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サウスベイ マネジメント セミナー( Southbay management seminar )は月一回のセミナーを中心に勉強し、時々に親睦をする、乃ち「よく学び、よく交友する」そのような会です。

2012年度 6月 - 夢を追いかけて アーテイストとして、母として遅咲き人生。回り道。やっと見つけた自分の道

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2012年度 6月 - 夢を追... 2012年度 6月 - 夢を追... 2012年度 6月 - 夢を追... 2012年度 6月 - 夢を追... 2012年度 6月 - 夢を追... 2012年度 6月 - 夢を追... 2012年度 6月 - 夢を追... 2012年度 6月 - 夢を追...
日時: 2012年6月13日(水)、6:30PM - 8:30PM
会場: ニューガーディナ・ホテル
講師:松山夕貴子(まつやま ゆきこ)氏
講演録担当:内藤喬夫


講師略歴
9歳のとき生田流筑紫歌都子筝曲入門、1986年師範取得。1993年渡米。ロサンジェルスで演奏、作曲を開始。 琴のイメージを超えて新しい世界を開拓する音楽家として活動中。2011年にソプラノサックス奏者ポール・ウィンターによるアルバム“ミホ・ジャーニー・トウ ザ・マウンテン” (滋賀県甲賀市信楽町にある私立美術館・MIHO MUSEUMにてレコーディングされたまさにメイド・イン・ジャパンのアルバム)に参加し、第53回グラミー賞の最優秀ニュー・エイジ・アルバム賞を受賞。 松山夕貴子オフィシャルサイトhttp://www.yukikomatsuyama.com/
講演内容
松山さんが琴演奏家として夢を追いかけるようになったのは、30代からである。昨年グラミー賞を受賞したが、才能ある音楽家と接するようになった。その人たちのほとんどは子供の頃から音楽一筋で、彼女のように30代から音楽を志すような人は皆無である。彼女の琴とのめぐり合いは、9歳の時であった。 松山さんの家の近くに琴の先生がいて、そこから美しい琴の音が聞こえてきた。感動したのは母親で、娘夕貴子に習うように薦めた。9歳の松山さんは日本文化とか伝統文化などわかるはずもないし興味もなかった。あまり練習もせず、週に一度のレッスンをなんとか続けた。彼女にとって、琴の音楽より、4歳年上のお兄さんのミュージックの方が好きであった。お兄さんはビートルズの音楽に夢中で、彼が弾くロックやポップのギターの音色に心が動いた。 19歳まで何とか練習して、師範の一つ手前の師範補でやめてしまった。師範とは、教師ができる資格である。師範までなりたいというパッションがでてこなかった。それから琴とは縁を切ったつもりでいた。
その後、結婚し、信州の松本に嫁入りした。松本のような田舎では手に何か職を持っていた方がよいと思い、琴の師範を目指した。師範にはそう簡単になれないので、この時は猛練習した。師範はとれたが、琴を続けるパッションがまたなくなった。
そのうち出産し、主人の仕事の関係でロスにやってきた。駐在の奥さんであった。しかし、性格の不一致から離婚した。両親は日本に帰ってくると考えていたが、彼女は離婚した女性が日本で生きていくのは大変だろうと考え、2歳の娘とともにアメリカで生活することにした。
ベビーシッターや色々な仕事をした。生きるために金が必要であった。

通訳の学校に行った。通訳とは自分のフィーリングを入れずに相手の言葉をそのまま伝えなければならない。先生は彼女が通訳にあまり向いていないようなことを臭わせた。そこで、今度は翻訳家になろうと思った。日本では映画の翻訳はとても金になるという。しかし宿題も遅れがちで、これも向いていないと悟った。
何をしても達成出来ない自分に傷つき、「離婚した女性には未来がないのか」と落ち込んでいた。そのようなとき出会った友人が、「まだまだ大丈夫。納得できる人生が必ず見つかるはずだ」と言ってくれた。彼女の暖かい言葉に励まされた。
ところが、彼女は癌で死んでしまった。とても悲しかった。そのときどういうわけか彼女に聴いてもらう音楽をつくりたいと思った。彼女はアメリカ人であったので、英語で詩をつくった。
その時タイミングよくお兄さんからテープが送られてきた。作曲されているが作詞されていない、ララと、メロディーが吹きこまれていた。このメロディーになんともいえない優しさを感じ、これに死んでいった友達への言葉をそえてみた。彼女はあの世にいってしまったが、彼女の魂がお兄さんと松山さんの合作の音楽を聴いてくれるように思った。
できあがったものをお兄さんに送ると、「うまいことできたな」と褒めてくれた。
松山さんは、こうだと思うと突っ走るところがある。「この道しかない」と、お兄さんの作った曲にどんどん作詞をしていった。ソングライター・コンテストにも応募した。そして、ディズニーの会社はこの曲のテープをとってくれた。希望をもって6年7年待ったが何も起こらなかった。
お兄さんの曲に作詞をしていたが、自分の回りにはギターもないしピアノもない。ここでようやく彼女には琴というものがあることに気づいた。「そうなんだ。長い間練習していないけど、私は琴が弾けたんや」。

琴は13弦あり、琴柱(ことじ)というものが胴の上に立てて弦を支え、その位置によって音の高低を調節する。松山さんはその琴柱を好きなところに置き 、好きな音をつくり、好きな音楽をつくりだした。
ようやく自分の好きな世界を見つけのである。
そしてある琴の世界に入門した。先生はある時「松山さんは師範の免状もあるし、ひとつ弾いてみない」と、演奏するチャンスを与えてくれた。そして、お小遣いまでくれた。それもベビーシッターをしたときより多い額であった。
思い込みの激しい彼女は、「これしかない」と思い、それからどんどん作曲して、自分の世界をつくっていった。
琴演奏家のデビューであった。30代、遅まきのスタートであった。
仕事をもらえるように自分で歩いて客を探した。当時今のようにCDはなかったので、アメリカ人社会では琴とはどのような楽器か、どのような音を出すかも知られていなかった。ことごとく断られた。
店やレストランを訪れ、「ただでよいので、一度だけ演奏させてください。よくなければ、その後カットしてもらって結構です」と宣伝活動をした。ようやく「もう一度来てくれ」と言われるようになり、仕事が一つ、二つともらえるようになった。講演会場にも以前仕事をくれた人もいたようで、彼女は仕事をくれた人々に今でも感謝している。彼女が今のようになれたのは人と人との繋がりがあったからだと、感謝している。
昨年、松山さんの言葉を使えば、ラッキーにもグラミー賞をもらえた。2月12日のポール。ウインターと一緒に演奏したアルバムに対してである。グラミー賞は二つに分かれていて一般的に言われているグラミー賞に加えてラテンミュージックグラミー賞がある。その賞を同じく昨年11月にshakira というコロンビア生まれのシンガーがもらった。その受賞演奏会(?)で松山さんも出演している。
shakiraは世界的な歌手で、色々な曲を1千枚、2千枚と売っているるほどの、超スターである。2つのグラミー賞に関係した昨年(2011年)は、松山さんにとって最高の年であった。彼女はそのことを素直に喜んでいる。しかし逆に観客が高い音楽を要求をしてくることを意識して、より強いプレッシャーを感じるようになった。演奏前には震えがとまらず、押しつぶされそうになることがあるという。そのことを同僚のミュージーシャンに聞くと、「だれもがそうだ」という。

音楽はビジネスと同じで、浮き沈みがある。来年が見えない。それに練習が大変である。ステージに立つときはメークしてエレガントに振る舞うが、なりふり構わず汗をいっぱい流して練習をする。 松山さんは音楽を通して人々が少しでも幸せになったり、癒しを感じてもらえればと願っている。しかし、己のことになるとハッピーになったり落ち込んだりする。 彼女は講演の最初に、「私は話しだすと、ストップがかけられなくなり、どんどん前に進んでしまいます。途中で質問がありましたらしてください」と言った。それに呼応して一人が質問した。
「グラミー賞をとられてから、どのように生活が変わりましたか。ギャラも変わりましたか。ところで、貴女は以前に比べて明るくなられましたね」 「以前はキリキリしたところがありました。だからつくった音楽もどこか暗い感じがしていました。グラミーをもらったとき、『よっしゃー、これで家が買える。好きな物が買える』と、夢がいっぱい膨らんだのですが、そうでもないのです。現に家はまだ買えていません。アパート暮らしです。
昨年は地震があり、チャリティーに出演してお金などいただける状態ではなかったのです。それに私は大きなチャンスを逃しました。 グラミー賞をもらってから、電話やメールの数がものすごかったのです。ところが賞をもらった翌日、日本からきた娘とディズニーランドに行ってしまったのです。娘との約束があったものですから。帰宅すると、多くのメッセージが残っていました。「これは大変」と電話すると、『もう番組は終わりました』なんです。絶好のチャンスを逃してしまったのです。
賞を貰う前は、『これだけいただけないでしょうか』と私の方から言っていましたが、受賞後は客の方から、「これしかないのですが、やってもらえませんか」と言われるようになりました。 また両親や親戚も受賞をとても喜んでくれました。以前は両親は「日本に帰ってこい」と、いつも言っていましたがが「もっと頑張っておいで」と変わりました。 元夫とは嫌いで別れたわけでなかったのですが、離婚後、彼の家族や彼との間に深い溝がありました。しかし、受賞によって、この溝が一気になくなりました。日本でのコンサートには、元主人や家族がやってきて、励ましてくれました。
娘は元主人と性格が似ていて、私のように感情で動くタイプではないのです。娘は子供の時ベビーシッターを頼んだりして寂しい思いをさせました。娘が10代の頃、女の子は母親に強く当たるのもなのだそうですが、とても大変な時期がありました。今では父親との関係もよく、私も彼との関係がよくなり、嬉しいです。娘はよく私に言っていました.『お母さん、音楽は趣味でやるものやで』って。その娘が賞をとったことを喜んでくれ、授賞式に日本からやってきてくれました。会場は関係者以外は絶対入れなくて、チケットは600ドルもしたのです。ポール・ウイインターさんは授賞式にこなかったので、彼のチケットを娘にくれました。
2011年12月1日にノミネートが発表され、その後はどうなるか全く分かりませんでした。ポールさんは出席しないので、彼から言わていました。『もし、受賞したら、仲間とハッグなどせず、舞台に一直線にあがりなさい。紙に書いたものを読んでもよいです』。練習もしていたのですが、受賞したらどうしょうという気持ちの方が先立ち、ドキドキのしていました。グラミー賞といっても110部門もあり、ある部門では、アルバムの表紙に対してのものがあるのです。私達の部門は16番目だったのですが、本当のところ会場から逃げ出したい気持ちでした。
受賞が発表され、ポールさんの言われたように、舞台に一直線に行き読んだのですが、受賞対象になった同僚のミュージシャンのラストネームの発音が難しかったのです。それに書かれた紙は待っている間の緊張感から汗がびっしょりついて、読みずらかったのです。・・・・
授賞式のあと、ある部屋に誘導されて行ったのですが、ドアが開いたとたん、カメラのフラッシュの嵐でした。スターの人って、こういう思いをしているんだと、思いました。 その時の興奮から頭が真っ白になりチケットをいつの間にかなくしてしまいました。その時はあまり深く考えず、お腹がすいたのでお菓子を買いに外に出たのです。そして中に入ろうとすると、チケットをもっていない私を係の人は入れてくれないのです。『さきほど、賞をもらった者です。観ていたでしょう』と言っても、Noの一点張りでした。賞をもらったこと、それに着物を着ての受賞者は、私しかいないのに、係の人の話では『切りがないから』なのそうです。
ステープルセンターの外で一人取り残されました。このあたりはそんなに安全な地域ではない所です。寒空のなか、不安な気持ちでいました。そうすると娘から携帯の電話がかかってきました。

『お母さん、何してるの?』
『チケットなくしたんや』
『また、お母さん・・・』
ポールの奥さんは会場に来ていました。彼女はとてもよい人で、 『私と探しましょう』と、一時間半一緒に探してくれました。しかし、見つからなかったのです。
『もういいです。中に入ってください。私一人外でいます』と言ったとき、そこにインタビューをした人が通りがかりました。そして、「どうしているのですか、そんなところで」と声をかけてくれました。事情を説明すると、会場内をくまなく探すように係の人に言ってくれました。そして、一時間後に見つかったのです。 そこで私は係の人に言ったのです。 『入場者は2、3万人でしょう。きっと私以外にチケットをなくした人がいるのでしょう』と。 それに対して、 「貴女だけです」と返事が返ってきました」 この事件で松山さんは、娘さんからの信用がまた落ちたのだが、完全に挽回したのは昨年の11月10日のShakira との共演の実現であった。娘さんはShakira の大フアンであったからだ。
Shakira の音楽は民族系の楽器を取り入れることがある。琴も以前に使ったことがあった。アメリカ人のギター奏者が琴を弾いていたことがあったが、彼(?)が去って、松山さんへShakiraのマネージャーから声がかかった。水色の着物を着るように言われ演奏した。松山さんにとって、彼女の音楽生活の中で最高に緊張した晴舞台であった。その時の演奏風景がビデオに流れていた。実に美しい歌声であった。松山さんはメークを丹念にしてイントロと最後のところを演奏した。せっかくメークも、彼女は「右端で暗く映っていた」と、謙遜していた。
ポール、ウインターとの演奏は滋賀県の信楽でおこなわれた。世界中からきた演奏家によって、即興的に演じられた。この曲に対して、グラミー賞が与えられた。アルバムは2枚で分厚いものであったが、ポール氏がアメリカ版(1枚)に作りなおして、それがグラミー賞受賞になった。
これは質疑応答の中ででたのだが、グラミー賞にノミネートされるには、グラミーアソシエーションのメンバーになる必要がある。メンバーになれば、審査員になる資格を得る。年会費を払って、アプライすることができる。アプライすると、過去の演奏活動とかCDを何枚だしているかなどを見る書類検査が行われる。8月が締め切りで、12月1日がノミネートの発表。そのあとは受賞日の日まで、だれが選ばれるかは一切分からない。
松山さんの音楽は洋曲コンテンポラリーの傾向がある。リズムはアップテンポのものが多い。しかし、彼女は日本で生まれ、育っているので、いつしか、日本の匂い、風が自然に彼女の音楽に染み込んでいるのではないかと、彼女自身分析している。しかし、琴そのものが出す音には限界がある。 彼女は自身のバンドをもっているが、そこにはドラムやベースのようなリズミ楽器に加えてキーボード、バイオリン、チョロ、ギターなども取り入れるようにしている。 お兄さんと一緒にアルバムもつくっている。お兄さんは東京、松山さんはロスと、両親から離れて暮らしていることに対して親不孝を感じている。お兄さんは「両親のもとに帰ろう」というような内容の音楽を作った。この音楽を松山さんはとても好きであるという。
戦時中日系人が強制収容所に送られた。マンザナはその一つである。2002年マンザナについてのドキュメンタリー映画がつくられた。そのとき、松山さんはテーマ音楽を書いてくれと頼まれた。そこで彼女はマンザナを訪れた。厳しい環境で、砂ぼこりが舞い上がる収容所跡に立ち、当時の日系人の苦労に思いをはした。彼たちの苦労があったればこそ、戦後来た日本人が平和に楽しくアメリカで生活ができると松山さんは思った。 昨年であったと思うが、日本のテレビ・ドラマ『99年の愛』が放映され、松山さんはそのドラマに深く感動した。このドラマによって、日本に住む日本人もマンザナのことや収容所のことを知るようになった。日本でのコンサートではマンザナのことを語りながら、この歌を演奏するという。
グラミー賞や演奏活動から離れて、松山さんの、興味深い生き方の紹介があった。
一時日本の雑誌、テレビなどのマスメディアで話題になったポディティブシンキングへの実践報告であった。

希望や夢を願うと叶う。
例えば、家が欲しいと思ったとき、「家を与えてください」というのではなく、実際に家が与えられたことを想像し、家の大きさ、間取り、どのようなものを置くかまで想像する。家を持つことはまだ叶えっれていないが、グラミー賞にノミネートされたときは、とれますようにというより、とれた時のことを想像した。そして本当にとれた。 渋滞に巻き込まれて遅刻しそうになったときも、「絶対に12時に着きます」と言うと、急にスーッと車がすくことがあった。コンサートに行って、「こんな後ろの席か」と思って、「良い席が与えられました」と思うと、前の席があいた。このようなことが毎日のように起きている。ここで大事なことは、実現した時、「ありがとうございました」と感謝の気持ちをユニバースに送ることである。
松山さんは毎日日記をつけている。その日記に自分の願いというよりが、願いが実現したことを具体的に書いている。 これは別に宗教ではない。ユニバースは膨大で、人間の一人ひとりのちっぽけな願いぐらいは叶えてくれる。3年前に『シークレット』という本を読んでから、その思いが確信に変わったという。 離婚したとき、苦しくて寂しかった。そのときに、「次の人はこんな人がいいな」と想像した。願いの項目は、同じぐらいの年齢で、音楽やアートの好きな人、優しい人であった。2週間後にユニバースはアメリカ人のソングライター(?)を送ってくれた。デートを2回したが、そのあと別れてしまった。 そこで、この方面に詳しい人に尋ねてみると、「ユニバースは願いを届けてくれるが、届いた後どう取り組むかは本人次第です」と教えてもらった。使い方が悪かったのだと反省した。 そこで今度は事細かく箇条書きで書いてみた。
①松山さんは食べることが好きで、トレーダー・ジョーズ(Trader Joe's)の食べ物が好きである。だから、相手もトレーダー・ジョーズに行くような人。
②自然、木や花が好きな人。
③夕貴子が好きで好きでたまらない人、夕貴子を大事にしてくれる人。
と書いた。そうすると一ヶ月後、ユニバースは一人の男性を送ってくれた。仕事の関係で出会った人で、いきなりディナーに誘われた。そこでチェックした。
「自然が好きですか」
彼はパークレンジャーであり、グランドキャニオンで働いていたという。自然そのものである。
「 トレーダー・ジョーズは好きですか」
いつも トレーダー・ジョーズで買い物をしているという。
質問を続けた。
「エッチビデオは好きですか」
そのようなものに興味がないという。
「よっしゃ、本当にユニバースは私の好みの人を送ってくれた」と彼女は舞い上がった。
その人は、松山さんが願ったことを完全に備えていて、松山さんが好きで好きでしかたがない男性であった。しかし、毎日、7回も8回も電話をしてくるのには閉口した。我儘だとは松山さんは認めているが、自由が欲しかったのである。愛に飢えていたので、彼女だけを愛してくれる人を望んだのだが、彼女の自由を束縛されるのも困ったことであった。
一つ書き忘れたと思い、書き足したが、もう手遅れであった。一度送ったものを書き換えることはできない。
しかし、松山さんは確信している、書いたもの、望んだものは間違いなくユニバースは送ってくれることを。
松山さんのことに関しての動画を観ることができる。そのアドレスは以下の通りである。
yukikomatsuyama.com 
今年の8月にロスでのコンサートが予定されている。お兄さんと一緒のコンサートである。ただ5日間の滞在であり、今のところ13日にサンターナーにあるミュージアムでの一本は決定しているが、もう1本できるかどうか計画中である。
もし松山さんの情報を知りたい人は係の人に言えば、Eメールで情報を流してくれるという。

この講演会の3日前に彼女のコンサートがあり、それを聴いた人から、「リズム楽器の音色が変わっていたが、その楽器は何か」という質問であった。実はその楽器はこのコンサートでは演奏されなかった。バッキングトラックという技法によって流れてきた音色であった。
バッキングトラックとはカラオケのようなものである。他の楽器奏者と演奏したのを録音したあと、琴の音だけを消し、ステージでは琴の部分を演奏するものである。コンサートで聴いていた人には、リズム楽器の音が流れていたが、その演奏者がいなかったので不思議に思ったのである。
この質問者は松山さんの演奏の様子を観て、次の質問もした。
「普通琴の演奏では左手のストロークがもっと長いようですが、松山さんの場合短いと思いました。それは新しい演奏法なのですか。それに立って演奏されていたが、特別注文の台を使っておられるのですか」
この質問に対して、次にような応答があった。
「左側にある琴柱は半音や一音(?)を上げたり下げたりするためのものと、ビューンという音を鳴らすときに使います。お正月によく演奏される『六段』という音楽の場合、低くチューイングしているので、左の動きが激しいのです。私の場合チューイングを高く設定していますので、それほど、左を動かすこともないのです。3日前のコンサートは一曲を除いて、私のオリジナルなものでしたから、私の弾きやすいようにしているので、左がそれほど動いていなかったのです。立って演奏する方がやりやすいです。洋楽の演奏ですので、周囲との調和という意味でも、立ったほうがよいようです。座ってやると、身体を曲げなければいけないので、立ってやるとより自由に演奏できます。そうです、特別注文のものです」
松山さんが嘗て通訳や語学学校に通っていた校長先生からの質問があった。
「大変な時期に月謝を払っていただきありがとうございました。思いが叶えられる、しかもその思いが強ければ強いほど良いというのは理解できます。ところでこれからの松山さんはどのような思いをもち続けたいのですか」
「私自身、音楽によって苦しい時に救われたことが多くありました。それで、これからは、私の音楽を聴いて、楽しんでもらったり癒される人がでることを望んでいます。年齢とは関係なく、癒される気分やハッピーになってもらえるようなミュージッシャンになりたいです。ところで、私は花火が好きなのですが、コンサートで花火を上げてもらいたいのです。そうハリウッドボールで演奏して、花火を上げてもらうのが夢です。そうなんです、前はよくこのことを書いていたのですが叶えられなくて、これからもっと書いてみることにします」
次の質問はコーラスの会員で、ロスのディズニーコンサートホールで第九を歌ったこともある、自称歌手の男性からの質問であった。 「いつか松山さんと一緒の舞台に立ちたいのが私の夢です。ところで、洋楽の楽譜と琴の楽譜と違うのですが、洋楽の人との演奏のとき、どのようになされているのですか」
「洋楽の人から音をもらうとき琴用の楽譜に書き直します。そして、琴用の音楽を洋楽の人に渡すときは五線用にします」
記録者による講演に対する感想
離婚して、娘さんを育てながら、琴の音楽を作り上げられた松山さんに、拍手喝采を送りたい。ポジティブシンキングで、夢を本当に叶えられた人である。願いが本当に叶えられるというのは、本当のことである。思いである。ただ思うだけでなく、その思いを実現するために日々努力する。その努力したことによって、より素晴らしい運命を引き寄せていく。
成功するような人は、分野が違っても松山さんのような心の持ち方をしている人が多い。
「思いは天まで届く」とよく言われるが、このことは理にかなったことなのである。仏教の教えだと思うのだが、これは松山さんの解釈と少し違うが、宇宙は自分の心の現れである。これは確か唯識論であると思う。
バークレーの考えも唯識的である。「目を閉じれば宇宙がなくなり、目をあけた時宇宙が現れる」。
心の思いを馬鹿にできない。人を幸せにしたいという思いがあれば、本当に自分の接する人が幸せになる。また人を憎いという思いがあれが、周囲も自分のことを憎いと思う。
よく人の悪いことばかり言う人がいるが、そのような人はその人自身が人から嫌われるものをもっている。
禅の話で「十牛図」というのがある。悟りをもとめて、段階をおって修行が進むのを牛を例えで述べている。牛とは修行途中に見出す一つの目標であるが、修行が進むにつれて目標である牛が消え、自然と一体化する自分を発見する。これでも最高ではない。最高の境地とは布袋さんの心境である。布袋さんは悟ったような顔ではなく、ただニコニコとして、街中を徘徊する。別に難しい仏教の話を説教するするわけではない。布袋さんの姿を見ただけで、人々は布袋さんの心が伝わり、いつのまにか幸せになる。
松山さんは音楽を通して、人々が癒されるようなミュージシャンになりたいと言われていた。まさに彼女は音楽における布袋さんを目指しておられることである。音楽は言葉のメッセージを伝えるところもあるが、音という聴覚に訴えて、また演奏家のパーフォーマンスによる視覚によって、人々を楽しませる芸術である。
松山さんはとても正直な方であるので、その正直さからにじみでる内からなる笑顔がとても魅力的である。グラミー賞という褒美に満足することなく、より飛躍した、布袋さん的ミュージッシャンを目指してもらいたい。
以上。

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2012年度 5月 - 私を魅了したアメリカンフットボール

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2012年度 5月 - 私を魅... 2012年度 5月 - 私を魅... 2012年度 5月 - 私を魅... 2012年度 5月 - 私を魅... 2012年度 5月 - 私を魅... 2012年度 5月 - 私を魅...
日時: 2012年5月9日(水)、6:30PM - 8:30PM
会場: ニューガーディナ・ホテル
講師:鈴木弘子(すずき ひろこ)氏
講演録担当:内藤喬夫,(協力)鈴木弘子


講師略歴
アメリカ女子プロアメフト選手。サンディエゴを本拠地とするサンディエゴサージ所属。1964年9月28日東京・浅草生まれ。高校時代はシ ンクロナイズドスイミングの選手として活躍。短大在学中よりスポーツインストラクターとして水泳、エアロビクス、ウエイトトレーニング等を指導。健康運動 指導士、ヘルスケアトレーナー、心理相談員の資格を持つ。1995年に日本の女子社会人フットボールチーム、レディコングに入団。2000年アメリカプロ リーグ入団テストに合格し、日本人初の女子プロアメフト選手となる。渡米1年目で1位指名によりオールスター戦出場を果たす。愛称は Betty。
講演内容
■情熱トークUSA(TVジャパン)
講演に先立ち日本語テレビで彼女のことを紹介した番組を流した。子供時代の時代の写真やシンクロをやってた高校時代の写真を紹介しながら、なぜ彼女がアメリカンフットボールの魅力にとりつかれたかを、インタビューを交えながら進行していた。
100キロを超すアメリカ人プレーヤーと一緒に練習しているシーンや、スタッフが持つダミー(サンドバックのようなもの)に当たるシーンが放映された。鈴木さんは軽々とそのダミーを押していたが、インタビュワーの女性も試みると、びくともしなかった。「タックルとは、パワー×スピードだ」と説明していた。彼女は170センチを越す、日本の女性としては背の高いほうであり、アメリカ人プレイヤーと比べてもそうひけをとらないが、体重は断然劣る。相撲取りのような巨漢のアメリカ人に比べれば子供のようである。この身体的なハンディーをスピードでカバーしているという。
鈴木さんは、高校時代はシンクロナイドスイミングの選手。1995年に日本の女子社会人フットボールチーム・レディコングに入団、日本でたったふたつしかない女子フットボールのチームのひとつだった。この時、鈴木さんは、30歳、全くルールがわからない状態だった。
2000年アメリカに女子プロリーグが設立、選手を募集していることを知り、アメリカに渡って入団テストを受け、見事合格。日本人初の女子プロアメフト選手誕生となった。そのことを時事通信が配信すると、朝日新聞などの全国紙が大きく報じた。一躍鈴木さんは有名人になった。
以上のような経緯がTVで紹介され、その後、彼女の講演が始まった。 (番組は、こちらからご覧になれます。  →http://ameblo.jp/betty-79/theme23-10036226086.html#main
■ アメリカ女子アメフトリーグ
アメリカには4大スポーツと言われるNBA(バスケット)、MLB(野球)、NHL(アイスホッケー)、そしてNFL(アメリカンフットボール)がある。
女子アメリカンフットボールリーグは、2000年に設立され、当時は10数チームであったが5年後には、150チームになり、淘汰された現在では96のチームがある。3リーグがあるが、鈴木さんの所属するサンディエゴサージは、64チームが登録する全米最大リーグ・WFAに属している。WFAの組織は、アメリカンカンファレンスとナショナルカンファレスに分かれており、17地区に分かれている。レギュラーシーズンは8試合、その後プレーオフが行なわれ、最終的に全米優勝チームが決まる。大リーグと違い、プレイオフからは、全て1回勝負である。
「5月5日(土)に鈴木弘子さんの所属チーム“サンディゴサージ”の試合がロサンゼルスであった。試合会場は、ミラコスタ高校(1401 Artesia Boulevard Manhattan Beach, CA 90266)。結果は69対12で勝利。今シーズンの今までの成績は3勝0敗で、地区優勝の呼び声高く、もちろん全米優勝を目標に掲げる。
試合は、遠くてラスベガスなので、バス移動が多い。8時間を超えるドライブは、通常飛行機の移動となるが、レギュラーシーズンは飛行機移動がない。1チームに選手53名が登録、コーチや医療スタッフなども含めると相当数になる。男子アメリカンフットボール(NFL)であれば多くの観客動員が常時あり、テレビ放映などで大きな収入があるが、女子の場合は経営的に大変である。
女子リーグ(WFA)の中でも、人気のあるチームとそうでないチームがある。強いチームは得てして人気チームだ。昨年準優勝のサンディゴサージは、人気チーム。緒戦は800名ほどの観客動員数があるが、60対0などのスコアで勝ち続け、あまりに強いので、逆に毎週観客が減ってしまう。試合は基本的には、週に1度で、アメリカでは金曜日は高校生の試合、土曜日は大学生、プロは、日曜日と月曜の夜、とスケジュールが決まっている。女子リーグは土曜日に行なわれる。
選手は、皆別の仕事をもっており、主婦やお母さん選手もいる。選手はチケットを売ったり、イベントを行なって、チームの為のお金集めも行なう。
アマチュアからアメリカンスポーツをやっている人は少ない。高校や大学に女子チームがないからだ。ソフトボールやサッカーの選手など色々のスポーツ経験者がテストを受けてプロ選手になる。それでも、鈴木さんのようシンクロナイズからアメリカンフットボールへの変更は珍しいとのことだ。

■アメリカでの選手生活
初年度鈴木さんは、フロリダのチームに所属した。英語は全くわからなかったが、プレーブック(作戦が書かれたノート)には絵で描かれており、またアメフト専門用語は日本でも英語を使うため、そう困ることはなかった。遠い異国からアメフトをやりたいだけのためにアメリカにやってきた鈴木さんに、誰も親切だった、そしてチームは地区優勝をし、第1巡でオールスター戦出場を果たすという華々しいデビューを飾った。
2年目の2001年、アリゾナのチームに移籍を決めた。2011年というと9.11テロ事件のあった年である。ビザはとれない、ビザなしという状態で、決められた時間に遅れて練習に駆けつけた。事前に密に連絡を取っていたのに、オーナーから「今日は見てるだけでいいから」と言われた。その後、練習合流は許されたが、ヘルメット、ショルダーパットなしの練習だった。1ヶ月たってやっとみんなと同じ練習をすることが許された。 これは、ビザがないとか、遅れてきたという理由からの罰則ではなかった。「華氏100度(摂氏38度)を越える慣れない気候で、彼女が急に練習すれば、熱中症を起こすだろうし、場合によっては死ぬことがある」と、トレーナーが判断したためである。まず見学させて、体重の変化を計測し、徐々に過酷な環境に慣れさせていたのである。人間は、体重の2%の水分が失われると熱中症になる危険があり、3%だと体温調整機能や運動能力が明らかに低下すると言われている。
そしてこのアリゾナのチームには、EQとかAボーンとかいうニックネームの選手たちがいた。由来を聞いてみると、EQとはEarthquake、AボーンとはAtomic Bomb で、女の子が自ら「私を地震って呼んで」「原子爆弾って呼んでね」って言うわけだから、最初は「凄いチームに来てしまったなあ」と思ったらしい。
さすがそんな選手が所属するアリゾナのチームは、鈴木さんの合流した年に地区優勝を果たし、更にその翌年には準優勝を果たした。2年間で優勝チームを作る予定だったので、3年目にこれ以上の成績は見込めないと、彼女のさらなる野心に向かって、チームを移籍した。
ペンシルバニアである。東海岸のペンシルバニア州フィラデルフィア、冬はとにかく寒い。極暑からの移籍、そうすぐになれるわけがない。運転した初日、ブレーキを踏んだところ、車が回転、道が凍っていたのだ。それからは運転が怖くなり、ルームメイトの自転車を借りる、しかしこれもまた初日に、脱輪。自転車をかついで、3時間歩いて自宅に帰り、それからは自宅に居ることが多かった。このチームでも地区優勝、彼女の目標の全国制覇は果たせなかった。寒さに懲りた彼女は、1年限りで、次の地・カリフォルニアのロングビーチに移ることになる。
ロングビーチはロスの隣の町。アリゾナほど猛暑があるわけでなく、ペンシルバニアほど冬は寒くない。天候に不満はない。そのあとロサンジェルス、アンティローブバレー、現在のサンディエゴとチームを移籍しているが、カリフォルニアから離れられないのは、この素晴らしい気候が理由であると語っていた。
今年からロスからサンディエゴに移籍した、しかし住まいは引っ越さずガーデナにある。ロスから練習のあるサンディエゴまでの3時間は、チームのバンで送り迎えをしてくれている。

■ アメリカンフットボール=アメリカ??
アメリカンフットボールの起源は、サッカーであると言われている。がい骨を蹴っていたサッカーが、オセアニア大陸に渡って、ラグビーとなり、アメリカ大陸に来て、アメリカンフットボールになった。アメリカンフットボールは、究極のルールをもつスポーツと言われる。そしてそのルールブックは電話帳ほどの厚さと言われている。
そしてそのルールは、更に極めるため、毎年変更されている。危険と判断すれば、反則項目に入れ、ゲームを更に面白くするために、新しいルールを作る。
TVプログラムということを大変意識している。つまり、観客を意識してできたスポーツである。近頃野球の試合で最初のジャッジを覆した場合など主審がマイクで観客に説明するようになっているが、以前はそのようなことはなかった。サッカーの試合でも審判が観客にどのような反則のおきたことなどマイクで報告などしない。
しかし、アメリカンフットボールは審判が観客席に向かって「だれだれが、なになにの違反をしたので、なになにとなる」と説明する。そしてテレビの普及に伴い、アメリカンフットボールがより人気あるスポーツになっていく。アメリカンフットボールは、するスポーツであると同時に、観るスポーツでもある。
テレビ時代になり、テレビ観戦者のための色々な工夫がなされるようになった。攻撃側は4回の攻撃で10ヤード以上進めば、新しく4回の攻撃権もらえ、進むことができなければ、攻撃権は、相手チームに移る。フィールドには、5ヤードごとに実際のラインが引かれているが、それ以外に攻撃権が与えられた場所から、10ヤードのところに、仮のラインを映像で映しだすことができる。たとえ選手がその仮のラインの上にいても、その下にラインが映しだされる技術が開発されたのである。 1984年のロサンジェルス・オリンピックの際の競泳中継で、プールの水面に各国の国旗が映るようになったことを、記憶にある方も多いだろう。プールの底にペイントなどしているわけでなく、映像処理によって、プールの表面に書かれている。波があれば映像が歪むようになっているのだ。これは、アメリカンフットボールの仮の10ヤードラインを引く技術が応用されたのである。
テレビ番組のプログラムは通常3時間ぐらいである。ちょうどこの時間内にゲームが終わるようつくられているのも興味のあることである。
アメリカンフットボールのルールは難しいと言われるが、基本は、戦争を意識した陣取りゲームである。自分の陣地から、相手陣内を突き進みゴール(エンドゾーン)を目指す。ボールを前進させるには、ボールを持って走る方法(ランプレー)と、味方にボールを投げる方法(パスプレー)がある。
ボールがゴールラインを通過すると得点を得る。得点には、タッチダウン(6点)、ポイントアフタータッチダウン(キックで決めれば1点、ランやパスだと2点)、フィールドゴール(3点)、セーフティー(自責点・2点)がある。
アメリカやカナダで「football」というと、アメリカンフットボールのことを指す。ただしカナダの場合はカナディアンフットボールも含む。アメリカンフットボールでは100ヤードで1チーム11人であるが、カナディアンフットボールでは110ヤードで12名である。
アメリカンフットボールのゲーム中、選手が自由に動いているように見えるが、実は選手が独自の判断で動くことはなく、全て決められた動きをしている。
オフェンスの場合、まずフォーメーション(隊形)があるので、言われた隊形とおりにセット(並ぶ)する。そして、プレー(誰が持って走るとか誰に投げるとか)が指示される。例えば、10のフォーメーションがあって、30のプレーがあった場合、それだけで300種類になる。それらを選手は覚えておかなければならず、コーチの指示されたパターンの動きをする。
もし指示された通りに選手が動かなかったり、当たった選手を押せなかったり、ボールを捕球ミスすれば、もちろん選手の責任となる。ここで他のスポーツと違うのは、作戦が悪ければ、コーチの責任となる。野球では、代打選手が打てなくても、代えた投手が打たれても、コーチの責任になるかというと賛否両論だと思う。
アメリカンフットボールの戦い方は、アメリカの文化を象徴している。アメリカは自由な国というイメージがあるが、こと仕事となると命令系統がはっきりしている。命令を出す人と、それに従う人が歴然と区別されている。まさに軍隊方式なのである。
■ アメフト選手のポジション
そしてアメリカンフットボールは、専門化が徹底している。 攻撃を専門とする選手と防御を専門する選手に分かれている。試合を観ていると、攻撃の時と防御の時、選手が総入れ替えをしているのはそのためである。
攻撃の中でも、ポジションはわかれており、ぶつかるだけ、ボールを投げる、捕る、持って走る、蹴るだけの選手たちで構成されている。ぶつかるだけの選手たちは背番号が50~79番をつけていて、ぶつかるだけの選手たちがボールに触った場合(最初にクォーターバックにボールを渡す時のセンターを除いて)反則を取られる。鈴木さんは今年、このぶつかるだけの中のセンターというポジションである。
一番の花形プレーヤーは、クォーターバックで、司令塔である。練習では、クォーターバックは投げる練習ばかりしていて、その隣では、キッカーというポジションの選手が、蹴る練習ばかりをしている。専門職なのだ。
一番危険なポジションは、ボールキャリア(ランニングバックやレシーバー)の選手で、ボールをキャッチした瞬間に見えないところからタックルされたり、何人もの敵から一斉にタックルを受ける。
ぶるかるだけのポジションは危険だと思われがちだが、止まった状態からぶつかるので、加速はついていないし、また相手がどこから来るかがある程度予想されている。それに対してランニングバックは、どこから来るかわからない敵を対処せねばならず、大きな怪我をすることも多い。選手寿命も短く30歳定年と言われている。クォーターバックは給料が高く、経験がものすごく考慮されるため、チームもなんとかクォーターバックを守って長く働いてもらおうとする。そのためにルールを変えることもある。

そして面白いことに、攻撃選手と防御選手は性格がまったく違う! 試合前のロッカールームでの様子。攻撃の選手は、プレーブックを確認したり、クロスワードパズルをやったりして過ごす。攻撃選手にSUDOKU好きは多い。
それに対して防御の選手は、ヘッドフォンをつけて音楽を最大にして聞いていたり、ホワイトボードに目標を書いて、叩いてみたり、ロッカールームに頭をうちつけたりと。 同じ競技をやっている選手かと思うほどであるという。

■ 子供たちにもアメフトを!
鈴木さんの去年のポジションは、防御の中で、一番前列の真ん中のノーズガードというポジションだった。このポジションは、通常太っていて、半径2メートルだけ素早く動けるような選手が多い。このように、アメリカンフットボールは専門職ゆえ、だれにでも参加できるというメリットがある。太っていて足が早くない人にも最適なポジションが用意されているのだ。
NFLの戦略は、アスリートには選手を目指してもらい、女子にはチアリーダー、お父さんたちはスポーツバーで、スポーツにあまり興味のない人にはファンタジーフットボール(自分のチームを作って得点を争うゲーム)そして子供たちにはフラッグフットボールと言うプログラムを用意している。
これは、アメフトのタックルの代わりに、攻撃側の選手の腰につけたフラッグをとれば、そこでボールデッドになるというゲームだ。
鈴木さんが母校・浅草小学校に教えに行った時の話を例にだした。運動神経がよくない子も参加して楽めるゲームだとつくづく思った。クォーターバックの選手が、「敵はいつも運動神経の良いAちゃんにボールが行くと思っている。彼は最初はボールを捕れると思う。だけどそのうちにカバーがきつくなる。そしたら、最初の3回はAちゃんに投げて、最後1回の攻撃の時に、運動神経の鈍いBちゃんに投げるよ、きっとカバーされてないと思うから」と作戦を話す。これは差別ではない。運動神経が鈍いのは子供の特徴であるだけだ。その証拠に、Bちゃんは嬉しそうににこにこと聞いている。彼のボールをキャッチした時の瞬間は、今でも忘れない。きっと彼が、体育の時間で初めて活躍した瞬間だったのだろう。
一人の子は、選手として参加せず、ヘッドコーチになりたいと申し出た。全員一致で、可決された。彼はものすごく頭が良いけど、運動神経の鈍い子だった。彼は「体育の時間にみんなが僕のいうことを聞くなんてありえない」と専門職を楽しそうにこなしていた。
このようにだれでもが、自分の能力に応じてゲームに参加でき、活躍できる面白さがある。社会は、全部が平均点以上の人材を求めていない。適材適所、出来る能力を上手く発揮すればいいのだ。
■ アメフトの危険性
アメリカンフットボールの最大の問題は危険であること。。ヘルメットをかぶっていても一試合に何十回と頭をぶっつけとなると、脳によいわけがない。頭の内部が異常をきたすことがある。ボクシングの選手が引退後、神経系統に問題が生じるのと同じことである。 そのようなことから、ヘルメットはどんどん進化してきた。また安全のためのルール改正も何度もおこなれてきている。しかし見る側にとっては、激しくぶつかり合うアメフトが見たい気持ちが変わらない。
最近、元サンディエゴチャージャーズのスタープレーヤーだったジュニアセアウという選手が自殺、これがアメフトによる脳障害が原因だったのではないかと言われている。 近頃ある大学でアメリカンフットボールと脳障害についての研究を始めるようになっていて、自分の脳を研究に使ってくれと、ドナーを申し出る選手たちも増えてきています。
■ 質疑応答より
Q「アメリカンフットボールは頭を使うスポーツであるというのは分かりました。その意味で京都大学が強いのでしょうか」。
鈴木さんはそれにたいし もちろんそれもあるし、日本でもそう言われている。それ以外に京都大学のアメフットボール部は、一番最初に5年制を取り入れて強くなったと聞いている。4年生で部活と就職活動の両方が中途半端になるより、5年間で大学を卒業して、5年目の最後の年は、就職活動に集中しようと。そして5年生は、マネージャーとして、選手の為に貢献しようと。今まで、1年生がやっていた雑用を、5年生が行なって、アシスタントコーチとして選手にも教える。この体制を作り出して強くなったと聞いている。
■ 講演後記
今回の講演によってアメリカンフットボールがより近い存在になった。ルールも大分わかるようになった。アメリカンフットボールがアメリカ文化の特色を多く吸収していることがよく分かった。するスポーツとしてはプレイヤーの能力、特質に応じたポジションを選ぶことができる。観るスポーツとして、観客が楽しめるための工夫(ルール作りを含めて)がなされている。そのようなことから、アメリカンフットボールがアメリカでかくも熱狂したスポーツとして取り扱われている理由が分かった。
彼女の年齢は47歳というから驚きである。最初ロビーで会ったとき、30代前半だろうと思っていたが。普通なら彼女の年齢ならこのような激しいスポーツでは引退するのが当たり前というところだろう。彼女には引退などということが頭の中にない。将来コーチになるとか、オーナーになるようなことさえ今のところ考えてないという。彼女は長寿のポジションでプレーしているためなのか、彼女自身の運動能力が減退しないためなのか、まだまだ現役を続けるという。彼女なら50を過ぎても活躍しているような気がする。将来のことより、今現役でプレーができる喜びを噛み締めているという。
その彼女にとって勝つことが最大の喜びであり、それに挑戦することが生きがいである。講演最初に紹介されたテレビ番組で述べていた。「練習は楽しい。練習が終わったあと疲れるというより、次の練習がはやくこないかなと思うくらいなのです」と。鈴木さんは挑戦がよほど好きだとみえて、着物の着付けにも挑戦したことがある。自分一人で着物が着れるようになったときの達成感は素晴らしかったという。アメリカンフットボールと着付けとは全く違うように思えるが、鈴木さんにとってチャレンジすることにおいて同じなのだろう。
鈴木さんが30歳から未知の世界のアメリカンフットボールに挑戦し、現在47歳であるというのに現役で活躍されていることが、我々に生きるためのチャレンジ精神を教えてくれたように思う。彼女の生き様こそが、彼女からの最高のメッセージであったと思う。
PS 現在、鈴木さん自身スポンサーを探している。サウスベーセミナーのメンバーでそのような人はいませんか?

鈴木弘子さんからのお願い

私の友人である船井氏のご子息の翔くんが今年の3月にサンディエゴで交通事故に遭い亡くなりました。加害者が未成年18歳の女の子で、飲酒、マリファナを吸引し、泥酔し翔くんをひき逃げ、そのまま逃げ、翌日出頭するという悪質な事件でした。
7月26日の裁判の前に船井氏家族より判事に対しもう一度詳細を見直し正しい量刑を求める嘆願書を出すことになりました。これからの若い子供達へのメッセージも兼ねて。。。
下記のサイトから長男大輔氏の嘆願書作成に至る事情説明を読んで一人でもたくさんの人にサインしていただきたいのです。
http://rafu.com/news/2012/07/%e3%81%b2%e3%81%8d%e9%80%83%e3%81%92%e6%ad%bb%e4%ba%a1%e4%ba%8b%e4%bb%b6%e3%81%a7%e7%bd%b2%e5%90%8d%e6%b4%bb%e5%8b%95%ef%bc%9a%e8%88%b9%e4%ba%95%e7%bf%94%e3%81%95%e3%82%93%e3%81%ae%e9%81%ba%e6%97%8f/
嘆願書のサインはこちらからお願いします。
http://www.change.org/petitions/justice-for-sho-funai-killed-by-drunk-driving-hit-and-run?utm_campaign=petition_created_email&utm_medium=email&utm_source=guides
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2012年度 4月 - 2012米大統領選挙「傷だらけの共和党候補、それでも戦う理由」

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日時: 2012年4月11日(水)、6:30PM - 8:30PM
会場: ニューガーディナ・ホテル
講師:加賀崎雅子(かがさき まさこ)氏
講演録担当:武藤秀毅

講師略歴
聖心女子小等部⇒中等部⇒大学卒と、完全無欠の女子校育ち。1986年ネバダ大学へ留学。その後、ネバダでギャンブラーとして生きていく素質がなかったので、ロサンゼルスの日系の新聞社に勤務。独立・起業したものの根本的な経営能力に 欠けていた(お金の計算ができない)ため倒産。92年から現職のブリッジUSAの編集長。日系記者クラブ会長やら北海道会会長やら、JBA役員やらあさひ学園理事長やら、ヒトがよすぎて断われず歴任。
講演内容
共和党の大統領指名争いは、昨日(4/8)事実上終焉を迎えた。
ロムニー氏と最後まで争っていたサントラム氏が、突然撤退を表明。もう一人の候補、ニュート・ギングリッチ氏も、4/8事実上の敗北を認めた。
共和党の大統領候補は正式には8月に決定するが、事実上ロムニー氏に決定した。しかし、オバマ大統領に勝てる見込みはかなり薄い。

1.選挙資金について:
2008年の大統領選挙では、オバマ氏は7億5千万ドルを使った。今回の選挙では、既に2/13現在1億2500万ドルを集め断トツ。
共和党トップはロムニー氏の5600万ドル。ロムニー氏は、全米トップ0.0006%に入る大富豪。今回の選挙中、大富豪的発言が対立候補の格好の攻撃材料となっている。

1/31 フロリダの予備さん圧勝後のコメント。「自分が大統領を目指すのは、中間層を救うため。セーフティーネットがあるから、極貧層のことは心配していない。」
中間層が貧困化しつつある中、厳しい評価を受ける。

2月中旬時点、ギングリッチ氏の資金は1260万ドル、サントラム氏は220万ドル。
選挙資金の最大の使い道は、テレビコマーシャル。
選挙を仕切るマーケティングのプロが、マーケットごとに地域住民の意識調査を元に、それにあったCMを投入する。多数のマーケットに、それぞれ異なるCMを投入し、対立候補が中小キャンペーンを仕掛けたらスポットCMでやりかえすため、巨額の資金が必要。

候補者達は、出馬表明後は、半分は遊説、半分は資金集めに奔走。
最初は、地元のホームパーティーで資金集め。参加費の相場は500ドル程度。さらに、ツーショット写真で+500ドル程度。
支持が集まれば、より大きなパーティーへ出席しより資金が集まる。支持が集まらなければ、資金が集まらず撤退となる。
従って、獲得資金額は、人気のバロメーターと言っても過言ではない。

2.共和党候補者選びが長期戦となった功罪:
メリット
メディアが儲かったのが、数少ないメリット

デメリット
共和党保守派との亀裂大。本選までに、ロムニー氏としては修復が必要。

3.保守派について:
サントラム氏の支持基盤。当初は泡沫候補扱いだったが、保守派が彼を支持し、最後までロムニー氏を脅かした。
保守派にも、財政保守派、安全製作保守派、宗教保守派など様々。
サントラム氏は、福音派。聖書は歴史的事実。進化論は認めない。人工妊娠中絶反対、同性婚反対、銃規制反対。

ロムニー氏は、キリスト教の影響が強まることを嫌う穏健派。保守派は、穏健派を民主党以上に嫌う事が多い。そのため、なかなか支持を伸ばせなかった。

ギャラップ社の調査によると、米国民の約4割が保守。共和党支持層では71%が保守。従って、ロムニー氏が共和党の候補者指名を受けるには相当な譲歩が必要。しかし、保守色が強すぎると、民主党支持層や中間層に食い込めなくなる。
つまり、共和党の候補者氏名には保守への譲歩が必要だが、保守色が強すぎると本選で勝てなくなる。

ロムニー氏はこれまでの選挙戦で、得意な経済問題では無く、妊娠中絶や同性婚などの議論に度々引きずり込まれた。サントラム氏とロムニー氏の中傷合戦の結果、共和等無いに大きな亀裂が起き、無党派層の支持を失った。
共和党全体としてみると、サントラム氏の存在によって、無党派はオバマに流れた。
4.ロムニー氏の課題:
保守派のとりまとめ、支持を失った無党派層をどう取り戻すか、女性票の獲得。

副大統領候補
前回は、ペイリン氏が大きな話題をさらった。副大統領候補選びは、大変重要。
ポール・ライアン下院議員、ロブ・ポートマン上院議員、マルコ・ルビオ上院議員等が候補に上っている。ライアン氏が下馬評トップ。
ライアン氏は、「思いやりのある財政保守主義」。ロムニー氏とは仲が良い。
民主党からも、ライアン氏を牽制する動きがある。

5.本選での大きな焦点、医療保険制度改革:
シニア世代への取り込みに必要なのは、医療問題の取り組みにつきる。
メディケア(65歳以上、障害者向け医療保険)、メディケイド(低所得者、子供向け向け医療保険)、連邦職員、軍人、退役軍人向けの公的医療保険、あわせて国民の30%が受益者。
それ以外は、民間の医療保険に加入しなければならないが、1/6が無保険。保険の無い人は、医者にかかれないのが現実。
一人あたりの医療費は、国連加盟191ヶ国中最高、国民の総合的健康状態は72位。

この問題を改善するため、オバマ政権は2010年3月医療保険制度改革法、通称オバマケアを成立させた。
「全ての国民に対し、公的医療保険もしくは民間医療保険への加入を義務化することにより、無保険車を無くそうとする改革。」
成立した物の、いまだ改正や廃止の声が上がり続けており、先行き不透明。

ワシントンポストの世論調査によると、オバマケアの支持50%、反対42%と評価は二分。11月の本選は、オバマケアを守り抜きたいオバマ大統領と、廃止を目指す共和等との激しい戦いとなるのは間違いない。

共和等の医療保険制度改革法への批判

・10年間で約5千億ドルの増税
・製薬会社への増税により、医療コストは上昇
・医療費支払い上限の撤廃により、保険出費が増大し保険料も上昇
・尚、数百万人の未加入者が残ると予測
・保険適用の一律のルールを全ての人に押しつけるのは、個人の自由と宗教の自由に反する。

ロムニー氏は、2006年マサチューセッツ州知事時代、公的保険制度(ロムニーケア)を導入。オバマケアとよく似た制度。
5年後、州住民の98%が保険に加入し、62%が評価。概ね成功している。
ロムニーケアを正当化し、オバマケアを否定するのは自己矛盾との批判。

質疑
Q: オバマ優勢の状況だが、今後の国際関係や経済情勢により逆転の可能性はあるのか?
A: 必ずしもオバマの功績ではないが、経済も好転してきており、オバマ有利。ロムニー氏の目はほとんどないと思われる。

Q: オバマを下ろしヒラリーを大統領にしたい勢力があり、今回の選挙でヒラリーを副大統領候補にしオバマが再選された上でオバマを暗殺し、ヒラリーが大統領に繰り上がるという陰謀説がささやかれている。この件に関する情報は無いか?
A: 聞いたことが無い。

以上
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2012年度 3月 - 日米名前の由来

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2012年度 3月 - 日米名... 2012年度 3月 - 日米名... 2012年度 3月 - 日米名... 2012年度 3月 - 日米名...
日時: 2012年3月14日(水)、6:30PM - 8:30PM
会場: ニューガーディナ・ホテル
講師:後藤英彦(ごとう よしひこ)氏
講演録担当:内藤喬生

講師略歴
1964年時事通信社入社。旧通産省、旧農林省、旧大蔵省を担当後、ロサンゼルス 特派員。 本社海外部次長、途中退社して盛岡大学客員教授、評論活動。2度目の来米で日米ジャーナリスト会議とジャパンジャーナルを主宰。 講談社系、エルネオス誌、ビジネスフロンテイア誌を中心に寄稿中。 主著に「日本をダメにした官僚の大罪」(講談社)。毎週水曜日付、日刊サンに「後藤英彦のぶっちゃけ放題!」を連載中。 中大法学部法律学科卒業。福岡県北九州市出身。
講演内容
本題から少し逸れているが、講演の中で出た話
1 現在NHK で放映されている『平清盛』の中に登場する西行は本当の西行の姿を表現していない。
芭蕉が『奥の細道』を書くに至ったのは、芭蕉が西行の影響を受け、西行のように旅する気持ちになったからである。短歌と俳句の違いはあるが、二人の心の中に流れる共通のものがある。
2 カッパという言葉の由来
織田信長や豊臣秀吉は新しもの好きであった。信長はポルトガル人がもってきた外套を気に入り、何着も買っている。そのうちの一つを上杉謙信にプレゼントした記録が残っている。外套のことをポルトガル語で、「カパラ」、「カパ」と言い、それが「カッパ」となった。国定忠治の「かっぱーからーげて、三度笠」ではないが、このカッパという言葉はもともとポルトガル語であった。
3 天皇の起源
後藤氏は天皇家の起源について江上説を紹介した。天皇のもともとの起源は現在のハルピン松花江流域平原にいた扶余系騎馬民族であるという説。
講演の主な話
①名前(姓)の一番多いのは米国、2位は日本
②アメリカの名前で一番人気のある名前は、ジョーン・スミス。
ジョーンは聖書にでてくるヨハネに由来し、スミスは鍛冶屋を意味する。
中世の騎士の兜、剣、槍,矛などは全て鍛冶屋で作られた。それに馬の蹄につける蹄鉄、農具なども鍛冶屋で作られた。ということから中世の鍛冶屋は当時の大企業であった。
*ドイツでは鍛冶屋のことをシュミットという。ヘルムート・シュミット第5代ドイツ連邦首相(在任:1974年-1982年)は有名。
*ポーランド系ではヤーン・コバルスキー(ヤーンはヨハネ、コバルスキーは鍛冶屋の意味)という名前がある。
*ハンガリー系でもヤノーシ・コバァーチという名前があるが、ハンガリーでは、姓と名を逆にしてコヴァーチ、ヤーノシュ という(ヤノーシがヨハネ、コヴァーチは鍛冶屋)。
*ヤンキーとは、もともとアメリカではオランダ人の蔑称であった。ヤンはヤーン(ジョーン)からきていて、ヨハネの意味。キーとは、はやし立てる、愛称、蔑称につかわれ、「ジョーンの馬鹿たれ」、つまり「オランダ野郎」のような使い方をしていた。南北戦争当時、アメリカ南部で北軍の兵士、北部諸州人を軽蔑する呼び方が「Yankee」であり、のちに「ヤンキー」をアメリカ人全体をさす言葉になった。
③人類のルーツ(アメリカに多くの移民をだしているブリテン島の人々の名前に触れるための布石)
人類のルーツは20万年前、アフリカのタンザニアのビクトリア湖あたりの平原に住んでいた女性であると人類学者は唱えている。現代人のDNAに共通するものが、この女性から引き継がれている。10万年前に今の中東のチギリス・ユーフラテスあたたりに移動した(チギリスという言葉は「川と川の間」という意味)。そこからヨーロッパとアジア方面に別れた。
ヨーロッパは太陽の光が弱く、メラニン色素の関係で黒い肌が白い肌に変わった。2000年ぐらいで黒から白に変わると言われている。また白人の鼻が高いのは、冷たい空気を直接肺に入れるのを避けるために、鼻の部分で空気を貯めるようにした。そうすると鼻に炎症を起こし、高くなったという(これらの説明は後にでてくる、ケルト族、ゲルマン民族、ノルマン民族のもつ名前を説明するための布石)。
アジア方面に移動した人類は背が低くなった。寒いヒマラヤあたりに移動した人類は寒くて目玉を保護するために目を閉じた状態にした。そのために二重が一重になったという。
4.オバマ米国大統領の名前の由来
オバマ大統領のフルネームは、バラク・フセイン・オバマ・ジュニアである。この名前から奴隷の出自でないことが分かる。先祖が奴隷出身なら、それが分かるアフリカ姓を名乗らないからである。バラクは、スワヒリ語で、「祝福」を意味する「バラカ」に由来する。「オバマ」はアフリカ・ルオ族の姓で、「曲がった」といういう意味の形容詞だという。「オバマ」姓を最初に名乗った曾祖父の脚(もしくは腕)が、風土病か事故で曲がっていたのではないか。「フセイン」は「ハンサム」を意味するアラビア語で、イスラム教のシーア教徒に好かれる名前(姓もある)。
5 プリトン(ブリテン)島内と民族の興亡と名前
グレートブリテン島は、政治的に見ると、グレートブリテンおよび北アイルランド連合王国(イギリス)の構成要素であるイングランド、スコットランド、ウェールズの3つの「国」からなる。
ブリテン島の歴史を見るとき、日本の歴史と比べると分かりやすい。
紀元前9000年の日本は無人島であった。上智大学の鬼頭教授によると、紀元前8000年に約2万人。
紀元前8000年ころから紀元前3世紀ごろまで日本に住んだ人々を縄文人といい、それ以後に住んだ弥生人と区別する。縄文人はアイヌ人で、弥生人は主として大陸から海を渡ってやってきた人々である。いわゆるノースマンである。梅原猛は縄文人を有毛人、弥生人を無毛人と呼んでいる。弥生人は縄文人を北と南に追い込む。アイヌ人は毛深い人々である。東北人や九州の南、鹿児島あたりに毛深い人が多いのはそのためであろう。
ヨーロッパでも同じことが言える。太陽の光の乏しいヨーロッパ。ゲルマン人はその中の住みやすいところに住んでいたケルト人を追い出して自分たちがそこに住み着いた。ケルト人は日本でいう縄文人。ゲルマン人は弥生人。両者は異人種の関係である。
追われたケルトがブリテン島やフランスのブルターニュ、アルプス地方へ逃げ込んだものと思われる。ブリテン島にケルトを追ったのがドイツのアングル地方にいたサクソン人。サクソン人はケルト人をスコットランドとアイルランドに追い出し、住みやすいイングランドに住み着いた。イングランドはサクソン人の郷里、アングルにちなんだ名前である。
ゲルマン人はサクソン人、ジュート人、ゴート人などドイツを中心とした西ヨーロッパに住んでいた流れと北ヨーロッパ、今のノルウエー、スウエーデン、デンマークに住んでいたノルマン人とに大別される。寒くてものがないので西ヨーロッパの町々を略奪したヴァイキングである。ヴァイキングとは入り江の住人の意味。北欧に入り江が多いので自らヴァイキングと名乗ったのでだろう。
人類学の法則に寒冷地帯で進化した人間は長身になり、南方の暖かい地帯で進化を遂げた人間は短身になるというのがある。寒冷地帯出身のノルマン人が長身で、ノルマン人の血を引く英国の貴族が平均よりずっと高いのも納得できる話。飛び道具のなかった当時は体力がものをいう。頭ひとつ高いノルマン人は一人で三人の敵を相手にできたそうだ。
整理する。ヨーロッパの人種の潮流は三つ。ラテンとゲルマンとケルト。ケルトはゲルマンによって衰退し歴史の主要舞台から姿を消す。ケルトとラテンは混血する。その典型がフランス人。イタリアから移住したローマ人とケルト人が混血したのがフランス人だが、ノルマンジー地方のフランス人はノルマン人だからフランス人の典型ではない。
かつてアラン・ドロンという長身の美男子俳優がいたがこの人はノルマン人の血を引いていると思われる。ただしアランというファーストネームはケルトに多い名前。ケルトとノルマンの混血かもしれない。ヨーロッパの古代やローマ帝国を建てたラテン人については時間がないので、今回の講演では触れなかった。
グレートブリテン島の名前の由来
グレートブリテン島の名前の記録は、最古のものとしては、紀元前6世紀頃のカルタゴ人航海者の記録にあるアルビオンである。その後、紀元前4世紀のギリシャ人商人の航海記にあるプレタニケから、現在のブリテン諸島を指す言葉としてブリトニという呼び名が生まれ、次第に定着して、その最大の島であるこの島がラテン語でブリタンニア(Britannia)と呼ばれるようになった。
ブリトン人(Britons)は前1世紀頃からローマ共和国、ローマ帝国、アングロ・サクソン人の相次ぐ侵攻を受けて、その一部がフランスに逃れる。フランスではブリトン人の住むようになった地域をブルターニュ(Bretagne; ブリタニアのフランス語形)と呼び、本来のブリタニアをグランド・ブルターニュ(Grande-Bretagne; 大ブリタニア)と呼んで区別した。これが英語に輸入され、英訳された形のグレートブリテンという地名が定着する(ウイッキペディアの記事の抜粋)。
原始ケルト人は1万8000年前(?)に生存していた。その当時の人の名前は分からない。その後にブリテン島にやってきた人を移住ケルト人(アングロサクソン人も含めて)という。その人たちは後のノルマン人の侵入により、北部、スコットランドに追いやられた。名前に、アーサー、ドナルド、ケビン、ケリーなどがある。Mac、Mc、M、Oを頭につけるものもその特徴。
マクドナルド(Mc Donald)のMc は息子という意味で、ドナルドの息子。マッカーサーはアーサーの息子になる。メジャーリーグで70本のホームラン記録 をもつマーク・マクアイヤーはMcが頭にきて、ガイヤの息子ということになる(マクアイヤーという姓はスコットランド系というより、アイルランド系)。
ブリテン島の歴史
紀元前265年ごろより、ヨーロッパ大陸よりケルト人の渡来が始まる。
• 8世紀終わりごろより、ノルマン人(ヴァイキング)が侵入。
• 1014年アイルランド上王 (High King) ブライアン・ボルー(Brian Boru、ブリアン・ボルーとも)がクロンターフでヴァイキングを破り、これ以降ヴァイキングの侵入が収束。
• 1169年ノルマン人の侵攻が始まる。1171年には、諸豪族がイングランド王ヘンリー2世の支配下に下る。
• 1541年イングランド王ヘンリー8世がアイルランド王を自称する。これ以降、イングランドからの入植者が増える。しかしアイルランドの貴族はこれを認めずヘンリー8世と対立した。正式な移民は護国卿となったクロムウェル以降。
現在のイギリスの王室は、1169年フランスからブリテンに侵攻したノルマン人の子孫である。
6 ギリシャ・ローマの影響を受けた名前
アレキサンダー、アンソニー、ジェイソン、ダイアナ、エミリー、ジュリアなどがある。ダイアナ・フランセス・スペンサー
妃のダイアナは、ギリシャ・ローマの名前で、スペンサーはフランスのノルマン人の名前。
アングロサクソン人(ドイツ系)の名前
アングロサクソン人はドーバー海峡を渡りケルト人を北においやった。この人たちの名前の特徴として3つ挙げられる。①父親の名前+son、②種族の地名+ton、③名前を二つ合わせる。
この人たちは後ノルマン人によって北へ追いやられた。これらの名前はスコットランド系、アイルランド系ということになる。
①の例:ジョンソン、アルバートソン、ジェーソン、エジソンなど。
②の例:ワシントン、ニュートン、クリントンなど。tonとはtownのことで、町の名前である。townは柵を意味する。クリントンのクリンは丘を意味する。またワシントンのワシンは、今のロンドンの北のあたりを指す。
③の例:妖精を意味するアルファ+王を意味するエドを合わせて、アルフレッド。神の意味のオズと力を表すワルドを合わせて、オズワルド。
7 ノルマン人の名前
ルマン人とは「北から来た人」「ノースの人」という意味で、バイキングである。ヨーロッパの歴史はバイキングの侵略の歴史であった。バイキングは勇猛でヨーロッパ各地を荒らし回っていた。フランスにもやってきて、セーヌ川と遡って略奪の数々をおこなっていた。フランス王はあまりにもその獰猛さに耐えかねて、フランスの一等地をノルマン人に与え、おとなしくするように懐柔した。その最初の王がロロ(ロベール王)(911年)である。その後3代,4代は何とか静かに過ごしていたが、もともと勇猛な民族であるので、じっとしておれない。ついに、ブリテン島への侵略をおこなった(1169年)。この侵略者が現在のイギリス王室の先祖である。ウイリアム一世とかヘンリー王はノルマン人の名前。その他、ロバート、リチャード、スペンサー、アリス、マチルダ、オードリーなどがある。現在の王室の、ウイリアム王子、その弟のハリー(ヘンリー)のことが頭に浮かぶ。
アングロサクソンは大衆として広くイングランドに住みついた。彼らの上に君臨したのがノルマン人。伝承小説「ロビンフッドの冒険」などはイングランドを乗っ取ったノルマン貴族を悪者に仕立てた、アングロサクソン人からみた物語。 北へ追われたのはケルト人で、彼らはのちにスコットランド人と称された。ケルト人を北やアイルランドに追ったのはアングロサクソン人。
ブリテン島の歴史において1066年はとても重要。この年にアングロサクソン人とフランスのノルマンジーからやってきたノルマン人とが戦争をした。その戦争が「ヘイステイングの戦い」という。これにノルマン人が勝ったので同年12月にノルマン王朝を樹立した。ノルマン兵を率いたギヨーム2世がウイリアム1世として戴冠式に臨んだ。ノルマン人は一般のアングロサクソン人を追い出さなかった。追い出しの対象になったのはアングロサクソン貴族であった。彼らの身分・土地・財産を没収して、有力な部下を貴族に昇格させ、働きに応じて没収した土地などを与えた。ダイアナ妃のスペンサー家もそのひとつである。
8 中世の職業を名前にしたもの
アーチャー(弓つくり)。カーター(馬車職人)(記録者の師であるカーター先生の父親はユタ州で運送業をおこなっていた。馬車職人と運送業と関係があるのであろうか?)。クーパー(樽、桶職人)。スミス(鍛冶屋)(これについてはもう述べた)。チャップリン(礼拝堂の牧師。チャップとはチャペルと音が似ている)。ベイカー(パン屋)。
9 聖書、キリスト教由来
デイビット、スティーヴン、ポール(パウロ)、マーク(マルコ)、アダム、マイケル(ミカエル)、クリストファー(クリストフォロー)(キリストに従う人という意味なのか?)、フィリップ(ピリポ)、ピーター(ペトロ)、ジョン(ヨハネ)、トマス、エブラハム、マシュー(マタイ)、サラ、エリザベス(エリザベト(聖母マリアの母親の名前))、メアリー(マリア)
10 あだな
ロングフェロー(長身)、ブラウン(褐色の皮膚)(現在のカリフォルニア州知事の名前)、リード(赤色の皮膚)、ケネディ(醜い頭)(ケネディー家の先祖は1850年アイルランドから移住した)、キャメロン(曲がった鼻)(わし鼻のことであろう)(映画『タイタニック』の監督の名前がこれだったはず)。Do-Little(怠け者)(『ドリトル先生航海記』のドリトルは Do-Littleからきている)。
11 虐げられた者の名前
ユダヤ人
◎ユダヤ教、旧約聖書、神職((モーゼス、ソロモン、アイザック、コーヘン、コーン、カーン、コーガン、カツツ、ラビン(ユダヤ教の最高の指導者のこと))
◎ヨーロッパのユダヤ人の多くは、姓を持たなかった。ナポレオンが徴税のため姓を名乗らせた。ドイツは18世紀後半、オーストラリア(1787)、ポーランド、ロシアは1795~1815年に名乗りを強制した。
◎美しい姓は当局に金を払わねばならなかった。Rosenberg(バラ山)、Golodberg (金の山)、Blimental (花の谷)。
  ◎一般人は、Lang(高い)、Klein(低い)、Grosss(太い)、Schneider(仕立屋)、Silverman(銀細工人)、 Kraufman(商人)。
◎貧乏人は、Chllowsrope(絞首台のロープ)、 Eselkopf(ロバの頭)、Taschenrieb(スリ)
アフリカ系黒人
◎地名(ブルストル、ヨーク)(奴隷貿易港の名前)
◎皮肉、ひやかし(ビッグ、ファット、オールド、ロフテイー、トムボーイ、キング(キング牧師)プリンス、マリンダ、シンシア、サリー)(奴隷貿易商人が適当につけた。逆につけたのが多いという。小さい男をビッグというように)。
◎奴隷解放後に黒人自ら選んだ姓(ワシントン、ジェファーソン、ジャクソン、スミス、ウイリアム、ブラウン、ジョーンズ、デイビス)(奴隷解放前、大統領は200人、300人の奴隷を所有していた。ところが、大統領ともなると、奴隷を酷にあつかわなかった。ワシントンの場合、「奥さんが亡くなったあと、奴隷を自由の身にするよう」遺言している。このようなことから、黒人の姓に大統領の名前が多い。大統領名を名乗っているアメリカ人の9割は黒人であるという。
電話での後藤氏の話
*レーガン大統領のレーガンはケルト系のアングロサクソン。レーガンは「小さい国の王子」という意味。エジソンはスコットランド系。スコットランド系のアメリカへの移住者はアメリカ全体からすると少ないが、レーガンを代表するように、結構立派な人が多い。
  *ビートルズの4人のメンバーすべてがケルト系。ケルト系の特徴として、赤毛で、体が小さい。
*アイルランドはブリテン島のなかでも早い時期に(3世紀だったかな?)、聖パトリックによるキリスト教の布教がなされた。 聖人聖パトリックの命日、3月17日をカトリックにおける祭日であり、アイルランド共和国の祝祭日である。
*アルルランドでの主食はジャガイモであった。天候異変でジャガイモがとれず多くの餓死者がでた。餓死を逃れるためにアメリカに移住した人が多い。
日本人の名前
四囲を海で囲まれてた日本人は太古に遡ればみんな親戚。
日本西暦9000年前は無人島。
西暦8000年前2万人(紀元前3500年前ごろはメソポタミア文明が栄えた)
紀元前2000年―紀元300年60万人。
聖徳太子の頃350万人。
鎌倉幕府684万人、明治維新1227万人。
綱吉3128万人、明治維新`3330万人。
新撰姓氏録(815) 賜姓族―― 源、平、橘、清原、藤原、物部、大伴、蘇我、葛城、 吉備 渡来系―― 秦、東漢、坂上、丹波、長宗我部、大内 ●源氏18流(家格は村上源氏。幕府を開いたのは清和源氏。  嵯峨源氏、宇多源氏(近江源氏の佐々木)●藤原4家のうち房前の北家が平安の摂関政治、鎌倉時代に近衛、  鷹司、九条、一条、二条の5摂家に。支流に三条、四条、西園寺   花山院、中御門 ●北家から藤原利仁、藤原秀郷が武家に下る②京都に一握りの貴族。  源氏18流や藤原北家から武士に下った○藤の一族が全国に。
*現在例えば藤原姓を名乗っている人で、上記の藤原氏を直系とする先祖である人は、ほとんどいないと考えてよい。あえていうならば2%以下。その2%に入っているような家は、300年以上の前の苔むしたる墓が現存し、寺の過去帳に少なくとも7代遡って記載されているような家。
藤原には大きく分けて二つの流れがある。貴族の藤原と、貴族という身分を捨てて武士になった藤原がある。後者のばあい、A)藤原の内の武者 B)天皇の警護に当たった内舎人(うちとねり)の役職にいた藤原がいた。西行になる前の藤原義清も藤原秀郷の流れで、天皇の警護に当たっていた。義清は天皇の近辺に仕えていたので「北面の武士」という特別の名称で呼ばれていた。平家武士を率いた平清盛も「北面の武士」であった。武士・藤原は今でいう知事、副知事、県警本部長になって地方へくだり土着した。源氏武士、平家武士とも交流があった。九州の藤原は平家に加担していたようだ。武士の三つの本流である藤原氏、源氏、平氏が威張れたのは室町時代まで。すっかり貴族化した藤原など三流の殿様は部下に寝首をかかれたり、だまし討ちにあったりして歴史から消えた。いわゆる下克上の戦国時代の到来であった。
*○藤の場合:後藤は肥後の藤原氏。貴族から武家に下った藤原の始祖は藤原利仁と藤原秀郷の二人。◯藤を名乗る源流はこの二人から来るといわれている。後藤は利仁から来ている、内藤は平将門を破った武家・藤原の名を高めた藤原秀郷の流れ。
藤原XXという武人が平安期に九州を統括する大宰府に赴任した。藤原XXは大宰府長官であった(?)。この人の子孫が九州に土着した。その有力者の一人が肥後の豪族になり九州一円に勢力を張っていた菊池家、阿蘇大神宮と深くかかわりを持つ。3家の家紋は違い鷹の羽紋。別の流れは後世、佐賀の大藩・鍋島家と姻戚関係に入り武雄城主になり、本家は鍋島を名乗り、分家が後藤姓を後世に残す。
加藤は加賀の藤原氏。
●中世日本人のほぼ全部が姓を持っていた(洞富雄早大教授)。
   武家Sは家来に自分の姓Sを授けた。
 領内の名主、農民の上・中流農民にもSを名乗らせた(苗字帯刀)。  後世、本流のSはどれかわからなくなった。
  4公6民の千石取り武士の場合、400石を自分がとり、600石を農民に与えた。江戸初期の1石は今の10万円(鎌倉、室町時代のことはよくわからない)に相当したから、400石は4000万円。このクラスだと武家諸法度等で17,8人の部下を常時抱えていなくてはならなかった。主な部下は日本差し(いわゆる武士)のほか足軽、中間(ちゅうげん)などがいた。
このなかで武士Sに忠勤を励む者を選んで自分の姓Sを授与することがあった。直接の部下だけではなく、現場(田畑)の総責任者(庄屋、名主、百姓代表など)などの中のお気に入りにも名前を与えた。武士は基本的に貧乏あったから、自分の名前や家伝の茶器、刀、名字帯刀の名誉などを与えて配下の人間の心を繋ぎとめていたようだ。
<ここからは、新たに、後藤氏から送れれてきた興味のある話が追加されている>
一般農民は住所や田の地名を姓に
●浪人は仕官の折に源平合戦等で活躍した加藤、熊谷といった姓を  名乗ることがあった。
江戸時代、姓を持てたのは貴族、武士と特別階級だけで、全体の5,6%に限られていた。ところが洞富雄、元早大教授らの研究によると農民も姓をもっていたことが証明された。東京・江古田の氷川神社の造営奉納取立帳(1846年)には、全村85件の戸主が整然と姓名を書き連ねてあった。長野県坂北村の碩水再建の奉加帳(1783年、1816年)や栃木県新井村の医土山浄光院の寄進帳(1870年)でも、全員が姓名を書き連ね、名前だけの例はひとつもみられなかった。
宗門人別帳や、藩に差し出す公文書には名前だけが通例だが、仲間内や私文書には姓名を書くのが通例だった。
●明治政府は徴税、徴兵のため、平民苗字許可令(1872)、平民苗字必称義務令(1875)。(平民苗字許可令では、苗字を申しでる人が少なかったので、そのあと明治政府は義務として強制した。農民にとって、苗字をつけることはそれほどメリットのあることではなかった。徴税や徴兵を避けたかったのである。しかし強制されたので、しぶしぶ私称の姓を公にした、姓を名乗る地盤(田畑など)のない最下層やホームレスは、掘っ建て小屋の地名を名乗ったり、周りの物知りに頼んで名前をつけてもらったりした)
農民、商人、私称していた姓を表に出す。姓を持たない者は勝手に姓をつけた。
日本人の名字の9割は地名。 名字トップ20は 佐藤、鈴木、高橋、田中、渡辺、 伊藤、山本、中村、小林、斉藤、 加藤、吉田、山田、佐々木、山口、 松本、井上、木村、林、清水の順。
  「子」の意味 中国・春秋戦国時代(紀元前770~同221)のころからの男性に 対する尊称、 先生。 孔子、孟子、聖徳太子、小野妹子。 のちに貴族、上流の女性の名前に。 紫式部は香子、父親は藤原為時。清少納言は諾子(なぎこ)、 清原元輔。
*本家本流はほんのひとつまみ。本家本流と呼べる家は1、2%、あるいはそれ以下だろう。
*後藤家の家紋は逢い鷹の波紋。だからといって本流とは限らない(後藤氏の言葉)。後藤家の主人にあたる肥後の後藤家では、部下に姓、刀、家伝の品々、家紋などを恩賞として授けていたからである。恩賞として姓を頂いた部下の武家や金持ち農家は本家の許しを得て、さらにその姓を関係のできた人々に与えている(むろんゆるされないこともあった)。農民の場合、姓や家紋をもらっても正式に苗字帯刀身分になるのはたいへんだったようだ。地位によっても違いがあるようだ。苗字帯刀の身分になれたのは農民の5%あるいはそれ以下であったようだ(さらにリサーチの要あり)。
*戦国時代の下克上でこれまで大殿様であった武家は部下や隣家の陰謀などにはまって歴史から消えていく。そして天下を治めた新興勢力、信長、秀吉、家康の功臣が大名となり、戦国時代を生きながらえた名家が新興勢力の下に仕える。戦国時代まで大名だった吉良家が家康に仕えたのが好例。
*生活が苦しい武家のなかには姓や家紋を部下や金持ち農民(名主、百姓代表など)に売って窮乏をしのいだ者も少なくなかったらしいし。本当のところ、今となってはなかなかわからないが。姓と家紋が本流と同じだからといって、決して自慢はできない。家系図だってだませる。鎌倉時代からうその家系図を書く職業があって、金持ちの間では大変重宝がられていたとの記録もあるそうだ。
*むしろだませないのは菩提寺にある先祖の過去帳や墓や位牌である。過去帳で七代ぐらいまで遡ればおよその見当はつく。江戸初期の先祖の位牌があれば武家か農民かぐらいは分かる。墓は大きな墓地を都市周辺か大寺に持っていることが目安になる。独立した広い墓地に苔むした墓石十本ほども立っていて墓石に姓と名が刻んであれば武家あるいは名門庄屋の可能性大。明治になって成り上がった家のなかには地方にあった墓地をつぶして東京にもってきた例もしばしば見かけられる。
*それでもかつての墓を世話していたお寺さんに訊けば大体のことはわかる。名家ともなれば、先祖がお世話になっていた寺に、時代が変わって東京に出たからといって、まったく挨拶なしということはないと思われるからだ。毎年盆ぐらいには少々の送金をお寺さんにしている家の位牌はほとんど永久保存されていると聞く。むろん、場所をとるからコンピューターに保存しているケースもあるようだ。
*自分とは何者ぞやと問うとき、先祖を探るのは当然。そのとき、姓名が手がかりのひとつになる。過去をたどれない家系はあまり自分の先祖を誇りに思っていなかった結果だと考えるべきだ。誇るなら、下手な武家を先祖に持つより裕福な名主の家のほうだろう。千石取りに相当する名主は珍しくなかったという研究もある。たとえば五百世帯を束ね、配下に五十人の小作人を抱え、数百町歩の田んぼと山持ちの身分は武家の千石取りとは違う。年貢を払ったあとの千石は今のお金で1億円。毎年1億円の収入があるから、1日10万円、月に300万円使っても年出費は3600万円、1日20万円、月に600万円使っても年の出費は7200万円になる。1億円は使いきれず財産は膨らむ一方。おそらく所領5,6万石の大名に相当する生活ができたはず。
大名は参勤交代や江戸城改築費用その他で物入りであった。大名家族(5,6人)だけの出費が1日20万円以上という身分の大名家はそう多くなかったはず。その点、農民は違う。明治に入って地方の名士になるような家はほとんど名主クラスで閉められている。
*地方の名主などを先祖に持つ旧家出のなかには人の上に立つべく生まれ、人柄も容姿もよい人が多いようだ。金と環境がよいDNAを育てるのかもしれない。太宰治は名主(青森)の六男で、その典型のようだ。
*田中、中村、山本、山田などは農民の姓であるが、田中の場合、田の中心的なところに住んでいたということで、農民でも地位が高い家ということになる。
*井上は井戸の上という意味で、井戸を支配していたというので、力をもっていた家ということになる。
*渡辺も渡部も、同じ系統。船頭や橋を造る家であった。
*安倍はアイヌ系。阿部と関係があるのかは聞き逃した。
*紫式部と清少納言は身分は同じぐらいであった。二人は結構仲がわるくて喧嘩している。同程度だから喧嘩できたのだろう。
巨勢(こせ)という姓は、朝鮮から流れてきた一族ではなく、土着の豪族である。播磨風土記に巨勢の里のことが記述されている。
記録者の師である、ベンソン先生は隠れユダヤ人であった。先生のフルネーム、ジェローム、アーサー、ベンソン、バーインスタインのどこがユダヤ人の名前かと後藤氏に質問すると、「バーインスタインである」と答えられた。ウエストサイド物語の多くの歌を作曲したバーインスタインという人がいた。彼は指揮者としても有名。
以上
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2012年度 2月 - イスラム世界

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2012年度 2月 - イスラ... 2012年度 2月 - イスラ... 2012年度 2月 - イスラ... 2012年度 2月 - イスラ... 2012年度 2月 - イスラ...
日時: 2012年2月8日(水)、6:30PM - 8:30PM
会場: ニューガーディナ・ホテル
講師:進藤雄介(しんどう ゆうすけ)氏
講演録担当:藤原 勝




講師略歴
昭和39年 3月1日 大阪府生まれ
昭和60年10月  外務公務員採用I種試験合格
昭和61年 3月  東京大学経済学部経済学科卒業
      4月  外務省入省
      5月  北米局北米第二課
  62年 6月  在アメリカ合衆国日本国大使館外交官補
平成元年  5月  米国ペンシルバニア大学修士号取得 (経済学)
      6月  在サウジアラビア日本国大使館
   3年 9月  経済協力局有償資金協力課 課長補佐
    5年 9月  大臣官房総務課 課長補佐
   7年 8月  経済局国際機関第一課サービス貿易室 課長補佐
   9年 7月  総合外交政策局国際社会協力部 地球規模問題課 首席事務官
  11年 4月~9月 京都大学大学院人間・環境学研究科講師 (地球環境政策論)
  11年11月  在ドイツ日本国大使館 一等書記官
  14年 4月  総合外交政策局軍備管理軍縮課 通常兵器室長
  16年 4月  警察庁出向
      5月  福井県警察本部 警務部長
  18年 8月  外務省国際情報統括官付国 際情報官(第二国際情 報官室担当)
  20年 9月  外務省大臣官房考査・政策評価官
  21年 2月  アジア大洋州局南部アジア部 南西アジア課長
  22年 6月  在ロサンゼルス日本国総領事館 首席領事

著書: 「地球環境問題とは何か」時事通信社 2000年
    「アフガニスタン祖国平和の夢」朱鳥社 2004年
   「タリバンの復活」 花伝社 2008年

講演内容
進藤氏は最初に海外赴任をされたのがサウジアラビアでイスラムの中心地とされる地であった事からアラビアとイスラム教社会に興味を持たれた。進藤氏自身はアラビアやイスラム世界の専門家ではないが、素人であるがために感じた事や驚いた事などを中心とするお話をしたいとの前提で、イスラム世界、アルカイダの構造、アルカイダ幹部の日本に対する言及、アフガン戦争とそれを理解するための重要ポイント、他民族国家であるアフガンの支配民族と他の民族との関係と紛争、自爆テロリスト等について満席の会場の中でご講演頂いた。講演の概要はここをクリックして講演資料をご覧ください。
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2012年度 1月 - 新年会

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受付 受付 受付で総指揮の福島さん 受付で総指揮の福島さん SBMS2012年度総会 水野... SBMS2012年度総会
水野会長の新年の挨拶
浜野氏から会計報告を聞く 浜野氏から会計報告を聞く 長田・梅田両氏による活動報告 長田・梅田両氏による活動報告 河合氏による会計監査報告 河合氏による会計監査報告 2012年度の新幹事の皆さん 2012年度の新幹事の皆さん TJSラジオ、プロアナウンサー... TJSラジオ、プロアナウンサー佐伯さんの名司会で新年会
開催
恒例の水野会長と司会者による、... 恒例の水野会長と司会者による、なぞかけのご披露 水野会長のなぞかけ第2弾。全員... 水野会長のなぞかけ第2弾。全員がナールホドと納得 食事前の静けさ? 食事前の静けさ? 濱さんによるシャンパンの由来の... 濱さんによるシャンパンの由来の説明に聞き惚れ、男性は見惚れ 濱さんの号令でカンパ~イ 濱さんの号令でカンパ~イ 皆さん今年も宜しくぅ~。カンパ... 皆さん今年も宜しくぅ~。カンパ~イ! おめでとうございます。カンパ~... おめでとうございます。カンパ~イ! もひとつおまけにカンパ~イ! もひとつおまけにカンパ~イ! 水野会長、早く食べましょうよ! 水野会長、早く食べましょうよ! ワッ、美味しい! ワッ、美味しい! 食事をしながら楽しい団欒 食事をしながら楽しい団欒 観て美しく、食べても美味しい日... 観て美しく、食べても美味しい日本の正月料理 このテーブルの幹事諸君は何処へ... このテーブルの幹事諸君は何処へ? SBMSの新年会初参加ですね。... SBMSの新年会初参加ですね。また来年も参加して下さいね。 萩池先生の笑顔がステキですね。 萩池先生の笑顔がステキですね。 参加者同士で楽しい団欒が出来ま... 参加者同士で楽しい団欒が出来ました。 2月講師、濱野 崇氏 2月講師、濱野 崇氏 3月講師、ムサヴィ英美(ムサヴ... 3月講師、ムサヴィ英美(ムサヴィ ひでみ)氏、フィリップス笑実(フィリップス えみ)氏 4月講師、萩池洋子先生 4月講師、萩池洋子先生 5月講師、宮嶋サトシ氏 5月講師、宮嶋サトシ氏 7月講師、佳緒里・ラナ・ターナ... 7月講師、佳緒里・ラナ・ターナー氏 佳緒里・ラナ・ターナー氏 佳緒里・ラナ・ターナー氏 9月講師、トシコ ムトー氏 9月講師、トシコ ムトー氏 8月講師、中村 真弓氏 8月講師、中村 真弓氏 11月講師、濱 泰穂(はま や... 11月講師、濱 泰穂(はま やすほ)/ Alice Hama氏 川本 旭鶴氏による琵琶の演奏 川本 旭鶴氏による琵琶の演奏 すばらしい琵琶の演奏で格調の高... すばらしい琵琶の演奏で格調の高い新年会の雰囲気になりました。 羅生門の熱演 羅生門の熱演 お待ちかねの抽選会ですよ~。 お待ちかねの抽選会ですよ~。 何が当たったのですかぁ? 何が当たったのですかぁ? はい、次~? はい、次~? 良い物が当たりましたかぁ? 良い物が当たりましたかぁ? おっ、喜子さん、何が当たったの... おっ、喜子さん、何が当たったのですか? 2012年度 1月 - 新年会 記念の集合写真 記念の集合写真
エンターテイメントの紹介

琵琶演奏

演奏者:
川本 旭鶴
演奏者の紹介:
8歳の春より小森旭窓の元で稽古をはじめ数々の演奏会等へ出演。 1977年渡米後も引き続き筑前琵琶大坪旭邦師に師事。その後教授免状を取得。旭邦師と共に米国に於いても日本文化紹介のため各方面での演奏活動を行い現在に至る。

奏曲紹介:
羅生門
葛生 桂雨 作歌 橘  旭宗 作曲
時は平安時代中期、源頼光(みなもと の よりみつ)、つまり頼光(らいこう)は春の宵、家来の碓井貞光(うすい の さだみつ)、卜部季武(うらべ の すえたけ)、坂田金時(さかた の きんとき)、渡辺綱(わたなべ の つな)等と酒宴を催します。
その席で頼光が「近頃何か面白い話は無いか」と一同に尋ねますと、平井保正(ひらい の やすまさ)が、「9条の羅生門に鬼が出没するなど、夜になると人々が通行できないという噂です」と答えます。それを咎めて綱は、「都の南門でもあろう所にそのようなものが出没するわけが無い」と言い、言い争いになります。
そこで事実を確かめるため綱は人々の止めるのも聞かず、源氏の名刀「髭切りの太刀」と証拠の立札を手に羅生門へ向かうのです。
そして夜明け方、綱が羅生門に立札を立てて帰ろうとしますと、後ろから兜の錣(しころ)をつかんで引き戻そうとする者がいます。さては鬼人と綱は太刀を抜いて切ってかかり奮闘の末、鬼人の腕(かいな)を打ち落とします。
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2011年度 12月 - 海外所得・資産が絡んだ米国税務申告 - 押さえておきたい税務上のポイント

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2011年度 12月 - 海外... 2011年度 12月 - 海外...
日時: 2011年12月14日(水)、6:30PM - 8:30PM
会場: ニューガーディナ・ホテル
講師:河村 好司 (かわむら こうし)氏
講演録担当:藤原 勝

講師略歴
所属 Nagano Morita LLP
University of Southern Mississippi大学院卒。
大学院卒業後約6年間広報の仕事に従事。
外務省専門調査員等を経て、2002年Nagano Morita LLPに入所。
2009年よりAssociate Partner。複雑なタックス・イシューが関るIRS税務調査・不服申し立ての立会い、移転価格ドキュメントの執筆、非居住者による米国投資に対する税制度等を専門とする。
講演内容
今回の講演内容は次のリンクを開いて頂くと詳しく説明されています。 https://drive.google.com/file/d/0B1scdJVhAJdjYnJCVmFyZ3JWQTg/view?usp=sharing
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2011年度 11月 - カリフォルニアワインの楽しみ方

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2011年度 11月 - カリ... 2011年度 11月 - カリ...
日時: 2011年11月9日(水)、6:30PM - 8:30PM
会場: Toyota USA Automobile Museum
講師:濱 泰穂(はま やすほ)/ Alice Hama氏
講演録担当:藤原 勝
講師略歴
慶應義塾大学法学部法律学科卒。 日本銀行で勤務していたころ、趣味の一つとしてワインスクールに通いだしたことがきっかけで、ワインの世界に魅了される。 2009年に転職を経て渡米した後は、カリフォルニア大学ロサンゼルス校のワインプログラムにて多角的な視点からワインを研究。日本・米国・スペインのワイン関係の資格(後掲)を取得。 現在はワイン教育プログラムの提供やワイナリーのプロモーションイベントを手掛ける「LearnAboutWine.com」所属のコンサルタント兼ライターとして活動中。同社はロサンゼルスのワイン・レストラン業界においてもっとも影響力のある会社トップファイブに選ばれている。 フリーランスでは、ナパの新星ワイナリー数社のPR・マーケティングおよびワインコメントを担当。
保有資格: UCLA Business, Management, and Legal Programs: Hospitality and Wine Education - The Certificate in Wine Education and Management
Southern California Wine Examiner
日本ソムリエ協会(JSA)認定ワインエキスパート
米国ワインエデュケーター協会(SWE)認定ワインスペシャリスト
スペインワインアカデミー認定ワインエデュケーター
日本アロマテラピー協会認定アロマテラピーアドバイザー
Learn About Wineワイン・エクゼクティブ
食育エキスパート
ブログ&記事: Alice in WINEderland: http://ameblo.jp/yasuho-hama/ Killer Cabernet & UMAMI Burger: http://learnaboutwine.com/blog/?p=1198 Cakebread Cellars Dinner: http://learnaboutwine.com/blog/?p=1168 Top Sake with Kurtis Wells: http://learnaboutwine.com/blog/?p=1151 Sea Smoke Cellars Dinner at Nobu: http://learnaboutwine.com/blog/?p=1038 Southern California Wine Examiner Page:http://www.examiner.com/southern-california-wine-in-los-angeles/alice-hama Eagle Vines Vineyards:http://www.eaglevinesgolfclub.com/sites/courses/layout9.asp?id=641&page=62337 Voice from California “Kenzo Estate Winery”: http://www.gvsjapan.com/YMK/Blog/entori/2010/12/2_Voice_from_CaliforniaKenzo_Estate_Winery.html

講演内容

1.はじめに:
彼女が所属する会社“Learn About Wine”の会社概要:比較的小規模のワイナリーの商品のプロモーションビジネスが主体で、各所でバイヤーなどを集めてワインテイスティングやワインディナーなどのイベントの開催を行っている。濱氏はここでバックアップソムリエとして活躍中。
ソムリエ: 日本ではソムリエと言う言葉を広めた田崎信也氏が有名だが、ソムリエとは元来、王様の食事の毒見をする係りの人の事であった。重要ではあるが危険を伴う仕事でもあった。現在ではワイン担当でワインの知識が豊富で食事の時にワインに関するアドバイスが出来る人の事をソムリエと呼んでいる。その資格検定は各国バラバラで統一されていないが、日本の場合、ソムリエの金バッジを付けた人はワインに関する仕事で5年以上の経験があり、受験者の10%程度しか合格しないと言われる厳しい検定試験に合格する必要がある。
ワイン業界に影響力のあるメディア: 漫画、神の雫、は一般の人にワインの知識を分かりやすく面白く伝える事で話題になり、日本では現在30巻、350万部発売され、ドラマ化もされている。更に韓国でも話題になり、既に売り上げは100万部を突破し、韓国のワインブームの切っ掛けになったとも言われている。その他サンタバーバラやナパバレーのワイナリーを舞台にしたアメリカ映画“Sideways”や、それのリメーク版とした日本のテレビドラマ”サイドウエイス“が有名である。
2.カリフォルニアワインの概要:
世界で最初にワイン製造が始まったのは紀元前6000年頃と言われているが、アメリカでは1700年代に、一つは、トーマス・ジェファーソンがワイン好きで、フランスからぶどうの木を東海岸に植えたが、地理的条件の差と技術の問題であまり成功はしなかった。もう一つは同時代に、カソリックのイエズス会が宗教儀礼にワインが必要なので、メキシコからカリフォルニアに持ち込んだワインの木を教会の裏に移植したのが最初だと言われている。
1838年にナパバレーに教会の裏ではない最初のブドウ畑が出来、その後1857年にAgoston Harazsthyが最初のワイナリーを経営するようになった。1879年にGustave Niebaum, Inglenookがワイナリーを開放し一般の人がワインを楽しめるようにした。 1920年より1933年までは禁酒法の施行のため全米に700社あったワイナリーが140社にまで激減したが、宗教の自由は憲法で保障されていた為、宗教上の理由でワインを飲む事が許されていた事と、ブラックマーケトの存在もあり、ワイナリーが完全に無くなることは無かった。今でもナパにはブラックチキンと言うなのワインが存在するが、これは禁酒法時代に作られたワインの事を言う。
1976年にパリでの世界ワインコンクールでアメリカのワインが世界一になった。それ以降、アメリカのワインは世界で注目されるようになり、ワイナリーの数もブドウ栽培面積も急増した。このような流れのなかで、1978年、アメリカ政府はワインの認定制度に関する法律を作った。最初に認定されたワイナリーはミズリー州のものであった。1983年あたりからカリフォルニアのナパバレーのワインが注目をあびるようになり、質のよいワインが生産されている。
現在、全米に7626社のワイナリーがあり、カリフォルニアでは3364社ある。約半分近くがカリフォルニアにある。しかも、カリフォルニアは全米のワインの90%生産している。一応どの州もブドウが生産されているが、カリフォルニアに集中していることになる。
*カルフォルニアのワイナリー: 南北の海側に集中している。北はアイランド イン ザ スカイと言う愛称で最近日本でも話題のワイナリーがあるメンドシノカウンティがある。ソノマカウンティーはジンファンデルの生産で有名。ナパバレーは時価が高いのでワイン価格もそれに比例して比較的高い。セントラルーバレー、まったりとしたクラッシック風のシャドネーで価格も比較的安い。モントレーカンウンティは最近、新しい移民に依るワイナリーが増えていて、また、今までに無かったブドウの木を植えているので、注目を浴びている。サンルイスオビスポ、大変ホットな場所でここのワインは価格が安いにもかかわらず品質が高いのでコストパフォーマンスが良いと言われている。サンタバーバラ、ピノノワールの生産で有名。シースモック(?)と呼ばれる地域のワインには一本300ドルのものもあり、ワイン価格の上昇が一番激しい地域としての印象がある。テメキュラはワイン通にはあまり注目されていない地域ではあるが、アーモンドやオレンジ風味のシャンパンがあり、ワインをあまり飲まない人でも楽しめる面白い地域である。



3.テイスティング:
参加者全員のテーブルの上に三種類のワインが並べられていて、各自がワインテイスティングができるように準備されていた。
Glass #1 ( piot noir) テーブルのサンプルのピノノワールは。黒ブドウからつくられていて、女性的なワインとされていて日本食にもよく合うと言われている。このワインを飲む特製のワイングラスを濱さんはもって来ていたが、我々の前にあるグラスはテイスティング用のもので、それほど大きくなく、またそれほど薄くない。どれも同じ条件で飲むために、このようなテイスティングテスティング用のグラスがあるという。普通、それぞれのワインにはそのワインにあったワイングラスがあるという。
Glass #2(Cabernet Sauvignon) 青ピーマンの香りがし、少しスパイシーな感じのワインで、知性のブドー或いは男性的なワインと言われている。
Glass #3 (Zinfandel blend) ジンファンデルはカルフォルニア独自の種類と言われているが、原産地はクロアチア或いはスロバニアのぶどうだと言われている。ただ、ジンファンデルと呼んでいるのはカルフォルニアのみ。まったりとした甘さがあり肉料理に合うワイン。
4.ワインマナー:




*香水は控えること。香水の匂いがきついと、ワインの香りを楽しもうとすることに対する妨害になる。
*飲む順序がある。最初にシャンペン、次に白から赤に進む。
*乾杯のとき、グラスをカチンと合わせるのはよくない。その理由はワイングラスが薄くできていて、割れるからである。特にヨーロッパでこのような動作をすると、アメリカから来た田舎者と冷ややかな眼で見られるという。
*ワイングラスの持ち方は枝の部分を持つのであるが、女性の場合小指を少し立てると美しい仕草になる。男性はこの仕草は避けた方がよい(笑)。枝の部分をもつのは、ワインを手の体温によって温めてしまうと美味しくなくなるためである。白ワインは冷やして飲むと美味しく、ワインの温度によって味がちがってくる。
*ワインをコップの中でまわすとき、右利きの人は時計と逆方向に、左利きの人は時計まわりに揺すること。その理由はワインを回したときに、この方向だとたとえこぼれたとしても、他人ではなく自分にかかるからである。
*ソムリエにワインの相談する時、値段を聞くのはマナー違反ではないので、先ず価格の範囲、その後赤か白か、そして軽いのか重いのかを相談するのが良い。
*ワインメニュウ:グラスワインは一般的にシャンパン、白、赤、デザートワイン別に記載されている。その他、国別、ぶどうの品種毎に、或いはレストランに依ってはソムリエのお勧めワイン毎になっているが、たいてい軽いものから重いものの準になっている。
*ホストティスティング:ワインに劣化(ブショネ-仏語、コルクの意味)がないかを調べる事。ワインにコルクのダンボールのような香りが付いていないかを調べる事で、大体100本に1本の割合で起きているとされています。もし、気が付かなくても、ソムリエが気付けば取り替えてくれるし、たまたま、それを呑んでしまっても無害である。
5.押さえておきたいワイン:




*Charles Shaw (Two Buck Chuck):よくTrader Joeなどで売られている2ドル程度のワインであるが、安くて美味しい。価格が安い理由にはいろいろな説があるが、ワイナリーの余剰ブドウで作られたものとの説が一般的。このワインは2008年にフランスのソムリエのワインコンテストで他の高いワインを抜いて1位になった経緯がある。
*フランシス フォード コッポラ:1)ディレクタースカット、いろいろなブドウ畑から集められたブドウから造られていて味が安定している。2)フランシス コッポラ シャドーネ、フランシスのダイヤと呼ばれていて価格は10ドル程度。濱さんお勧めのワイン。3)サンティ、ヨーロッパ風に造られたワイン。4)スパークリンワイン、これはコッポラが娘の結婚式のために造られたワインだが、その後、娘は離婚してしまったので、離婚ワインと言われている。味は爽やかで美味しいが、結婚式のお祝いには使えない(笑)。
*ルビコン エステート ワイナリー:コップラが持っているが元はGustave Niebaum, Inglenookのワイナリーだったので、コッポラは歴史上重要なワイナリーを持っていることになる。
*ロバート モンダリー ワイナリー:ここのワインには多くのシリーズがあり、サイズの小さいものは安いが、大きいものは100ドル~150ドル程度する。このワイナリーが有名になったのはワイン製造の技術革新を行った事と世界中にカルフォニアワインを広めた第一人者である事と言われている。
*オーパス ワン:コップラとフランスのバロンドフィリップとの共同で造ったワイナリー。
*オーバチャー:80ドル程度ではあるがオーパス ワンより美味しいのではないかと言われているワイン。いろいろなブドウを使っているので味が安定している。
*スクリーミング イーグル ワイナリー:カルトワインと言われる高級ワイン。1992年にリリースされ、オークションで1本5000万円の値段が付いたと言われている。現在では生産量が増えているので、一本1500ドル程度から売られている。
6.価格当てティスティング:
講演の最後に、数人が前にでて、3種類のワインがグラスに注がれたのをどれが一番高いかというテステイングをしたのだが、320ドルの一番高いのを当てた人は一人もいなくて、30ドル10ドルのものを一番高いと判断した人ばかりであった。
このことからも、高いから美味しいとはいえない。飲む人の好みによるということになるので、個々の好みに合ったワインを選べば良いとの結論で講演が締め括られた。
濱氏の講演資料をご覧になりたい方はここをクリック:https://drive.google.com/file/d/0B1scdJVhAJdjanA5OXROaWkzNzA/view?usp=sharing

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2011年度 10月 - 日系コミュニティー誌のこれまでとこれから ~読者から求められる情報誌作 り~

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2011年度 10月 - 日系... 2011年度 10月 - 日系...
日時: 2011年10月12日(水)、6:30PM - 8:30PM
会場: ニューガーディナ・ホテル
講師:込山洋一(こみやま よういち)氏, 川嶋達也(かわしま たつや)氏
講演録担当:藤原 勝
講師略歴
込山洋一(こみやま よういち)氏
ライトハウス 代表取締役社長 CEO ライトハウス・キャリアエンカレッジ 代表取締役会長 香川県高松出身。弓削商船高等専門学校航海学科卒業。1986年、卒業と同時に渡米。飲食店勤務、学習塾経営を経て、89年に現在のライトハウスを創刊。2011年1月に創業(創刊)23年目を迎える。現在はロサンゼルス版とサンディエゴ版、ハワイ版の3版を発行。またライトハウスCE(キャリアエンカレッジ)は、京都を拠点に日本全国の大学や専門学校に海外研修プログラムを提供している。
川嶋達也(かわしま たつや)氏
ライトハウス編集長 岐阜県出身。高校卒業後、1991年に大学留学のため渡米。ニューヨーク州立大バッファロー校、アーバイン・バレー・カレッジを経て、カリフォルニア大学バークレー校に編入。ランドスケープ・アーキテクチャー専攻で学士号取得。99年7月にライトハウス入社。編集部所属となり、副編集長を経て、現職。アニメ、マンガ、お笑いなど、日本のポップカルチャーが趣味。
講演内容
講演は司会役のTJS ラジオの佐伯氏とライトハウスの込山社長及び編集長の川崎氏の間で質疑応答の形で進められた。以下はその内容の概要である。

■最近のライトハウスは誌面に活気とか力強さを感じる。その理由は?
-8月15日発行の部からライトハウスの編集部が独自で書いている編集記事をカラーにした。今まで制作者を表面的出す事は控えていたが、紙面のカラー化に伴い制作者の顔が見える記事を提供する方針に変えた。
■他社と比較して、ライトハウスの特色はどんなところでしょう?
-自社記事主義(one and only)を守っている。買った記事、訳した記事はやがて淘汰される。移民や駐在、在住者の視点で記事を書く事に重点を置いている。
-モニター、アンケート、グループインタビュー、見えないところに時間とパワーとお金をしっかりかけている。3年に一度3000人を超える人からのアンケートを取り、またモニターさんからの意見を取り入れ改良に務めている。広告主の中に読者がいるのではなく、読者の中に広告主が有ると読者の支持が得られ、広告主の支持を得ることに繋がる。
-3つの編集方針(課題解決、勇気元気、うるおい):移民、駐在、留学生が困っている事の課題解決、外国暮らしがために経験する厳しい事、辛い事を乗り越えられるような勇気や元気を与える、食事や旅行記事でうるおいを与える、を自分達の存在意義としている。
■ライトハウスの全体像について/ビジネスモデル紹介(自己紹介も)
込山社長談:
-外国航路の船長になる夢があった。
-商船学校を卒業後に渡米(86年)。キッカケは航海実習でのロングビーチ寄港。
-アメリカが気に入り、船を見学に来た日系人に片っ端からアメリカで働きたい事を訴えた。
-後日、レストランでの仕事の申し出に飛びついた。
-商船学校を卒業と同時に渡米。
-レストランでの仕事は6ヶ月続けたが外部からのインプットに乏しい事に疑問を抱き、辞職。
-アメリカで起業したいとの夢を叶えるため学習塾を始めた(87年)。その利益を原資に世界最大の日系社会を持つロサンジェルスで日本語情報誌を起業(89年)。
-当時26の競合他社があったが、最初は4ページのガリ版程度から始め、なんとか発行数を増やそうと、読者に“読んでもらえる情報誌”、広告主には“広告効果が有る”情報誌を目指し、改善を重ね続けている内に現在のようになった。

■ライトハウスの業務内容は?
-大きく分けて、日本語情報誌、マーケティング(広告代理店)、教育事業。
-日本語情報誌:日系社会にリーチしたい日系、米系、中国系、韓国系企業などの広告によって成り立っている。
-マーケティング:現在アジア系米国人が主体となり、他のアジア系情報メディアとの相互協力体制を作り、アジア系企業が日系や米国マーケットに進出するための手伝い(例、広告、イベントなどを顧客の要求に合わせて制作、提供する。)や、逆に日系企業が他のアジアマーケットにリーチするお手伝いを行う。
-教育事業:若者に何かを伝え、教え、やる気に火を付ける事が目的。日本の若者が海外に目を向け、活躍できるようにする教育プログラムを作り提供したい。現在日本の約70校の大学や専門学校からの学生向けに2~3週間の研修プログラムとして、当地の日系企業などに書生のような形で受け入れてもらっている。
■社員教育に力を入れている。具体的には?
営業担当者の声:
-毎週水曜日の始業時間前、30分が社員の勉強会になっていて、企業経営に関する勉強は勿論だが、人間としての原点に立ち帰り、社員の人生に役立つような正しい判断の仕方や道徳に関する事なども勉強している。社員教育に関しては教育事業のバックグラウンドがあるのでぬかりなく行われている。
編集担当者の声:
-今年ライトハウスの紙面が変わったのは、組織が変わったからだと思う。今までの組織はブラジルサッカーのような個人技によって運営が支えられて来たが、組織が大きくなるにつれ個人技に頼るのではなく、チームプレイで動く会社作りを目指すように社員教育を行うようになった。
込山社長の声:
-自分も社員と一緒に勉強しているのが現状。幾つになっても成長し続ける自分でありたいと思っている。
-社員においてはライトハウスを辞めて外に出ても、どこでも役立つような人材に育て、お天とう様に恥かしくない会社作りを目指している。
-ライトハウス経営以外からのインプットとしては毎月参加している盛和塾(稲盛和夫氏から学ぼうと自主的に集まった経営塾)で学んだ事を社員教育にも反映している。
■編集制作の現場の難しさは?
-近年の若い日本人には活字離れが進んでいるように思える。一昔前のように何か日本語が書かれていれば読んでもらえる時代は去った。現在は世界中から情報が入ってくるインターネットのようなメディア媒体と同じ土俵での競争なので記事の中身が問われる。今の時代に合った中身作りを研究している。
-興味の有無に関わらなく読んでもらえる記事作りに努力している。
-日系社会も高齢化が進んでいて市場は早いスピードで変化している。
-読者対象としていた新規渡米者の人口割合が減少気味で、永住者を対象にした記事を重視しなければならないように変化している。
-同業他社やテレビ、インターネットなどの情報メディアとの競争が不可避の中でライトハウスとしての価値、存在意義を読者に見出して貰うには、他のメディアからの記事を買い入れるのでは無く、自社制作の記事(one and only)を出す事で独自性を出すようにしている。
■今後のライトハウスの誌面作りについて
-時代に合わせて素早く変化して行く事が大切。良いものは壊さずそのまま続けるとの考え方もあるが、現在はニーズに常に対応して行かなければ雑誌に限らず淘汰されてしまう運命にある。
-ビジネスは下りのエスカレータに乗っているようなもので、その場に立ち止まっている事は後退する事であり、常に下り以上の速さで上に昇る努力を怠れない。

■インターネットメディアと紙面に関して
-ライトハウスの紙面そのままを電子化するのではなく、動画などを取り入れて異なるメディア媒体にしたい。
-紙面であるがための有利性、インターネットメディアであるがための利点などを見極めながらそれぞれの特徴を生かせて行きたい。
■今後の抱負
-メディア、インターナショナル・マーケティング、国際教育事業の3つの分野で唯一無二の価値を創造し続け、アメリカを代表する企業になる事。
-単に広告代理店でなく、顧客への投資やパートナー探し、販路開拓まで踏み込んだパートナーシップで(商社、eコマース、広告代理店、小売業)どこにもカテゴライズされないまったく新しいビジネスモデルを創造したい。
-日本ではなく、小さくてもその分野で圧倒的に強いアメリカを代表する会社になりたい。
-事業を通して、世界中で個人や企業がより活躍できる世の中を創る。
社是「アメリカに暮らす人、目指す人、アメリカでの成功を志す人と起業の灯台となる」

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2011年度 9月 - 成るようになるが 宜しく候。

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2011年度 9月 - 成るよ... 2011年度 9月 - 成るよ...

日時: 2011年9月14日(水)、6:30PM - 8:30PM
会場: ニューガーディナ・ホテル
講師:トシコ ムトー氏
講演録担当:藤原 勝
講師略歴
日本で、23歳~31歳まで 8年間、漫画「小さな恋人」を週刊「女性自身」に連載。ピーク期には、週刊、月刊、新聞、コマーシャル誌、テレビなど、25社以上をこなす。 アメリカで、1974年~1982年、8年間、ウオルト デズニー社に勤務。 1974年~1975年、「ストーリー スケッチ アーティスト」として、アニメーション映画の脚本を描く。 1975年~1982年、「ショーデザイナー」として、フロリダのデズニーワールドの日本館のイメージデザイン。デズニーワールドの模型製作。エプコットセンターのイマジネーション館の円形ホールに、高さ17フィート、全長135フィートの壁画デザイン。 日本デズニーランドの第1回目の漫画様式の地図作成。
講演内容
漫画家トシコ ムトー氏の講演会は参加者で満員の会場で行われた。彼女の高い知名度と人気が覗われるものであった。講演は今までの彼女の人生についてのお話であったが、特殊な才能を待たれた方だけに、その生き方も人並み外れたものがあり、聞く人の心を講演の最後まで惹きつけて止む事は無かった。







また、講演の最後に、最近亡くなられたシシリー島出身の弁護士の夫のために彼女自身が描いたシシリー島の港町の絵を映画“ゴッドファーザー”の音楽を流し、スライドで写しながらサミエル マルマンの詩の一節を朗読して講演を締めくくられたのにも、彼女の生き方が表れているように思えた。そのサミエル マルマンの詩とは;






青春とは
人生のある期間を言うのではなく、
心の様相を言うのだ
すぐれた想像力
たくましき意思
燃ゆる情熱
臆病をしりぞける
勇猛な心
安易を振り捨てる
冒険心
こういう様相を言うのだ
年を重ねただけで人は老いない
理想を失う時に
始めて老が来る

トシコ ムトー氏の講演内容の詳細は、彼女から頂いた講演資料をそのままお読みください。ここをクリック:https://drive.google.com/file/d/0B1scdJVhAJdjUzBvOTl4Q0pPQnM/view?usp=sharing
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