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「あなたは、わたしに従いなさい」

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「あなたは、わたしに従いなさい...
 
 
 
ホサナキリスト教会・日曜礼拝のメッセージアウトラインです。
 

「あなたは、わたしに従いなさい」
 

ヨハネ福音書 21章17~23節
 

"イエスは三度目もペテロに、「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛していますか」と言われた。ペテロは、イエスが三度目も「あなたはわたしを愛していますか」と言われたので、心を痛めてイエスに言った。「主よ、あなたはすべてをご存じです。あなたは、私があなたを愛していることを知っておられます。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を飼いなさい。
まことに、まことに、あなたに言います。あなたは若いときには、自分で帯をして、自分の望むところを歩きました。しかし年をとると、あなたは両手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をして、望まないところに連れて行きます。」
イエスは、ペテロがどのような死に方で神の栄光を現すかを示すために、こう言われたのである。こう話してから、ペテロに言われた。「わたしに従いなさい。」
ペテロは振り向いて、イエスが愛された弟子がついて来るのを見た。この弟子は、夕食の席でイエスの胸元に寄りかかり、「主よ、あなたを裏切るのはだれですか」と言った者である。
ペテロは彼を見て、「主よ、この人はどうなのですか」とイエスに言った。
イエスはペテロに言われた。「わたしが来るときまで彼が生きるように、わたしが望んだとしても、あなたに何の関わりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい。」
それで、その弟子は死なないという話が兄弟たちの間に広まった。しかし、イエスはペテロに、その弟子は死なないと言われたのではなく、「わたしが来るときまで彼が生きるように、わたしが望んだとしても、あなたに何の関わりがありますか」と言われたのである。"
 
 
 
(1) 「あなたに何の関わりが?」~他者との比較は、相対関係に縛られる
 
 
①ヨハネとペテロの立ち位置
 親しい友人であり、弟子グループの中でも最高序列であるゆえに、互いが気になった
 
② それぞれの行く道は異なる
 ヨハネは弟子集団の中で唯一天寿を全うし、後年、迫害の中でパトモス島に流される。ペテロは、ローマにおいて逆さ十字架の殉教死を遂げた
 

(2)「あなたはわたしに」~焦点を1つに絞るなら、相対世界は消え去る
 
①イエス様だけを見つめて行く道
 他者が転んでも成功しても、優越感や対抗心を感じることのない神の御前に生きる絶対世界が開かれて

②絶対の愛を受け入れることによってのみ可能とされる世界
「あなたはわたしを愛しますか」とイエス様はペテロに3度尋ねられた
 
 
(3) 「従いなさい」
 

①20節「イエスの愛された弟子」とはヨハネのことであり、「後についてくる」の直訳は「従う」
 ヨハネにはヨハネの従う道があり、ペテロにはペテロの従う道がある
 
② その行き着く道は「神の栄光」の表われ
 イエス様は、他者との関わりや世の中の評価で私を見る事は無い
 
 
 (結論)
 

主は今日も、私たちに問いかけておられる
~「あなたはわたしを愛しますか」
 
私だけが従うべき専有道路がある
~「あなたはわたしに従いなさい」
 
それは既に主が通られた十字架と復活の道
あなたの負うべき十字架の向こうに復活の栄光がある
#メッセージ

「あなた方も、私の手の中にある」

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「あなた方も、私の手の中にある...
 

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「あなた方も、私の手の中にある」
 

エレミヤ書 18章1~10節
 

"主からエレミヤに、このようなことばがあった。
「立って、陶器師の家に下れ。そこで、あなたにわたしのことばを聞かせる。」
私が陶器師の家に下って行くと、見よ、彼はろくろで仕事をしているところだった。
陶器師が粘土で制作中の器は、彼の手で壊されたが、それは再び、陶器師自身の気に入るほかの器に作り替えられた。
それから、私に次のような主のことばがあった。
「イスラエルの家よ、わたしがこの陶器師のように、あなたがたにすることはできないだろうか──主のことば──。見よ。粘土が陶器師の手の中にあるように、イスラエルの家よ、あなたがたはわたしの手の中にある。
わたしが、一つの国、一つの王国について、引き抜き、打ち倒し、滅ぼすと言ったそのとき、
もし、わたしがわざわいを予告したその民が立ち返るなら、わたしは下そうと思っていたわざわいを思い直す。
わたしが、一つの国、一つの王国について、建て直し、植えると言ったそのとき、
もし、それがわたしの声に聞き従わず、わたしの目に悪であることを行うなら、わたしはそれに与えると言った幸せを思い直す。"
 
 
(1)  粘土と陶器師


①人は粘土から造られた
 神は陶器師であり、人が土(粘土)であるとのモチーフは創世紀から
 
② エレミヤの見た陶器の制作現場
 ろくろを回しながら粘土をこねて制作中だった
 自分の手の中で壊して、再び陶器師自身の気に入った器に作り替えていた
 

(2) 再制作される粘土
 

①土には命の息、神の霊が吹き込まれて、神の形に似せて造られた
 ~ところが人の現実は「どこに神の形があるのか」と疑うほど根跡が見られない
 
②「手の中で壊される」とは再設計・再創造が自らのよるものではなく、他者に任せなくてはならないことを示唆
 

(3) 陶器師の手の中で
 

① 人は自分で自分を変えることはできない
 これまでの生活習慣から形作られた性格、遺伝による傾向性、また文化的継承からの凝り固まった心
 
② 人生のろくろは回り続けて
 その心にいのちの水を注いで柔らかくし、ご自身の望む形に変えてくださる方がおられる
 
 
(結論)
 

私たちの希望は私を創り、今もその御手の中に私を保ち、造り替え続けてくださる神にある。
「私たちの資格は、神からのもの」(Ⅱコリント3章5節)
#メッセージ

「砦に入って」

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「砦に入って」
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「砦に入って」
 

イザヤ書 27章1~6節
 
"その日、主は、鋭い大きな強い剣で、逃げ惑う蛇レビヤタンを、曲がりくねる蛇レビヤタンを罰し、海にいる竜を殺される。
「その日、麗しいぶどう畑について歌え。
わたし、主はそれを見守る者。絶えずこれに水を注ぎ、だれも害を加えないように、夜も昼もこれを見守る。
わたしにもう憤りはない。もしも、茨とおどろがわたしと戦えば、わたしはそれを踏みつぶし、それをみな焼き払う。
あるいは、もしわたしという砦に頼りたければ、わたしと和を結ぶがよい。和をわたしと結ぶがよい。
時が来れば、ヤコブは根を張り、イスラエルは芽を出し、花を咲かせ、世界の面を実で満たす。」"
 
 
(1)  植物を育てるなら
 
①時には虫に食い荒らされたり、風雨で茎が折れたりする~それでも水をやり、虫を退治し、汚れた葉を取り除く世話をする
 
② Israelはぶどう畑に例えられる
 常時、神の注視と守りの中に置かれている(3)~私たちはブドウの枝で父なる神は農夫であると主も例えられた(ヨハネ15章)
 
 
(2) 世話の外にある植物もある
 
 
①いばらとおどろ~神に敵対する勢力で、呪いの下にある存在 (8)
 
②イスラエルを迫害した周辺諸国の大帝国である(1)ーアッシリアやバビロン、エジプトを象徴~しかしこれは神に背を向けていた私自身の現実でもあった
 
 
(3) 砦にはいって
 
①「砦」~要塞や堅固な避難所、保護の手段
 現実的で即物的なそこにある神の助けを意味する

②「わたしと和を結ぶが良い」(5)
 ここに2回繰り返されているのは、必要な助けを差し出す神の熱い心の表れ
 
 
(結論)
 
私もかつていばらやおどろでしかなかった。神に敵対し、裁きの中に置かれていたものである。
神との和解(シャローム)を得るために、今も、「砦」に招かれてる
 
 
 
 
 
 

「内なる人が強くされるように」

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「内なる人が強くされるように」...
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「内なる人が強くされるように」
 

エペソ人への手紙 3章14~17節
 

"こういうわけで、私は膝をかがめて、
天と地にあるすべての家族の、「家族」という呼び名の元である御父の前に祈ります。
どうか御父が、その栄光の豊かさにしたがって、内なる人に働く御霊により、力をもってあなたがたを強めてくださいますように。
信仰によって、あなたがたの心のうちにキリストを住まわせてくださいますように。そして、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、"
 

(1) 内の中にいるもう1人の自分
 
 
①人は自分自身を意識し、思考の対象とする存在。自己対話をして、その存在理由を確かめ得るもの。
 
②複数の自分が対立して受容できなコンプレックス。傷ついて痛む心、意地悪で汚れた自分に愛想をつかしている。
 
 
(2) 内なる人:イエス様

①自分とは異なる別人格が生き始める
 今までとは異なる次元の世界が出現してくる。
 
②主イエスが私の内にお住まいくださると言うのだ。
"わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしもその人のうちにとどまります。"  (ヨハネの福音書 6章56節)
 
(3) 内なる人が強くされて
 
①キリストが私の内に住んでくださるのは、信仰による=「御霊により、力をもって」強められて
 
②父なる神の「栄光の豊かさ」に従って実装される
 

(結論)
 
思い出したくない過去の過ち、フラッシュバックされる傷とその痛みに、向き合ってくださる方がおられた。
私の中にある分裂や対立を癒してくださる方だ

「わたしのところに来なさい」

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「わたしのところに来なさい」...
 

ホサナキリスト教会・日曜礼拝のメッセージアウトラインです。
 


「わたしのところに来なさい」
 
マタイの福音書 11章25~30節
 
"そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主であられる父よ、あなたをほめたたえます。あなたはこれらのことを、知恵ある者や賢い者には隠して、幼子たちに現してくださいました。
そうです、父よ、これはみこころにかなったことでした。
すべてのことが、わたしの父からわたしに渡されています。父のほかに子を知っている者はなく、子と、子が父を現そうと心に定めた者のほかに、父を知っている者はだれもいません。
すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。
わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」"
 

(1) わたしのところに来なさい
 
 
 ❶パリサイ主義の自縛の元で疲弊していた人たち
 人が人を治める世の中には、自由も平等もない
 神が人を治める世の中にも、その「神」解釈次第によってより悲惨な世界を生み出す
 
❷律法の本質を明らかにしたイエス様(22) 
 人の「賢いものや知恵あるもの」には隠されていた真理
 
 
(2)  わたしのくびきを負って
 
 
❶「休ませてあげます」に接続している言葉
 引退後の無為な虚無生活は、より大きなストレスとなり負担となる
 人は、他者の役に立つ何かの役割を担うことで生かされる
 
❷「くびき」について
 2頭の牛の首を板により固定し、荷車や農具を引かせる農具
 主イエスとの二人三脚 
 主に重荷を担ってもらう一方で、主の重荷を担う生き方がある
 
 
 
(3)  わたしから学びなさい
 
 
❶「父を知る者」(27)として、さらに父を探求する過程の始まり
 (例)ソドムの街に対するAbrahamの執り成し
 神を説得しているように見えるが、その実はAbrahamに期待していた神
 
❷主イエスが担うくびきとは何か
 この方が背負っているものは何か、この方の嘆きや悲しみとは何か、
 この方は喜びや希望をどこに見出しているのか
 
 
(結論)
 

私たちにとって最も価値あるものは、「たましいの安らぎ」(29)ではなかろうか
束縛とストレスの多いこの世界の中で、主は、その安らぎを与えようとしておられる
 
①主の元に来るように招かれている
 
②主とともにくびきを負う生き方が始まる
 
③絶えず上を目指して学び続ける生涯である

「生きるにしても、死ぬにしても、 私たちは主のもの」

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「生きるにしても、死ぬにしても、 私たちは主のもの」...
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「生きるにしても、死ぬにしても、
私たちは主のもの」
 
 
ローマ人への手紙 14章7~9節
 
"私たちの中でだれ一人、自分のために生きている人はなく、自分のために死ぬ人もいないからです。
私たちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死にます。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。
キリストが死んでよみがえられたのは、死んだ人にも生きている人にも、主となるためです。"
 

(1) キリストに所有されている私たち~所有権の移行
 
 
❶キリストに出会う以前の私たちは、自分は自分のものであると考えている
 すると、弱さや挫折に失望し、思いが実現すれば高慢となる
 
❷キリストに出会った今、私は私のものではなくなった
 病や様々な限界で悩む体や心も、キリストのものである
 罪深い心でさえも、キリストが所有するものとなった
 
 
(2) 私の内に生きたもうキリスト~生きている主体の変更
 
 
❶私の立てる計画と神の御思いは一致しないかも?
 自分が生きているなら、その欲やエゴに振り回されることになる
 高貴な存在に触れる時に、自分との乖離を思い知らされ、畏れを抱く
 相応しいない自分に失望するが、、、
 
❷キリストの十字架を見上げる時、その血潮がこの罪深い身に及ぶ
 キリストと1つとされる
 神の子の尊厳に満たされて生き始める
 
 
(3)  永遠は一瞬に、一瞬は永遠の中に
 
 
❶ 瞬間の出来事が人生を決定することがある
 クロノスに対してカイロス
 キリストの十字架と復活と言う1出来事が2000年を経た今日にも決定的な意味を持つ
 永遠に有効なこの神の救済の業は、一瞬の出来事の中にあった
 
❷生も、死も乗り越える神の業は、今この時にも有効
 たとえ生きていても、たとえ死を迎えても、キリストにつながっているゆえに
 キリストと同様の死と復活を経験する
 
 
(結論)
 
 
❶愛が何であるかを学ぶ
 食物や安息日規定について、何が正しいかの議論に先立つものは愛
 
❷その生き方は、キリストの所有とされたことを知ることから始まる
 もはや私は、自分のために生きているのでなく、死ぬものでもない
 
❸主は言われた
"イエスは彼女に言われた。「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。
また、生きていてわたしを信じる者はみな、永遠に決して死ぬことがありません。あなたは、このことを信じますか。」" (ヨハネの福音書 11章25~26節)
#メッセージ

「御霊による自由」

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「御霊による自由」
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「御霊による自由」
 
 
コリント人への手紙 第二 3章6~18節
 
"神は私たちに、新しい契約に仕える者となる資格を下さいました。文字に仕える者ではなく、御霊に仕える者となる資格です。文字は殺し、御霊は生かすからです。
石の上に刻まれた文字による、死に仕える務めさえ栄光を帯びたものであり、イスラエルの子らはモーセの顔にあった消え去る栄光のために、モーセの顔を見つめることができないほどでした。そうであれば、
御霊に仕える務めは、もっと栄光を帯びたものとならないでしょうか。
罪に定める務めに栄光があるのなら、義とする務めは、なおいっそう栄光に満ちあふれます。
実にこの点において、かつては栄光を受けたものが、それよりさらにすぐれた栄光のゆえに、栄光のないものになっているのです。
消え去るべきものが栄光の中にあったのなら、永続するものは、なおのこと栄光に包まれているはずです。
このような望みを抱いているので、私たちはきわめて大胆にふるまいます。
モーセのようなことはしません。彼は、消え去るものの最後をイスラエルの子らに見せないように、自分の顔に覆いを掛けました。
しかし、イスラエルの子らの理解は鈍くなりました。今日に至るまで、古い契約が朗読されるときには、同じ覆いが掛けられたままで、取りのけられていません。それはキリストによって取り除かれるものだからです。
確かに今日まで、モーセの書が朗読されるときはいつでも、彼らの心には覆いが掛かっています。
しかし、人が主に立ち返るなら、いつでもその覆いは除かれます。
主は御霊です。そして、主の御霊がおられるところには自由があります。
私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。"
 
 
(1) 自由はどこに見出されるか
 
 
①理想を追求する結果、極端な悪行に走ってしまう人間の愚行
 ~「ああ、自由よ! お前の名において、どれほど多くの罪が犯されることか!」
  (1793年、フランス革命時にでギロチン台に上がるロラン夫人の言葉)
 
②「真理はあなたを自由にする」(ヨハネ8:32)
 主の言葉にとどまるなら、主の弟子となり、その時に真理に至り、その真理が私たちに自由をもたらすとキリストは言われた
 

(2) モーセの顔のおおい(出エジプト34章)
 

 ①律法~その文字による支配は死の務めである
 神と語ったモーセの顔は輝いていた。よって覆いが必要だった。
 山から降りた彼の顔を直視できない民衆は、人間の罪深さ、弱さを表している。
 
②モーセの書が朗読される時にもかけられていた心のおおい(15)
 物理的にモーセの顔にかけられたおおいが、ここでは比喩的に用いられている。
 それは文字に拘泥し、その行動規範を意識する余り、律法精神を理解しない盲目を意味する
 

(3)  栄光から栄光へ
 

 ①キリストのみがそのおおいを取り除く
 「人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれる」(16) ~モーセは主と向き合って語るときには覆いを取り外した故事が前提。
圧倒されるキリストの栄光の中で、真理への理解と内的刷新が始まる
 
②「主の御霊のある所には自由がある」(17)
 主に心を向ける時、主の御霊が内に満ちてくださる時に自由を得る
 
 
(結論)
 
 
主の栄光を反映させ、栄光から栄光へと進む
 
私たちは、困難な人生の現実に直面することがある。
 
しかし、
痛みや苦しみの中で、人を祝福する自由
復讐心や怒りの渦まく中で、敵のために祈る自由
厳しい誘惑の中で、なおも正しくあり続ける自由
 
~主と同じ姿に変えられてゆく、主の働きである
#メッセージ

「主は私の羊飼い」

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「主は私の羊飼い」
ホサナキリスト教会・日曜礼拝のメッセージアウトラインです。
 

「主は私の羊飼い」
 

詩篇 23篇1~6節
 
"主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。
主は私を緑の牧場に伏させいこいのみぎわに伴われます。
主は私のたましいを生き返らせ御名のゆえに私を義の道に導かれます。
たとえ死の陰の谷を歩むとしても私はわざわいを恐れません。あなたがともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖それが私の慰めです。
私の敵をよそにあなたは私の前に食卓を整え頭に香油を注いでくださいます。私の杯はあふれています。
まことに私のいのちの日の限りいつくしみと恵みが私を追って来るでしょう。私はいつまでも主の家に住まいます。"
 

(1) 順境の日、逆境の日
 
❶神がいるのなら順境の日だけを与えてくれたら良いのに
 
 ❷信者であってもなくても、すべての人に順境の日があり、逆境の日も襲ってくる
 
 
(2) 喜びの時、反省の時
 
 「"順境の日には幸いを味わい、逆境の日にはよく考えよ。
これもあれも、神のなさること。」 伝道者の書 7章14節
 
❶喜びの時(幸せを味わう)~神もともに喜んでおられる
 
❷反省の時(よく考えよ)~人格が練り上げられ、神への信頼が根を下ろす時

・祝福の基と約束されたアブラハム~飢饉や戦争、老いによる自己否定
・エジプトの宰相となったヨセフ~冤罪を受け、14年間の監獄生活
・次代王に約束されたダビデ~命狙われる逃亡の日々
 
 
(3)  「あなたがともにおられますから」
 
❶ 希望はどこにあるのか?     
 順境が続くとかって不安が募る
 約束や保証それ自体ではなく、それを与えられる方が共におられる確信
 
❷死の陰の地を歩むとも
 やがて緑の牧場に導かれる
 
 
(結論)
 

恐れなくとも良い=乏しい事は無いのだから
順境の日は、大いに喜ぼう。神もともに喜んでおられる
逆境の日は、神への信頼を深めるチャンスとなり得る
羊飼いのむちと杖は、針路を示し「義の道」へと導く
#メッセージ

丙午(ヒノエウマ)

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丙午(ヒノエウマ) シアトルの空港に飾られている春... シアトルの空港に飾られている春節 丙午(ヒノエウマ) 丙午(ヒノエウマ)
春節の季節となり、中国圏では新年を祝うムードが広がっています。
 
伝統的な東アジアの暦(十二支と五行の組み合わせ)によると、今年は60年に一度の「丙午(ひのえうま)」の年です。干支の「午」に「丙」の火が重なる、特別な組み合わせです。
 
この干支のサイクルは古代中国に起源を持ち、民間信仰や暦の占い的な要素が強く、自然の調和や運勢を考える伝統的な風習から生まれました。
 
中国では丙午の年を「火のエネルギーが強く、火災が多い」と忌み嫌う風習はありましたが、女性に対する特別なネガティブな迷信は日本独自に発展したものです。
 
江戸時代(1603〜1868年)頃から、「丙午生まれの女性は気性が激しく、夫の命を縮める」「家を滅ぼす」といった根拠のない迷信が広まりました。
 
元々は「丙午の年には火事が多発する」という言い伝えが、17世紀の八百屋お七の放火事件と結びつき、歌舞伎や浄瑠璃を通じて民衆に浸透したと言われています。中国ではこうした女性を貶める解釈はほとんど見られません。
 
この迷信の影響は深刻で、前回の丙午年である1966年には、日本の出生数が前年比で約25%も激減しました。女の子が生まれるのを避けようとする家庭が多かったためです。迷信が社会現象を引き起こした、歴史的な例です。
 
先日教会で出会った姉妹が、まさにその1966年の丙午生まれでした。彼女は片足を伸ばして、真っ赤なスニーカーを見せながら誇らしげに「ひのえうま生まれなんです!」と言いました。
 
最初は何のことかわかりませんでしたが、彼女は子供の頃、周囲からの偏見や蔑視を受けて育ったそうです。それでも今、彼女は明るく力強く生きています。
 
今回初めて気がついたのですが、ヒノエウマを英語で表わすなら、Fire Horse。これは米国の「不死鳥-Phoenix」に通じるのではないか? 
火と馬のイメージは、燃え尽きても再生するような力強さと不屈の精神を連想させます。
 
世間の古い迷信が何と言おうと、彼女の不屈の精神に心を打たれました。火の馬のように情熱的で自由な魂が、これからも力強く駆け抜けていきますように。
 
 
As spring unfolds and the Lunar New Year season begins in Chinese communities around the world, it’s a time of fresh starts and reflection. 
 
According to the traditional East Asian calendar—which combines a 12-year animal cycle with five elements (wood, fire, earth, metal, water)—this year marks the rare “Fire Horse” (known in Japanese as Hinoe-Uma or 丙午, pronounced “hee-no-eh oo-mah”). 
This special combination occurs only once every 60 years.
 
The zodiac system originated in ancient China as part of folk cosmology, traditional almanacs, and popular beliefs about living in harmony with nature’s cycles—not as part of a major organized religion like Buddhism or Taoism, but more as cultural divination and seasonal wisdom. 
 
In China, a Fire Horse year was sometimes viewed as carrying intense “fire” energy, potentially linked to more fires or volatility. But the specific, dramatic superstition targeting women born in this year developed uniquely in Japan.
 
From the Edo period (1603–1868) onward, Japanese folklore claimed that girls born in a Fire Horse year would grow up with fiery, strong-willed personalities—too independent or passionate to be good wives. 
 
Extreme versions even suggested they might “shorten their husband’s life” or bring ruin to the family. This baseless idea likely stemmed from earlier notions of frequent fires in those years, amplified by the tragic story of Yaoya Oshichi, a 17th-century woman executed for arson and later mythologized in plays and stories as a Fire Horse native. 
 
Over generations, this turned into a widespread Japanese superstition with little parallel in China or elsewhere in East Asia.
The superstition had real consequences: in the last Fire Horse year, 1966, Japan’s birth rate dropped sharply—by about 25%—as many families avoided having daughters out of fear for their future marriage prospects. 
It’s a powerful reminder of how cultural myths, even without evidence, can influence real decisions and lives.
 
Recently at church, I met a sister who was born in that very 1966 Fire Horse year. With a big smile, she stretched out her leg to show off her bright red sneakers and said proudly, “I’m a Fire Horse baby!” At first, I had no idea what she meant. 
 
She went on to share that, growing up, she faced prejudice and judgment from people who believed the old superstition. Yet here she was, decades later, radiating confidence and joy.
 
For the first time, I realized that “Hinoe-Uma” in English is simply “Fire Horse.” And in that name, the image of fire and a swift, powerful horse feels almost like a symbol of resilience and rebirth—something that echoes, in a way, the majestic phoenix of American and Western folklore, rising renewed from flames. 
No matter what outdated superstitions say, her story shows how labels and old fears can try to hold people back—but they don’t have to succeed. 
 
The “fire” in Fire Horse evokes something untamed and enduring, much like the strength we admire in those who overcome hardship.
I hope she—and every woman who has carried this label—continues to run her race with that same bold, unquenchable spirit.
#伝統 #暮らし #歴史

「神の業がこの人に現れるため」

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「神の業がこの人に現れるため」...
 

「神の業がこの人に現れるため」
 
 
ヨハネの福音書 9章1~5節
 
 
"さて、イエスは通りすがりに、生まれたときから目の見えない人をご覧になった。
弟子たちはイエスに尋ねた。「先生。この人が盲目で生まれたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。両親ですか。」
イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。この人に神のわざが現れるためです。
わたしたちは、わたしを遣わされた方のわざを、昼のうちに行わなければなりません。だれも働くことができない夜が来ます。
わたしが世にいる間は、わたしが世の光です。」"
 
 
⑴ 過去のゆえに現在がある
 
 
❶弟子らの問いにあるユダヤ教背景
 ・子孫の罪~重大な親の罪は、その子や孫にまで及ぶ
 ・胎内での罪~胎児であっても、母の罪に共犯できる重大犯罪がある
 ・不幸は、罪の罰と考えられていた

❷仏教による因果応報
 悪事が起こると「罰が当たった」と考えられてきた
 
 
(2) 未来は現在を引き寄せる
 

❶「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもない」~イエスによるパラダイムシフト
 
❷ヘブル人は、神の言葉・約束によって未来を見据えて、これが先に定まっているので現在を引き寄せ、形成すると考えた。
 
ヘブル語用法から

 ・qudem(ケデム); 過去=前=東
 ・acharit(アハリート); 未来=後ろ
 ヘブル人は、時間と空間の概念を1つのものとして捉えていた
 

(3)  神の業がこの人に現れるため
 

 ❶「神の業」は複数形であることに留意
 ・創造主による物理的ないやし(4-7)
 ・近所の人々への証言(8-12)
 ・パリサイ人らとの論争(13-34)
   👉盲人の信仰が揺さぶられ、試され、成長していく
   👉パリサイ人らの霊的盲目さが露呈していく
 ・盲人の信仰告白(35-38)
 
❷生まれつき盲人の開眼は、メシア的奇跡の1つ 
 イエスにしかできない神の業に与った盲人
 会堂追放の憂き目にあっても、これに勝る特権を得た
 

(結論)
 
 
神の業は私を通し、生まれ持ったハンディを通し、その性格や特質を通して進められる。
それは必ずしも私が望む方法や成功ストーリーではない。
それはイエス様にしかできないことだ。
私が究極に望むものは何か。
主イエスに出会うことではないだろうか。
 
「主よ。私は信じます。」そして彼はイエスを拝した。(ヨハネ9:38)
#メッセージ
ハッピー
悲しい
びっくり