運動の自製化

生産性運動の理念では、生産性の向上は資本家による搾取でもなく、むしろ雇用の拡大であり、富の再配分であることが明記されています。
国鉄の生産性運動も当初は、日本生産性本部の職員が、研修を行っていましたが、生産性運動の拡大を目指した当局は、生産性運動の自製化を進め、学園等で国鉄職員による研修が行われたことから、鉄労が指摘しているように、粗製濫造と言えるような間違った生産性運動が誤った形に昇華されようとしていると危惧していますが。
図らずも、この鉄労の危惧は現実となり、国労が始めたマスコミを買収してのマル生撲滅キャンペーンにより、こうした誤った生産性運動が報道されることとなり、国鉄当局は苦境に追い込まれることとなりました。

その辺は次回改めて記述してみたいと思います。
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輸送力増強と国鉄 第1話 輸送力増強

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雑誌 国鉄線 昭和31年10月... 雑誌 国鉄線 昭和31年10月号から引用

この章では、戦後の復興に向けての輸送力の増強を中心にお話をして行きたいと思います。昭和30年代のお話につきましては章を改めて行ないたいと思います。

輸送力増強

昭和24年9月、戦後初めての「特急 へいわ」が運転を開始しました。
 戦後の暗い世相の中でたとえ一般庶民には高嶺の花であった特急列車が復活するということは国民に希望を与えるものでした。
 特に、「へいわ」という愛称は、戦後の国民には素直に受入れられる名称では有りましたが、愛称については、改めて公募が行なわれることとなりました。
全国から約16万通の応募があり、その中から1,500余通を占めた「つばめ」が選ばれました。これにより、昭和25年1月1日をもって「へいわ」は「つばめ」に改称されました。
余談ですが、初代「へいわ」に使われたテールマークと「はと」のデザインは全く同じ物が使われています。さらに、同年5月11日には姉妹特急として「はと」が運転を開始しました。
 なお、特急つばめですが、昭和25年5月からは、特別2等車(現在のグリーン車)が連結されました。
これは、GHQの民間運輸局(CTS)といって、国鉄の基本的な政策などを勧告と指示を与えるポスト)のシャグノン大佐という人の強い要望(強制?)によると言われています。
このとき作られた特別2等車がスロ60と言われる形式で定員は44人と現在の標準的な車両よりもゆったりとした設計になっていました。この車両は主に外国人専用として使われたようです。
  その後、当時の日本人向けにシートの間隔を狭めたスロ50(定員48人)、スロ51(定員52人)の3形式が登場しました。
従来の向かい合わせ式の2等車は並2等(並ロ)、リクライニング装備の2等車は特二等(特ロ)と呼ばれて区別され、特別2等車には特別料金が設けられました。
これらの車両は現在のグリーン車の基礎を築いたという点では注目すべきものであり、すこぶる評判の悪かったCTSにおいて唯一評価できるものといわれています。

なお、国鉄当局は当初は1等車扱いにしたかったようですが、許可が下りず止む無く特別2等車という名称にしたわけで、結果的に2等車の全体的なかさ上げが出来たと言われています。
併せてご覧ください。


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