8月
14日,
2008年
フェンシング!!
騎士道に端を発するスポーツ、フェンシング。
若武者太田 雄貴、22歳。
日本の柔道ではヒーロー・ヒロインがいるのは当たり前かもしれない。
日本の武術・剣道はオリンピック種目にはないが、
洋の東西でフェンシングと剣術には通じるものがあるか!?!
柔道にも言えることだが、単に勝てば良いのではないだろう。
静と動、「心身一体」となす武道精神が奥底にあると思えるのだ。
古い話だが、昭和の始め頃に、野間 恒という剣客が居た。
彼は、講談社の創始者、野間清治の一人息子。
昭和8年、「昭和天覧試合」で優勝した達人だが、
地区予選から各府県代表本戦、
決勝戦まで一本も打たれることなく勝ち進んだ。
決勝戦相手の二刀流名手に難儀、右胴を一本とられたのみだった。
しかしてそれよりも強い剣士がいたという。
「森(野間)寅雄」。
この剣士は、野間 恒の従弟(いとこ)だった。
わけあって幼くして野間家に入籍していた。
そんな寅雄が、府予選で恒に二本とられて敗退した!?!
恒は、天覧試合の数年後、病没している。
寅雄は、天覧試合後、野間家を出た。
森 寅雄という名は、幕末の千葉周作道場の四天王と言われた
森 要蔵の息子として「戊辰戦争」で名を残した人物が有名であるが、
ここで言う森 寅雄と恒は、双方とも要蔵の娘が、母方の祖母に当たる。
二人とも森要蔵の血を引いている。
会津城外、雷神山で戦死した森寅雄は、彼等の大伯父であり、、、、
雷神山の寅雄にあやかって付けられた名らしい。
こんな昭和の森寅雄は、昭和9年に米国・サンフランシスコに渡った。
仕事を転々とし、養蜂場で働いていた時、日々剣道の鍛錬をしていた。
それを見ていた友人のダニエル・ソーンなる人物が、
フェンシングを寅雄に教えた。
寅雄は、フェンシングの世界でも頭角を現し、
渡米2年足らずで、全米選手権大会で優勝している。
昭和11年のベルリンオリンピックでは、
非公式の米国選手コーチを依頼されている。
米国では、「タイガーモリ」と呼ばれ
フェンシング界では知られている。
昭和35年にはローマオリンピックに
米国フェンシングチーム監督として参加している。
そんな彼の残した言葉の中に・・・
「フェンシングは、勝つだけの技術である。
しかし剣道は、己を鍛える為のものである。」
オリンピックで日本人柔道家が、「一本」にこだわっていた。
減点法の柔道など見たくない。
洋の東西はあるが、切る(剣道)と突く(フェンシング)
これ等の背景には、精神論が潜んでいるまいか!!
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