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「わたしのところに来なさい」

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「わたしのところに来なさい」...
 

ホサナキリスト教会・日曜礼拝のメッセージアウトラインです。
 


「わたしのところに来なさい」
 
マタイの福音書 11章25~30節
 
"そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主であられる父よ、あなたをほめたたえます。あなたはこれらのことを、知恵ある者や賢い者には隠して、幼子たちに現してくださいました。
そうです、父よ、これはみこころにかなったことでした。
すべてのことが、わたしの父からわたしに渡されています。父のほかに子を知っている者はなく、子と、子が父を現そうと心に定めた者のほかに、父を知っている者はだれもいません。
すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。
わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」"
 

(1) わたしのところに来なさい
 
 
 ❶パリサイ主義の自縛の元で疲弊していた人たち
 人が人を治める世の中には、自由も平等もない
 神が人を治める世の中にも、その「神」解釈次第によってより悲惨な世界を生み出す
 
❷律法の本質を明らかにしたイエス様(22) 
 人の「賢いものや知恵あるもの」には隠されていた真理
 
 
(2)  わたしのくびきを負って
 
 
❶「休ませてあげます」に接続している言葉
 引退後の無為な虚無生活は、より大きなストレスとなり負担となる
 人は、他者の役に立つ何かの役割を担うことで生かされる
 
❷「くびき」について
 2頭の牛の首を板により固定し、荷車や農具を引かせる農具
 主イエスとの二人三脚 
 主に重荷を担ってもらう一方で、主の重荷を担う生き方がある
 
 
 
(3)  わたしから学びなさい
 
 
❶「父を知る者」(27)として、さらに父を探求する過程の始まり
 (例)ソドムの街に対するAbrahamの執り成し
 神を説得しているように見えるが、その実はAbrahamに期待していた神
 
❷主イエスが担うくびきとは何か
 この方が背負っているものは何か、この方の嘆きや悲しみとは何か、
 この方は喜びや希望をどこに見出しているのか
 
 
(結論)
 

私たちにとって最も価値あるものは、「たましいの安らぎ」(29)ではなかろうか
束縛とストレスの多いこの世界の中で、主は、その安らぎを与えようとしておられる
 
①主の元に来るように招かれている
 
②主とともにくびきを負う生き方が始まる
 
③絶えず上を目指して学び続ける生涯である

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「生きるにしても、死ぬにしても、 私たちは主のもの」

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「生きるにしても、死ぬにしても、 私たちは主のもの」...
ホサナキリスト教会・日曜礼拝のメッセージアウトラインです
 
 
 
「生きるにしても、死ぬにしても、
私たちは主のもの」
 
 
ローマ人への手紙 14章7~9節
 
"私たちの中でだれ一人、自分のために生きている人はなく、自分のために死ぬ人もいないからです。
私たちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死にます。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。
キリストが死んでよみがえられたのは、死んだ人にも生きている人にも、主となるためです。"
 

(1) キリストに所有されている私たち~所有権の移行
 
 
❶キリストに出会う以前の私たちは、自分は自分のものであると考えている
 すると、弱さや挫折に失望し、思いが実現すれば高慢となる
 
❷キリストに出会った今、私は私のものではなくなった
 病や様々な限界で悩む体や心も、キリストのものである
 罪深い心でさえも、キリストが所有するものとなった
 
 
(2) 私の内に生きたもうキリスト~生きている主体の変更
 
 
❶私の立てる計画と神の御思いは一致しないかも?
 自分が生きているなら、その欲やエゴに振り回されることになる
 高貴な存在に触れる時に、自分との乖離を思い知らされ、畏れを抱く
 相応しいない自分に失望するが、、、
 
❷キリストの十字架を見上げる時、その血潮がこの罪深い身に及ぶ
 キリストと1つとされる
 神の子の尊厳に満たされて生き始める
 
 
(3)  永遠は一瞬に、一瞬は永遠の中に
 
 
❶ 瞬間の出来事が人生を決定することがある
 クロノスに対してカイロス
 キリストの十字架と復活と言う1出来事が2000年を経た今日にも決定的な意味を持つ
 永遠に有効なこの神の救済の業は、一瞬の出来事の中にあった
 
❷生も、死も乗り越える神の業は、今この時にも有効
 たとえ生きていても、たとえ死を迎えても、キリストにつながっているゆえに
 キリストと同様の死と復活を経験する
 
 
(結論)
 
 
❶愛が何であるかを学ぶ
 食物や安息日規定について、何が正しいかの議論に先立つものは愛
 
❷その生き方は、キリストの所有とされたことを知ることから始まる
 もはや私は、自分のために生きているのでなく、死ぬものでもない
 
❸主は言われた
"イエスは彼女に言われた。「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。
また、生きていてわたしを信じる者はみな、永遠に決して死ぬことがありません。あなたは、このことを信じますか。」" (ヨハネの福音書 11章25~26節)
#メッセージ

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「御霊による自由」

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「御霊による自由」
ホサナキリスト教会・日曜礼拝のメッセージアウトラインです。
 
 
「御霊による自由」
 
 
コリント人への手紙 第二 3章6~18節
 
"神は私たちに、新しい契約に仕える者となる資格を下さいました。文字に仕える者ではなく、御霊に仕える者となる資格です。文字は殺し、御霊は生かすからです。
石の上に刻まれた文字による、死に仕える務めさえ栄光を帯びたものであり、イスラエルの子らはモーセの顔にあった消え去る栄光のために、モーセの顔を見つめることができないほどでした。そうであれば、
御霊に仕える務めは、もっと栄光を帯びたものとならないでしょうか。
罪に定める務めに栄光があるのなら、義とする務めは、なおいっそう栄光に満ちあふれます。
実にこの点において、かつては栄光を受けたものが、それよりさらにすぐれた栄光のゆえに、栄光のないものになっているのです。
消え去るべきものが栄光の中にあったのなら、永続するものは、なおのこと栄光に包まれているはずです。
このような望みを抱いているので、私たちはきわめて大胆にふるまいます。
モーセのようなことはしません。彼は、消え去るものの最後をイスラエルの子らに見せないように、自分の顔に覆いを掛けました。
しかし、イスラエルの子らの理解は鈍くなりました。今日に至るまで、古い契約が朗読されるときには、同じ覆いが掛けられたままで、取りのけられていません。それはキリストによって取り除かれるものだからです。
確かに今日まで、モーセの書が朗読されるときはいつでも、彼らの心には覆いが掛かっています。
しかし、人が主に立ち返るなら、いつでもその覆いは除かれます。
主は御霊です。そして、主の御霊がおられるところには自由があります。
私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。"
 
 
(1) 自由はどこに見出されるか
 
 
①理想を追求する結果、極端な悪行に走ってしまう人間の愚行
 ~「ああ、自由よ! お前の名において、どれほど多くの罪が犯されることか!」
  (1793年、フランス革命時にでギロチン台に上がるロラン夫人の言葉)
 
②「真理はあなたを自由にする」(ヨハネ8:32)
 主の言葉にとどまるなら、主の弟子となり、その時に真理に至り、その真理が私たちに自由をもたらすとキリストは言われた
 

(2) モーセの顔のおおい(出エジプト34章)
 

 ①律法~その文字による支配は死の務めである
 神と語ったモーセの顔は輝いていた。よって覆いが必要だった。
 山から降りた彼の顔を直視できない民衆は、人間の罪深さ、弱さを表している。
 
②モーセの書が朗読される時にもかけられていた心のおおい(15)
 物理的にモーセの顔にかけられたおおいが、ここでは比喩的に用いられている。
 それは文字に拘泥し、その行動規範を意識する余り、律法精神を理解しない盲目を意味する
 

(3)  栄光から栄光へ
 

 ①キリストのみがそのおおいを取り除く
 「人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれる」(16) ~モーセは主と向き合って語るときには覆いを取り外した故事が前提。
圧倒されるキリストの栄光の中で、真理への理解と内的刷新が始まる
 
②「主の御霊のある所には自由がある」(17)
 主に心を向ける時、主の御霊が内に満ちてくださる時に自由を得る
 
 
(結論)
 
 
主の栄光を反映させ、栄光から栄光へと進む
 
私たちは、困難な人生の現実に直面することがある。
 
しかし、
痛みや苦しみの中で、人を祝福する自由
復讐心や怒りの渦まく中で、敵のために祈る自由
厳しい誘惑の中で、なおも正しくあり続ける自由
 
~主と同じ姿に変えられてゆく、主の働きである
#メッセージ

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「主は私の羊飼い」

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「主は私の羊飼い」
ホサナキリスト教会・日曜礼拝のメッセージアウトラインです。
 

「主は私の羊飼い」
 

詩篇 23篇1~6節
 
"主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。
主は私を緑の牧場に伏させいこいのみぎわに伴われます。
主は私のたましいを生き返らせ御名のゆえに私を義の道に導かれます。
たとえ死の陰の谷を歩むとしても私はわざわいを恐れません。あなたがともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖それが私の慰めです。
私の敵をよそにあなたは私の前に食卓を整え頭に香油を注いでくださいます。私の杯はあふれています。
まことに私のいのちの日の限りいつくしみと恵みが私を追って来るでしょう。私はいつまでも主の家に住まいます。"
 

(1) 順境の日、逆境の日
 
❶神がいるのなら順境の日だけを与えてくれたら良いのに
 
 ❷信者であってもなくても、すべての人に順境の日があり、逆境の日も襲ってくる
 
 
(2) 喜びの時、反省の時
 
 「"順境の日には幸いを味わい、逆境の日にはよく考えよ。
これもあれも、神のなさること。」 伝道者の書 7章14節
 
❶喜びの時(幸せを味わう)~神もともに喜んでおられる
 
❷反省の時(よく考えよ)~人格が練り上げられ、神への信頼が根を下ろす時

・祝福の基と約束されたアブラハム~飢饉や戦争、老いによる自己否定
・エジプトの宰相となったヨセフ~冤罪を受け、14年間の監獄生活
・次代王に約束されたダビデ~命狙われる逃亡の日々
 
 
(3)  「あなたがともにおられますから」
 
❶ 希望はどこにあるのか?     
 順境が続くとかって不安が募る
 約束や保証それ自体ではなく、それを与えられる方が共におられる確信
 
❷死の陰の地を歩むとも
 やがて緑の牧場に導かれる
 
 
(結論)
 

恐れなくとも良い=乏しい事は無いのだから
順境の日は、大いに喜ぼう。神もともに喜んでおられる
逆境の日は、神への信頼を深めるチャンスとなり得る
羊飼いのむちと杖は、針路を示し「義の道」へと導く
#メッセージ

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丙午(ヒノエウマ)

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丙午(ヒノエウマ) シアトルの空港に飾られている春... シアトルの空港に飾られている春節 丙午(ヒノエウマ) 丙午(ヒノエウマ)
春節の季節となり、中国圏では新年を祝うムードが広がっています。
 
伝統的な東アジアの暦(十二支と五行の組み合わせ)によると、今年は60年に一度の「丙午(ひのえうま)」の年です。干支の「午」に「丙」の火が重なる、特別な組み合わせです。
 
この干支のサイクルは古代中国に起源を持ち、民間信仰や暦の占い的な要素が強く、自然の調和や運勢を考える伝統的な風習から生まれました。
 
中国では丙午の年を「火のエネルギーが強く、火災が多い」と忌み嫌う風習はありましたが、女性に対する特別なネガティブな迷信は日本独自に発展したものです。
 
江戸時代(1603〜1868年)頃から、「丙午生まれの女性は気性が激しく、夫の命を縮める」「家を滅ぼす」といった根拠のない迷信が広まりました。
 
元々は「丙午の年には火事が多発する」という言い伝えが、17世紀の八百屋お七の放火事件と結びつき、歌舞伎や浄瑠璃を通じて民衆に浸透したと言われています。中国ではこうした女性を貶める解釈はほとんど見られません。
 
この迷信の影響は深刻で、前回の丙午年である1966年には、日本の出生数が前年比で約25%も激減しました。女の子が生まれるのを避けようとする家庭が多かったためです。迷信が社会現象を引き起こした、歴史的な例です。
 
先日教会で出会った姉妹が、まさにその1966年の丙午生まれでした。彼女は片足を伸ばして、真っ赤なスニーカーを見せながら誇らしげに「ひのえうま生まれなんです!」と言いました。
 
最初は何のことかわかりませんでしたが、彼女は子供の頃、周囲からの偏見や蔑視を受けて育ったそうです。それでも今、彼女は明るく力強く生きています。
 
今回初めて気がついたのですが、ヒノエウマを英語で表わすなら、Fire Horse。これは米国の「不死鳥-Phoenix」に通じるのではないか? 
火と馬のイメージは、燃え尽きても再生するような力強さと不屈の精神を連想させます。
 
世間の古い迷信が何と言おうと、彼女の不屈の精神に心を打たれました。火の馬のように情熱的で自由な魂が、これからも力強く駆け抜けていきますように。
 
 
As spring unfolds and the Lunar New Year season begins in Chinese communities around the world, it’s a time of fresh starts and reflection. 
 
According to the traditional East Asian calendar—which combines a 12-year animal cycle with five elements (wood, fire, earth, metal, water)—this year marks the rare “Fire Horse” (known in Japanese as Hinoe-Uma or 丙午, pronounced “hee-no-eh oo-mah”). 
This special combination occurs only once every 60 years.
 
The zodiac system originated in ancient China as part of folk cosmology, traditional almanacs, and popular beliefs about living in harmony with nature’s cycles—not as part of a major organized religion like Buddhism or Taoism, but more as cultural divination and seasonal wisdom. 
 
In China, a Fire Horse year was sometimes viewed as carrying intense “fire” energy, potentially linked to more fires or volatility. But the specific, dramatic superstition targeting women born in this year developed uniquely in Japan.
 
From the Edo period (1603–1868) onward, Japanese folklore claimed that girls born in a Fire Horse year would grow up with fiery, strong-willed personalities—too independent or passionate to be good wives. 
 
Extreme versions even suggested they might “shorten their husband’s life” or bring ruin to the family. This baseless idea likely stemmed from earlier notions of frequent fires in those years, amplified by the tragic story of Yaoya Oshichi, a 17th-century woman executed for arson and later mythologized in plays and stories as a Fire Horse native. 
 
Over generations, this turned into a widespread Japanese superstition with little parallel in China or elsewhere in East Asia.
The superstition had real consequences: in the last Fire Horse year, 1966, Japan’s birth rate dropped sharply—by about 25%—as many families avoided having daughters out of fear for their future marriage prospects. 
It’s a powerful reminder of how cultural myths, even without evidence, can influence real decisions and lives.
 
Recently at church, I met a sister who was born in that very 1966 Fire Horse year. With a big smile, she stretched out her leg to show off her bright red sneakers and said proudly, “I’m a Fire Horse baby!” At first, I had no idea what she meant. 
 
She went on to share that, growing up, she faced prejudice and judgment from people who believed the old superstition. Yet here she was, decades later, radiating confidence and joy.
 
For the first time, I realized that “Hinoe-Uma” in English is simply “Fire Horse.” And in that name, the image of fire and a swift, powerful horse feels almost like a symbol of resilience and rebirth—something that echoes, in a way, the majestic phoenix of American and Western folklore, rising renewed from flames. 
No matter what outdated superstitions say, her story shows how labels and old fears can try to hold people back—but they don’t have to succeed. 
 
The “fire” in Fire Horse evokes something untamed and enduring, much like the strength we admire in those who overcome hardship.
I hope she—and every woman who has carried this label—continues to run her race with that same bold, unquenchable spirit.
#伝統 #暮らし #歴史

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「神の業がこの人に現れるため」

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「神の業がこの人に現れるため」...
 

「神の業がこの人に現れるため」
 
 
ヨハネの福音書 9章1~5節
 
 
"さて、イエスは通りすがりに、生まれたときから目の見えない人をご覧になった。
弟子たちはイエスに尋ねた。「先生。この人が盲目で生まれたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。両親ですか。」
イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。この人に神のわざが現れるためです。
わたしたちは、わたしを遣わされた方のわざを、昼のうちに行わなければなりません。だれも働くことができない夜が来ます。
わたしが世にいる間は、わたしが世の光です。」"
 
 
⑴ 過去のゆえに現在がある
 
 
❶弟子らの問いにあるユダヤ教背景
 ・子孫の罪~重大な親の罪は、その子や孫にまで及ぶ
 ・胎内での罪~胎児であっても、母の罪に共犯できる重大犯罪がある
 ・不幸は、罪の罰と考えられていた

❷仏教による因果応報
 悪事が起こると「罰が当たった」と考えられてきた
 
 
(2) 未来は現在を引き寄せる
 

❶「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもない」~イエスによるパラダイムシフト
 
❷ヘブル人は、神の言葉・約束によって未来を見据えて、これが先に定まっているので現在を引き寄せ、形成すると考えた。
 
ヘブル語用法から

 ・qudem(ケデム); 過去=前=東
 ・acharit(アハリート); 未来=後ろ
 ヘブル人は、時間と空間の概念を1つのものとして捉えていた
 

(3)  神の業がこの人に現れるため
 

 ❶「神の業」は複数形であることに留意
 ・創造主による物理的ないやし(4-7)
 ・近所の人々への証言(8-12)
 ・パリサイ人らとの論争(13-34)
   👉盲人の信仰が揺さぶられ、試され、成長していく
   👉パリサイ人らの霊的盲目さが露呈していく
 ・盲人の信仰告白(35-38)
 
❷生まれつき盲人の開眼は、メシア的奇跡の1つ 
 イエスにしかできない神の業に与った盲人
 会堂追放の憂き目にあっても、これに勝る特権を得た
 

(結論)
 
 
神の業は私を通し、生まれ持ったハンディを通し、その性格や特質を通して進められる。
それは必ずしも私が望む方法や成功ストーリーではない。
それはイエス様にしかできないことだ。
私が究極に望むものは何か。
主イエスに出会うことではないだろうか。
 
「主よ。私は信じます。」そして彼はイエスを拝した。(ヨハネ9:38)
#メッセージ

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「人生最大の資産」

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「人生最大の資産」
ホサナキリスト教会・日曜礼拝のメッセージアウトラインです。
 

「人生最大の資産」
 
 
使徒の働き 3章1~16節
 

"ペテロとヨハネは、午後三時の祈りの時間に宮に上って行った。
すると、生まれつき足の不自由な人が運ばれて来た。この人は、宮に入る人たちから施しを求めるために、毎日「美しの門」と呼ばれる宮の門に置いてもらっていた。
彼は、ペテロとヨハネが宮に入ろうとするのを見て、施しを求めた。
ペテロは、ヨハネとともにその人を見つめて、「私たちを見なさい」と言った。
彼は何かもらえると期待して、二人に目を注いだ。
すると、ペテロは言った。「金銀は私にはない。しかし、私にあるものをあげよう。ナザレのイエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」
そして彼の右手を取って立たせた。するとたちまち、彼の足とくるぶしが強くなり、
躍り上がって立ち、歩き出した。そして、歩いたり飛び跳ねたりしながら、神を賛美しつつ二人と一緒に宮に入って行った。
人々はみな、彼が歩きながら神を賛美しているのを見た。
そしてそれが、宮の美しの門のところで施しを求めて座っていた人だと分かると、彼の身に起こったことに、ものも言えないほど驚いた。
この人がペテロとヨハネにつきまとっているうちに、非常に驚いた人々がみな、「ソロモンの回廊」と呼ばれる場所にいた彼らのところに、一斉に駆け寄って来た。
これを見たペテロは、人々に向かって言った。「イスラエルの皆さん、どうしてこのことに驚いているのですか。どうして、私たちが自分の力や敬虔さによって彼を歩かせたかのように、私たちを見つめるのですか。
アブラハム、イサク、ヤコブの神、すなわち私たちの父祖たちの神は、そのしもべイエスに栄光をお与えになりました。あなたがたはこの方を引き渡し、ピラトが釈放すると決めたのに、その面前でこの方を拒みました。
あなたがたは、この聖なる正しい方を拒んで、人殺しの男を赦免するように要求し、
いのちの君を殺したのです。しかし、神はこのイエスを死者の中からよみがえらせました。私たちはそのことの証人です。
このイエスの名が、その名を信じる信仰のゆえに、あなたがたが今見て知っているこの人を強くしました。イエスによって与えられる信仰が、この人を皆さんの前で、このとおり完全なからだにしたのです。"
 
 
⑴資産が人を決定する~美しの門に置かれた物乞い
 
 
❶有形・無形の資産により、人はその生き方やあり方が規定される
 「生まれつき足の不自由な人」は、人々からの施しに頼るほかなかった。
 しかも、宮に、祈りの時間に門に連れてきてもらう必要があった。
 
❷人は皆、持っているものに、そして持ってないものに敏感にならざるを得ない。
 金銭や財産、知識や地位、経験、健康や気力がその人の自身を形作るといっていい。
 
 
(2) これらの資産は無いと明言しペテロ~「金銀は、私にはない」(6)
 

❶ペテロがその男を見つめ、「私たちを見なさい」と言った理由(4)
 つい数日(数週)前には、同じこの神殿でペンテコステの奇跡があり、その男も見聞したはず。毎日そこに置かれていた男は、ペテロのことも知っていただろう。
 
❷ペテロは、漁師上がりの「無学な普通の人」(4:13)
 議会による審問において、敵側もペテロたちがイエスとともにあることを認めざるを得なかった~人間が獲得し得る最大の資産、金銭、知識や健康を超えるものがここにある。
 
 
(3) ペテロの持っていた資産とは何か~「しかし、私のあるものをあげよう。ナザレのイエスキリストの名によって」(6)
 
 
❶イエスの御名が、この人を強くした」(16)
 人々はペテロたちの持っている力とか敬けんさによって奇跡をもたらしたと尊敬の眼差しで見ていたが。

❷イエスによって与えられる信仰が、この人を完全な体にした(16)
 宣教者自身に誇るべきものは何もない。この男に与えられた信仰も、イエスからの賜物であった。
 
 
(結論)  「この方に信頼するものは、決して失望させられることがない」(Ⅰペテロ2章6節)
 
 
❶私たちのあり方を最終的に決めるのは、財産でも地位でも経験でもない
 
❷イエスの名を知っていること、イエスによって与えられる信仰が私たちのあり方、生き方を決める
 
❸イエスの名を呼び、イエスの癒しと救いに預かろう
#メッセージ

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「不正の富で富を作れ」

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「不正の富で富を作れ」...
 

ホサナキリスト教会・日曜礼拝のメッセージアウトラインです。
 
 
 
「不正の富で富を作れ」
 
 
ルカの福音書 16章1~12節
 
"イエスは弟子たちに対しても、次のように語られた。「ある金持ちに一人の管理人がいた。この管理人が主人の財産を無駄遣いしている、という訴えが主人にあった。
主人は彼を呼んで言った。『おまえについて聞いたこの話は何なのか。会計の報告を出しなさい。もうおまえに、管理を任せておくわけにはいかない。』
管理人は心の中で考えた。『どうしよう。主人は私から管理の仕事を取り上げようとしている。土を掘る力はないし、物乞いをするのは恥ずかしい。
分かった、こうしよう。管理の仕事をやめさせられても、人々が私を家に迎えてくれるようにすればよいのだ。』
そこで彼は、主人の債務者たちを一人ひとり呼んで、最初の人に、『私の主人に、いくら借りがありますか』と言った。
その人は『油百バテ』と答えた。すると彼は、『あなたの証文を受け取り、座ってすぐに五十と書きなさい』と言った。
それから別の人に、『あなたは、いくら借りがありますか』と言うと、その人は『小麦百コル』と答えた。彼は、『あなたの証文を受け取り、八十と書きなさい』と言った。
主人は、不正な管理人が賢く行動したのをほめた。この世の子らは、自分と同じ時代の人々の扱いについては、光の子らよりも賢いのである。
わたしはあなたがたに言います。不正の富で、自分のために友をつくりなさい。そうすれば、富がなくなったとき、彼らがあなたがたを永遠の住まいに迎えてくれます。
最も小さなことに忠実な人は、大きなことにも忠実であり、最も小さなことに不忠実な人は、大きなことにも不忠実です。
ですから、あなたがたが不正の富に忠実でなければ、だれがあなたがたに、まことの富を任せるでしょうか。
また、他人のものに忠実でなければ、だれがあなたがたに、あなたがた自身のものを持たせるでしょうか。"
 
 
(1) 聖書は文脈で理解する
 
 ❶律法学者とパリサイ人に対して語られた場面(15:1-2)
 ~3つの例え話、そこには大切なものを失った者が探し出す愛の物語だった
 
❷弟子たちに語られている場面(16:1)  ~不正の管理人のようであれ
 預けられている権限を最大限に生かすようにと教えている
 
 
(2) キーワードを解釈する

①「財産」~放蕩息子の父親は求めに従い財産を分けてやった(15:12)
それは「父(神)から頂いているいのち」「父(神)の子としてのあり方」
ヨハネ福音書ではこれを「永遠の命」としている。

② 管理人が浪費した財産も同様に、神から預かっているいのちを浪費しているとは罪の中を生きている姿を描写。

③ 債務者たちが膨大な負債=神に対して払い切れない罪
 油100パテ=4千リットル
 小麦100コル=4万リットル
 
 
(3)  不正の富で友を作れ
 
 抜け目のない管理人の戦略 ~ 本来債務軽減できる権限は、所有者の主人だけ。
 帳簿改ざんするその管理は委ねられている
 負債を免言するとは、罪の赦しを宣言すること
 
❶債務者たちがやがて永遠の住まいに迎えてくれる~罪赦された彼らが神の国にいることが前提。その時には管理者を喜んで迎え、交わりを楽しむだろう。
 
❷「小さい事に忠実」~ 与えられているチャンスを生かし、債務のあるもの、罪に苦しむ者たちに赦しの福音をシェアすること。社会的に認められない下層民たち、弱い者たちに「真実」であることだ。
 
 
(結論)
 
"イエスは再び彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わします。」
こう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。
あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦されます。赦さずに残すなら、そのまま残ります。」"   ヨハネの福音書 20章21~23節
 
 ① 私たちは、主から聖霊をいただいて、罪を赦す権威を委ねられている
 
 ② 神に仕えるとは、低められ、社会から疎んじられている人を真実に愛することだ
 
 ③たとえ自らは不完全な不正な管理人であったとしても、その殻を捨て、自分を突破して、他者の債務減免のために委ねられている機会を生かそう
#メッセージ

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「私のものは全部おまえのものだ」

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「私のものは全部おまえのものだ...
ホサナキリスト教会・日曜礼拝のメッセージアウトラインです。
 
 
 
「私のものは全部おまえのものだ」
 
ルカの福音書 15章25~32節
 
"ところで、兄息子は畑にいたが、帰って来て家に近づくと、音楽や踊りの音が聞こえてきた。
それで、しもべの一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。
しもべは彼に言った。『あなたのご兄弟がお帰りになりました。無事な姿でお迎えしたので、お父様が、肥えた子牛を屠られたのです。』
すると兄は怒って、家に入ろうともしなかった。それで、父が出て来て彼をなだめた。
しかし、兄は父に答えた。『ご覧ください。長年の間、私はお父さんにお仕えし、あなたの戒めを破ったことは一度もありません。その私には、友だちと楽しむようにと、子やぎ一匹下さったこともありません。
それなのに、遊女と一緒にお父さんの財産を食いつぶした息子が帰って来ると、そんな息子のために肥えた子牛を屠られるとは。』
父は彼に言った。『子よ、おまえはいつも私と一緒にいる。私のものは全部おまえのものだ。
だが、おまえの弟は死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから、喜び祝うのは当然ではないか。』」"
 
 
(1)兄息子の怒り
 
 ❶「兄は怒って、家に入ろうともしなかった」
 「遊女に溺れて、あなたの身代を食いつぶして帰ってきたこのあなたの息子」(30)と表現。そこに兄弟間の親密な関係はない。
 
❷「長年の間、父に仕え、戒めを破った事は1度もない(29)
 これはパリサイ人や律法学者らの立場(15:2)
 
 
(2) なだめる父親
 

①「父が出てきて、いろいろなだめてみた」(28)
 なだめる=パラカレオ(傍に呼ぶ)、慰め主なる聖霊様の別名。
 父にとり、兄も弟と同様に重要である。父は楽しい喜びの宴から離れて、兄のもとにやってきた。
 
② 「私のものは全部お前のものだ」
身代は既に兄にも同様に分けられていた(12)
「イエス様の所有しているものは、全てはあなたのものである」と教えられて、にわかには得心できないであろう。その栄誉と権威の偉に比べ、現在私たちが所有しているものとは絶大な差がある。
 

(3)  物語の結論はどうであったか
 

 ❶この例え話の注目すべき主眼は2人の息子たちではなく、父親である。
 2人の失われた息子を持つ父親の物語だ。
 
❷兄息子と弟息子は和解できたのか?兄息子は宴会に加わったのか?
 パリサイ人や律法学者たちと罪人らとの和解は、同様に難しい。
 私たちが信頼して愛していた人はずの人から裏切られたり、傷つけられたりした場合、激しく痛み赦すのは困難だ。
 
 
(結論)
 
❶父親は兄が弟と和解せずとも、既に彼を赦し、愛している。
 自分がともにいることを兄にも喜んでもらいたいのだ。
 
❷兄は「小ヤギ1匹をもらったことがない」と言ったが、実は全てを所有していた。
 共に働けることの喜びと全財産を所有していることを知らずに不満を募らせた兄息子。

❸イエス様の所有している栄光や権威の全ては、私たちが既に受け継いでいる。
それがイエスと1つとなると言うことだ。
 
 @「天にあるすべての霊的祝福を既にいただいた」(エペソ1:3)
 
 @「天にある右の座に着座されて、あらゆる名の上に高く置かれたキリスト」(同1:20)
 
 @「キリストと共に天のところに座すものとされている私たち(同2:6)
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「神の言葉に生きるダイナミズム」

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「神の言葉に生きるダイナミズム...
ホサナキリスト教会・日曜礼拝のメッセージアウトラインです。
 
 
「神の言葉に生きるダイナミズム」
 
ルカの福音書 2章1~7節
"そのころ、全世界の住民登録をせよという勅令が、皇帝アウグストゥスから出た。
これは、キリニウスがシリアの総督であったときの、最初の住民登録であった。
人々はみな登録のために、それぞれ自分の町に帰って行った。
ヨセフも、ダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。
身重になっていた、いいなずけの妻マリアとともに登録するためであった。
ところが、彼らがそこにいる間に、マリアは月が満ちて、
男子の初子を産んだ。そして、その子を布にくるんで飼葉桶に寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。"
 
 
(1) 「住民登録をせよ」
 
 
 ❶最高権力者アウグストゥスの勅令である。当時は2種類の住民登録があった。
 これは、非征服民の財産を把握し、やがて摂取するためのもの。ユダヤ人には
屈辱的な帝国政策。
 
❷ヨセフの判断~身重になりつつあるマリアをナザレから連れ出すために、この政策を利用。Elizabeth訪問の3ヶ月を過ごし、衆目から逃れる良い口実となる。
 
 
(2) 「ご自分の民を、その罪から救う」メシア(マタイ1:21)
 

❶律法的に「正しい人」ヨセフ
 罪から救われなくてはならないと言う自身の、そしてユダヤ民族の必要性を理解していく
 アブラハムの子孫として、既に天国行きは約束された救いの民族であるとの社会通念の覆いの中で
 
❷神の意図を理解した時、この究極的な目的の前に、他の事は全て相対化された
 ローマからの独立はどうでも良くなった。幼子を育てるために、念入りな作戦計画と実行が生涯を通じた中心軸となる。
 
 
(3)  「ナザレという町に行って住んだ」(マタイ2:23)
 
 
 ❶ナザレ北方数キロに位置したツィポリ~国主ヘロデ・アンティパスがBC. 4年頃に建設を開始。半円劇場や住宅地建設に大工ヨゼフの仕事が生かされる。
 異邦人都市の建設にも協力できた自由主義思想の持ち主であったか。
 
❷幼子イエスを育成するのが彼にとって最大の目的であった。
 ユダヤコミュニティーや会堂制度、イデオロギーのためではなく、絶対に大切だったのは特定の人物であり、それ以外のものは霞んでいった。
 
 
(結論)
 
 
❶ヨセフは、それまでの「正しい」生き方では対処できない宿題を背負わされた。
 
❷神の言葉に接し、何が絶対的な優先事項であるかの基準を得た時、他のものは全て相対化されて序列下位に落ち着いていった
 
❸教義や主義、組織や共同体ではなく、神はあなたにある個人を任せておられるのではないか。「わたしの子羊を飼いなさい」(ヨハネ21:15)
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