<誰もケガはなかったか・・>
2月
10日
1963年7月、憂国道志会の野村秋介により自宅に放火される。
その日は名神高速道路の開通日で河野はその開通式典でくす玉を引いていた。
帰宅後河野先生は 、家人や使用人に家はいつでも建てられる・・みんなケガがなくて良かったと話された・・
その話を伺っときは。やはり大物は違うな・・と感じた・・
小生と河野先生との出会いは一瞬でしたが、赤坂の料亭の玄関で挨拶をすると・指を見せてみな・・
名前を忘れたが<エリザベステーラー?>ハリウッドの女優と握手した時に、自分の指やつめの手入れが不十分だったので恥ずかしかった・・
それ以降、小生は60歳くらいまで・指の手入れをして、甘皮ヲ向いて透明の<マニキュア>を、していた・・
近年は、体調不良が<爪>に出るので、見やすくするのでやめました。
先生は、死の床で<死んでたまるか>と言ったと伝えられ、<党人政治家の最期の言葉>として広くこれが信じられてきたが、
河野洋平さんによると<大丈夫だ、死にはしない>という穏やかな言葉で家族を安心させようとしたのだという
70年頃・・右翼の先生の事務所にお邪魔していた時に・・先の放火の話題が出て先生や幹部が・・河野一郎はけしからん・・真偽は不明だが・・同席していた<野村秋介さん>が先走たらしい・・
野村さんは、三島由紀夫事件でも同席していたり・・マスコミを賑わす数々の運動もされたが・・最後は、朝日新聞本社で自決された。