自転車の置物、ザンビアで手作りされたそうです。$70 自転車のないところに送られるのかな? 大好きなフリモントのチョコレート工場Theo チョコレートのお店にて。。。。Theo チョコレートは、youtube でおなじみの、しゃべる猫シオちゃんのモデルになったものです。チョコの包みに猫がついているので。。。。
新しい学生さんたちが宮崎県から。。。ゆみちゃんと一緒に、フリモントを案内しました。ここは、ガスワークスパークですー。
事務所のお花は、こんなにも満開ですーー。たくさん花をつけましたーー。すごい!
2015年10月4日日曜日礼拝音声は、https://youtu.be/tRjCfvZhbUg
エゼキエル13章、14章
13章では、偽預言者への審判が語られ、14章では、偽預言者に追従する者への警告が語られています。
預言とは、神からの言葉を預かりそれを民に語ることです。自分の言葉ではありません。また、預言者とは、それをするように召されたものです。そして、旧約聖書の時代は、全員がそれをしているわけではなく、ごくごく数人の神様に選ばれた人がその仕事をすることが出来ました。
新約の時代は、誰でもが神様の声を聞くことが出来るようになりました。また、私たちの内に神様が住んでくださるのです。
今日は、13章、14章を通して、私たちが注意しなければならないこと、神様からの新約に住む私たちへのメッセージをいただいて行きたいと思います。
イスラエルの預言者ども。。。と言って神様はお叱りの言葉を語られています。時は、混乱、苦悩、この先自分たちの生活はどうなっていくのだろうという、捕囚の時代のお話です。
そんな時に、まやかしの言葉、預言と言いながら、自分の心のままに預言しているものがあったようです。
神様は、次のように偽預言者にたいして裁きの言葉を語られています。
エゼキエル13:2-3
2 「人の子よ。預言をしているイスラエルの預言者どもに対して預言せよ。自分の心のままに預言する者どもに向かって、主のことばを聞けと言え。3 神である主はこう仰せられる。自分で何も見ないのに、自分の霊に従う愚かな預言者どもにわざわいが来る。2 “Son of man, prophesy against the prophets of Israel who prophesy, and say to those who prophesy out of their own heart, ‘Hear the word of the LORD!’” 3 Thus says the Lord GOD: “Woe to the foolish prophets, who follow their own spirit and have seen nothing!
そもそも、バビロン捕囚は、民への教訓であり、懲らしめでありました。今まで、どんなに警告しても悔い改めない偶像礼拝の罪によって引き起こされたことでした。
けれども、神の預言者を名乗っている人たちが心のままに、神の霊に従わないで、自分の霊に従って預言していたのです。大丈夫だ、大丈夫だと。。。
全く、神様と、イスラエルの民との関係の文脈から外れてしまっている。この文脈でいうなら、平安や、国の安泰と言うのは、民の悔い改めがなければありえないはずである。
◎ 文脈が大事
私たちも、聖書を読むときに、切り貼りするように神の言葉を自分に適用することは、間違う可能性がある。聖書の中には、さまざまな言葉がある。励ましや、慰め、叱責やいろいろとありますね。それを、聖書のストーリーの文脈を無視して、切り取って、自分に適用するのは、愚かなことです。自分の人生の文脈とあっていたり、今の状況にあっていることを適用するものです。また、神様と自分の関係の文脈に大幅にかけ離れている言葉は適用できないはずです。
私は、このような経験があります。。私を愛しているし、私のためを思っているからこその言葉なんだろうけど、神様のものではない気がすることがありました。。。
私は、なかなか結婚に導かれませんでした。今まで、いろいろな良いともだちに、祈っていて示されたというような言葉をもらいました。誰々さんとあなたが昨日結婚する夢を見ました。とか、もうすぐ結婚するとか。。。特に、私が意中の人と私が結婚する夢を見ましたといってこられた時は、神様からの預言だと思って、その人は、神の言葉を語ったと信じました。しかし、そうはならなかったのです。
聖書は、預言の言葉は吟味するべきだと書いています。おさらいしてみましょう。
◎ 預言の吟味について
聖書では、預言は吟味すべきだと書いてある。
Ⅰコリント14:26-33
兄弟たち。では、どうすればよいのでしょう。あなたがたが集まるときには、それぞれの人が賛美したり、教えたり、黙示を話したり、異言を話したり、解き明かしたりします。そのすべてのことを、徳を高めるためにしなさい。
27 もし異言を話すのならば、ふたりか、多くても三人で順番に話すべきで、ひとりは解き明かしをしなさい。28 もし解き明かす者がだれもいなければ、教会ではだまっていなさい。自分だけで、神に向かって話しなさい。29 預言する者も、ふたりか三人が話し、ほかの者はそれを吟味しなさい。30 もしも座席に着いている別の人に黙示が与えられたら、先の人は黙りなさい。31 あなたがたは、みながかわるがわる預言できるのであって、すべての人が学ぶことができ、すべての人が勧めを受けることができるのです。32 預言者たちの霊は預言者たちに服従するものなのです。33 それは、神が混乱の神ではなく、平和の神だからです。
How is it then, brethren? Whenever you come together, each of you has a psalm, has a teaching, has a tongue, has a revelation, has an interpretation. Let all things be done for edification. 27 If anyone speaks in a tongue, let there be two or at the most three, each in turn, and let one interpret. 28 But if there is no interpreter, let him keep silent in church, and let him speak to himself and to God. 29 Let two or three prophets speak, and let the others judge. 30 But if anything is revealed to another who sits by, let the first keep silent. 31 For you can all prophesy one by one, that all may learn and all may be encouraged. 32 And the spirits of the prophets are subject to the prophets. 33 For God is not the author of confusion but of peace, as in all the churches of the saints.
新約聖書では、教会の徳を高めるために預言はある。と、言っています。イエス様が来られて、更に恵みがましている時代となっています。イエス様の十字架によって罪が赦されているからですね。
預言の吟味の仕方は、次の三つです。
①聖書の真理にあっているか、神様のご人格にそっているか。
②他の人の口からも同じ預言が語られる。(預言の言葉が与えられてどうしても自分が語らなければならないと重いがちですが、タイミングがなくても、預言の言葉はそもそも神様からくるので、自分から出なくても、必ず同じ言葉が他人の口からも出てくるのです)
③自分の霊が確証するか。自分の深いところで、アーメンという感覚が与えられます。
◎ 本物を知る必要性
偽札を見破る一番の訓練は、本物のお札によく触れ、よく見て経験することだそうです。そうすれば、偽札が来た時、すぐに手触りだけでもすぐに識別できるのだそうです。
私たちは、どれほど本物を知っているでしょうか。神様の言葉、神様のご性質。。。
ヨハネ10 羊は羊飼いの声を良く知っている
エゼキエル14:3
3 「人の子よ。これらの者たちは、自分たちの偶像を心の中に秘め、自分たちを不義に引き込むものを、顔の前に置いている。わたしは、どうして彼らの願いを聞いてやれようか。3 “Son of man, these men have set up their idols in their hearts, and put before them that which causes them to stumble into iniquity. Should I let Myself be inquired of at all by them?
偽の預言、または、偽の預言者について行く人たちにも特徴があるようです。
◎心に秘めた偶像について
神様は、はっきりと、心に偶像がある、と指摘しています。その隠された偶像が、偽預言を引き寄せているのです。
私の体験談にあったとおりですね。私の心の中に意中の人と言う、偶像があったので、偽の預言が来たときに、その言葉を簡単に信じてしまったのです。カチンとかみ合って、磁石が引き合うようにくっついてしまったのです。
心の中に、あなたの隠れた神(偶像)がいるならば、その偶像にあうことしか、人は聞こうとしないのです。偶像のフィルターを通して物事を聞くようになるのです。その偶像にあうものだけを聞いて、それにあわないと、聞かないのです。結局、人と言うのは、自分の心の中心にあるものにのみ仕えるものなのです。二人の主人に仕えることができないと、イエス様が言われたとおりですね。。。
一人でバイブルスタディをしたり、聖書を読んでいても同じことです。心に偶像があるなら、あることしか、心に響きません。そうなれば、霊的な成長もできないのです。
◎悔い改めが、全てを変える
聖書では、私たちの考えのフィルターをのぞくことが出来るのは、心の一新であると書かれています。(ロマ12:2) それは、悔い改めによります。
神様は、エゼキエル14章で、偶像を捨て去りなさい、悔い改めなさいとすすめておられます。神様は、裁きのみを強調する神ではありません。必ず、私たちの更生と改善、私たちの真の幸せのために叱ってくださいます。神様は、いつも私たちの悔い改めを待っていてくださいます。
私たちが、神の声を聞こうとするとき、聖書を読むときに、一番にすべきことは、神様の前に心を空っぽにすることですね。心にある悩みを全てイエス様の足元において、そして、頭の中にいっぱいにある、将来の計画や今日しなければならない日程など、全ておいて、神様の前に、悔い改めるべきことは、悔い改め、真っ白な状態で神様に向かうのがいいですね。
神様は、私たちの空っぽの心を愛でいっぱいに満たして下さることでしょう。
ぼ
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投稿日 2015-10-06 09:11
ワオ!と言っているユーザー
投稿日 2015-10-06 09:15
ワオ!と言っているユーザー