ロマ書15章 One mind 思いを一つに
3月
13日
今週で、ローマ書は15章です。みなさん、一章からの流れ、覚えていますか? まず、一章でロマ書のテーマである、1:16 「私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。」For I am not ashamed of the gospel of Christ, for it is the power of God to salvation for everyone who believes, for the Jew first and also for the Greek. からはじまりました。そして、罪について、救いについて、ユダヤ人の誇りとしてした律法や習慣について、また信仰によって義とされることについて、信仰によって誰でも義とされること、真の礼拝について、キリスト身体について、クリスチャン生活についてと続きました。そして、16章は終わりの挨拶ですから、実質15章がパウロのローマ人への最終メッセージになります。さて、パウロは、何を言うのでしょうか。一章のテーマ聖句を頭において読んでいきましょう。
★ 力のない人の弱さを担う
ロマ15:1-6 私たち力のある者は、力のない人たちの弱さをになうべきです。自分を喜ばせるべきではありません。2 私たちはひとりひとり、隣人を喜ばせ、その徳を高め、その人の益となるようにすべきです。3 キリストでさえ、ご自身を喜ばせることはなさらかったのです。むしろ、「あなたをそしる人々のそしりは、あなたの上にふりかかった」と書いてあるとおりです。4 昔書かれたものは、すべて私たちを教えるために書かれたのです。それは、聖書の与える忍耐と励ましによって、希望を持たせるためなのです。5 どうか、忍耐と励ましの神が、あなたがたを、キリスト・イエスにふさわしく、互いに同じ思いを持つようにしてくださいますように。6 それは、あなたがたが、心を一つにし、声を合わせて、私たちの主イエス・キリストの父なる神をほめたたえるためです。
パウロは、いかに私たちが弱い位置にある者たちの助けになることが大切かと言っています。この場合の「弱さ」は、信仰によって自由に行動ができない人々をさしています。それは、最終的に、すべての人が主、イエス・キリストにあって、父なる神をほめたたえ、礼拝するためであります。そのためには、自分を喜ばせることばかりを考えるのではなく、どうすれば他者の益となることができるかと心を配る必要があります。一章を思い出しましょう。それは、キリストによって、ユダヤ人同志のことだけでも、異邦人同志のことだけでもなくなりました。すべての人が心を一つに礼拝することができるように、というパウロの願い。神様からのメッセージが込められています。
★ 宣教について
ロマ15:16-20
それも私が、異邦人のためにキリスト・イエスの仕え人となるために、神から恵みをいただいているからです。私は神の福音をもって、祭司の務めを果たしています。それは異邦人を、聖霊によって聖なるものとされた、神に受け入れられる供え物とするためです。17 それで、神に仕えることに関して、私はキリスト・イエスにあって誇りを持っているのです。18 私は、キリストが異邦人を従順にならせるため、この私を用いて成し遂げてくださったこと以外に、何かを話そうなどとはしません。キリストは、ことばと行いにより、19 また、しるしと不思議をなす力により、さらにまた、御霊の力によって、それを成し遂げてくださいました。その結果、私はエルサレムから始めて、ずっと回ってイルリコに至るまで、キリストの福音をくまなく伝えました。20 このように、私は、他人の土台の上に建てないように、キリストの御名がまだ語られていない所に福音を宣べ伝えることを切に求めたのです。
パウロは、神様から直接に召され、異邦人に遣わされる器となりました。イエス様の救いの福音を伝えることで神と人とをつなぐ祭司の役割をしています。異邦人たちを救いに導くために、神様はパウロをいろいろなところを通して、実現させてくださいました。詳しいことは、使徒の働きを読んでみてください。たくさん細かいエピソードが書かれています。イエス様にしたがって神の働きをするパウロは、そのことばに、行いにキリストを宿しました。キリストとともに働きました。インカーネイション。また、しるしと奇跡をおこないました。使徒1:8にあるとおりに、聖霊に満たされてエルサレムからイルリコ(ギリシャの北、現・アルバニア)まで福音を伝えました。クリスチャンのいないところ、いないところへパウロは宣教していきました。
★ 宣教のために捧げること
ロマ15:26, 27
それは、マケドニヤとアカヤでは、喜んでエルサレムの聖徒たちの中の貧しい人たちのために醵金(きょきん)することにしたからです。27 彼らは確かに喜んでそれをしたのですが、同時にまた、その人々に対してはその義務があるのです。異邦人は霊的なことでは、その人々からもらいものをしたのですが、物質的な物をもって彼らに奉仕すべきです。
エルサレムには、物資のたりない貧しい状態のクリスチャンたちがいました。また、パウロは元キリスト者迫害者であり、今は、使徒となり、今度は異邦人にイエス様を熱心に伝えているというので、あるユダヤ人指導者たちからはすこし変な目で見られているということもありました。そんな中、ギリシャ地方の異邦人クリスチャンたちは、困っているエルサレムの人たちにお金を募りパウロに託けることにしたのです。いつもなら、こういうことを献金と呼びますが、この聖書の箇所では「醵金」と書いてあります。ギリシャ語では、コイノニアという言葉がつかわれています。この言葉は、一般的には、「交わり」を指して使われる言葉です。が、交わりの証しとして捧げられる捧げものにも使われています。キリスト者の交わりというものは、ただ、ともに時間を共有するのではなく、「何かを互いに分け与え合うということ」にほかなりません。一節から六節のところで話した通り、本当の交わりがあるなら、心が一つであるなら、互いに支え合い、与えあい、そして、神をともにほめたたえることができるのです。
★ 宣教のために祈ること
ロマ15:30
兄弟たち。私たちの主イエス・キリストによって、また、御霊の愛によって切にお願いします。私のために、私とともに力を尽くして神に祈ってください。Now I beg you, brethren, through the Lord Jesus Christ, and through the love of the Spirit, that you strive together with me in prayers to God for me,
パウロは、福音を恥としない。と一章から初めて、そして、最後に福音宣教に焦点を当てています。パウロがどんなに宣教のために未開地へ未開地へと進んでいったのか。そして、またキリスト者のネットワーク、人種を越えて結んでいく。そして、今からエルサレムに行くので、ぜひ、お祈りしてほしいとやがて会いに行きたいと願ってやまないローマ人たちにお願いしているのです。
冒頭の「弱い」もののために重荷を担う、ということは、物質的なことだけでなく、霊的なことにも及びます。パウロは、宣教のために、弱さを支えて欲しいとお願いしてます。
★ 思いを一つに
私たちの教会は、アメリカにある、日本とアメリカの文化両方、両方の言語がいるユニークな教会です。私たちは、日本とアメリカをいろろいな意味でつなぐ、ハブのような教会に思います。すでに、もう数十人の方が日本に帰国されています。つづけて彼らのために祈っていきたいと思います。ますます、互いに与えあい、支え合い、そして、祈りのあふれる教会にならせていただきたいものです。
ぼ
投稿日 2017-03-15 04:40
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投稿日 2017-03-15 06:09
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投稿日 2017-03-18 13:55
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投稿日 2017-03-18 15:41
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