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サウスベイ マネジメント セミナー( Southbay management seminar )は月一回のセミナーを中心に勉強し、時々に親睦をする、乃ち「よく学び、よく交友する」そのような会です。

2012年度 3月 - 日米名前の由来

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2012年度 3月 - 日米名... 2012年度 3月 - 日米名... 2012年度 3月 - 日米名... 2012年度 3月 - 日米名...
日時: 2012年3月14日(水)、6:30PM - 8:30PM
会場: ニューガーディナ・ホテル
講師:後藤英彦(ごとう よしひこ)氏
講演録担当:内藤喬生

講師略歴
1964年時事通信社入社。旧通産省、旧農林省、旧大蔵省を担当後、ロサンゼルス 特派員。 本社海外部次長、途中退社して盛岡大学客員教授、評論活動。2度目の来米で日米ジャーナリスト会議とジャパンジャーナルを主宰。 講談社系、エルネオス誌、ビジネスフロンテイア誌を中心に寄稿中。 主著に「日本をダメにした官僚の大罪」(講談社)。毎週水曜日付、日刊サンに「後藤英彦のぶっちゃけ放題!」を連載中。 中大法学部法律学科卒業。福岡県北九州市出身。
講演内容
本題から少し逸れているが、講演の中で出た話
1 現在NHK で放映されている『平清盛』の中に登場する西行は本当の西行の姿を表現していない。
芭蕉が『奥の細道』を書くに至ったのは、芭蕉が西行の影響を受け、西行のように旅する気持ちになったからである。短歌と俳句の違いはあるが、二人の心の中に流れる共通のものがある。
2 カッパという言葉の由来
織田信長や豊臣秀吉は新しもの好きであった。信長はポルトガル人がもってきた外套を気に入り、何着も買っている。そのうちの一つを上杉謙信にプレゼントした記録が残っている。外套のことをポルトガル語で、「カパラ」、「カパ」と言い、それが「カッパ」となった。国定忠治の「かっぱーからーげて、三度笠」ではないが、このカッパという言葉はもともとポルトガル語であった。
3 天皇の起源
後藤氏は天皇家の起源について江上説を紹介した。天皇のもともとの起源は現在のハルピン松花江流域平原にいた扶余系騎馬民族であるという説。
講演の主な話
①名前(姓)の一番多いのは米国、2位は日本
②アメリカの名前で一番人気のある名前は、ジョーン・スミス。
ジョーンは聖書にでてくるヨハネに由来し、スミスは鍛冶屋を意味する。
中世の騎士の兜、剣、槍,矛などは全て鍛冶屋で作られた。それに馬の蹄につける蹄鉄、農具なども鍛冶屋で作られた。ということから中世の鍛冶屋は当時の大企業であった。
*ドイツでは鍛冶屋のことをシュミットという。ヘルムート・シュミット第5代ドイツ連邦首相(在任:1974年-1982年)は有名。
*ポーランド系ではヤーン・コバルスキー(ヤーンはヨハネ、コバルスキーは鍛冶屋の意味)という名前がある。
*ハンガリー系でもヤノーシ・コバァーチという名前があるが、ハンガリーでは、姓と名を逆にしてコヴァーチ、ヤーノシュ という(ヤノーシがヨハネ、コヴァーチは鍛冶屋)。
*ヤンキーとは、もともとアメリカではオランダ人の蔑称であった。ヤンはヤーン(ジョーン)からきていて、ヨハネの意味。キーとは、はやし立てる、愛称、蔑称につかわれ、「ジョーンの馬鹿たれ」、つまり「オランダ野郎」のような使い方をしていた。南北戦争当時、アメリカ南部で北軍の兵士、北部諸州人を軽蔑する呼び方が「Yankee」であり、のちに「ヤンキー」をアメリカ人全体をさす言葉になった。
③人類のルーツ(アメリカに多くの移民をだしているブリテン島の人々の名前に触れるための布石)
人類のルーツは20万年前、アフリカのタンザニアのビクトリア湖あたりの平原に住んでいた女性であると人類学者は唱えている。現代人のDNAに共通するものが、この女性から引き継がれている。10万年前に今の中東のチギリス・ユーフラテスあたたりに移動した(チギリスという言葉は「川と川の間」という意味)。そこからヨーロッパとアジア方面に別れた。
ヨーロッパは太陽の光が弱く、メラニン色素の関係で黒い肌が白い肌に変わった。2000年ぐらいで黒から白に変わると言われている。また白人の鼻が高いのは、冷たい空気を直接肺に入れるのを避けるために、鼻の部分で空気を貯めるようにした。そうすると鼻に炎症を起こし、高くなったという(これらの説明は後にでてくる、ケルト族、ゲルマン民族、ノルマン民族のもつ名前を説明するための布石)。
アジア方面に移動した人類は背が低くなった。寒いヒマラヤあたりに移動した人類は寒くて目玉を保護するために目を閉じた状態にした。そのために二重が一重になったという。
4.オバマ米国大統領の名前の由来
オバマ大統領のフルネームは、バラク・フセイン・オバマ・ジュニアである。この名前から奴隷の出自でないことが分かる。先祖が奴隷出身なら、それが分かるアフリカ姓を名乗らないからである。バラクは、スワヒリ語で、「祝福」を意味する「バラカ」に由来する。「オバマ」はアフリカ・ルオ族の姓で、「曲がった」といういう意味の形容詞だという。「オバマ」姓を最初に名乗った曾祖父の脚(もしくは腕)が、風土病か事故で曲がっていたのではないか。「フセイン」は「ハンサム」を意味するアラビア語で、イスラム教のシーア教徒に好かれる名前(姓もある)。
5 プリトン(ブリテン)島内と民族の興亡と名前
グレートブリテン島は、政治的に見ると、グレートブリテンおよび北アイルランド連合王国(イギリス)の構成要素であるイングランド、スコットランド、ウェールズの3つの「国」からなる。
ブリテン島の歴史を見るとき、日本の歴史と比べると分かりやすい。
紀元前9000年の日本は無人島であった。上智大学の鬼頭教授によると、紀元前8000年に約2万人。
紀元前8000年ころから紀元前3世紀ごろまで日本に住んだ人々を縄文人といい、それ以後に住んだ弥生人と区別する。縄文人はアイヌ人で、弥生人は主として大陸から海を渡ってやってきた人々である。いわゆるノースマンである。梅原猛は縄文人を有毛人、弥生人を無毛人と呼んでいる。弥生人は縄文人を北と南に追い込む。アイヌ人は毛深い人々である。東北人や九州の南、鹿児島あたりに毛深い人が多いのはそのためであろう。
ヨーロッパでも同じことが言える。太陽の光の乏しいヨーロッパ。ゲルマン人はその中の住みやすいところに住んでいたケルト人を追い出して自分たちがそこに住み着いた。ケルト人は日本でいう縄文人。ゲルマン人は弥生人。両者は異人種の関係である。
追われたケルトがブリテン島やフランスのブルターニュ、アルプス地方へ逃げ込んだものと思われる。ブリテン島にケルトを追ったのがドイツのアングル地方にいたサクソン人。サクソン人はケルト人をスコットランドとアイルランドに追い出し、住みやすいイングランドに住み着いた。イングランドはサクソン人の郷里、アングルにちなんだ名前である。
ゲルマン人はサクソン人、ジュート人、ゴート人などドイツを中心とした西ヨーロッパに住んでいた流れと北ヨーロッパ、今のノルウエー、スウエーデン、デンマークに住んでいたノルマン人とに大別される。寒くてものがないので西ヨーロッパの町々を略奪したヴァイキングである。ヴァイキングとは入り江の住人の意味。北欧に入り江が多いので自らヴァイキングと名乗ったのでだろう。
人類学の法則に寒冷地帯で進化した人間は長身になり、南方の暖かい地帯で進化を遂げた人間は短身になるというのがある。寒冷地帯出身のノルマン人が長身で、ノルマン人の血を引く英国の貴族が平均よりずっと高いのも納得できる話。飛び道具のなかった当時は体力がものをいう。頭ひとつ高いノルマン人は一人で三人の敵を相手にできたそうだ。
整理する。ヨーロッパの人種の潮流は三つ。ラテンとゲルマンとケルト。ケルトはゲルマンによって衰退し歴史の主要舞台から姿を消す。ケルトとラテンは混血する。その典型がフランス人。イタリアから移住したローマ人とケルト人が混血したのがフランス人だが、ノルマンジー地方のフランス人はノルマン人だからフランス人の典型ではない。
かつてアラン・ドロンという長身の美男子俳優がいたがこの人はノルマン人の血を引いていると思われる。ただしアランというファーストネームはケルトに多い名前。ケルトとノルマンの混血かもしれない。ヨーロッパの古代やローマ帝国を建てたラテン人については時間がないので、今回の講演では触れなかった。
グレートブリテン島の名前の由来
グレートブリテン島の名前の記録は、最古のものとしては、紀元前6世紀頃のカルタゴ人航海者の記録にあるアルビオンである。その後、紀元前4世紀のギリシャ人商人の航海記にあるプレタニケから、現在のブリテン諸島を指す言葉としてブリトニという呼び名が生まれ、次第に定着して、その最大の島であるこの島がラテン語でブリタンニア(Britannia)と呼ばれるようになった。
ブリトン人(Britons)は前1世紀頃からローマ共和国、ローマ帝国、アングロ・サクソン人の相次ぐ侵攻を受けて、その一部がフランスに逃れる。フランスではブリトン人の住むようになった地域をブルターニュ(Bretagne; ブリタニアのフランス語形)と呼び、本来のブリタニアをグランド・ブルターニュ(Grande-Bretagne; 大ブリタニア)と呼んで区別した。これが英語に輸入され、英訳された形のグレートブリテンという地名が定着する(ウイッキペディアの記事の抜粋)。
原始ケルト人は1万8000年前(?)に生存していた。その当時の人の名前は分からない。その後にブリテン島にやってきた人を移住ケルト人(アングロサクソン人も含めて)という。その人たちは後のノルマン人の侵入により、北部、スコットランドに追いやられた。名前に、アーサー、ドナルド、ケビン、ケリーなどがある。Mac、Mc、M、Oを頭につけるものもその特徴。
マクドナルド(Mc Donald)のMc は息子という意味で、ドナルドの息子。マッカーサーはアーサーの息子になる。メジャーリーグで70本のホームラン記録 をもつマーク・マクアイヤーはMcが頭にきて、ガイヤの息子ということになる(マクアイヤーという姓はスコットランド系というより、アイルランド系)。
ブリテン島の歴史
紀元前265年ごろより、ヨーロッパ大陸よりケルト人の渡来が始まる。
• 8世紀終わりごろより、ノルマン人(ヴァイキング)が侵入。
• 1014年アイルランド上王 (High King) ブライアン・ボルー(Brian Boru、ブリアン・ボルーとも)がクロンターフでヴァイキングを破り、これ以降ヴァイキングの侵入が収束。
• 1169年ノルマン人の侵攻が始まる。1171年には、諸豪族がイングランド王ヘンリー2世の支配下に下る。
• 1541年イングランド王ヘンリー8世がアイルランド王を自称する。これ以降、イングランドからの入植者が増える。しかしアイルランドの貴族はこれを認めずヘンリー8世と対立した。正式な移民は護国卿となったクロムウェル以降。
現在のイギリスの王室は、1169年フランスからブリテンに侵攻したノルマン人の子孫である。
6 ギリシャ・ローマの影響を受けた名前
アレキサンダー、アンソニー、ジェイソン、ダイアナ、エミリー、ジュリアなどがある。ダイアナ・フランセス・スペンサー
妃のダイアナは、ギリシャ・ローマの名前で、スペンサーはフランスのノルマン人の名前。
アングロサクソン人(ドイツ系)の名前
アングロサクソン人はドーバー海峡を渡りケルト人を北においやった。この人たちの名前の特徴として3つ挙げられる。①父親の名前+son、②種族の地名+ton、③名前を二つ合わせる。
この人たちは後ノルマン人によって北へ追いやられた。これらの名前はスコットランド系、アイルランド系ということになる。
①の例:ジョンソン、アルバートソン、ジェーソン、エジソンなど。
②の例:ワシントン、ニュートン、クリントンなど。tonとはtownのことで、町の名前である。townは柵を意味する。クリントンのクリンは丘を意味する。またワシントンのワシンは、今のロンドンの北のあたりを指す。
③の例:妖精を意味するアルファ+王を意味するエドを合わせて、アルフレッド。神の意味のオズと力を表すワルドを合わせて、オズワルド。
7 ノルマン人の名前
ルマン人とは「北から来た人」「ノースの人」という意味で、バイキングである。ヨーロッパの歴史はバイキングの侵略の歴史であった。バイキングは勇猛でヨーロッパ各地を荒らし回っていた。フランスにもやってきて、セーヌ川と遡って略奪の数々をおこなっていた。フランス王はあまりにもその獰猛さに耐えかねて、フランスの一等地をノルマン人に与え、おとなしくするように懐柔した。その最初の王がロロ(ロベール王)(911年)である。その後3代,4代は何とか静かに過ごしていたが、もともと勇猛な民族であるので、じっとしておれない。ついに、ブリテン島への侵略をおこなった(1169年)。この侵略者が現在のイギリス王室の先祖である。ウイリアム一世とかヘンリー王はノルマン人の名前。その他、ロバート、リチャード、スペンサー、アリス、マチルダ、オードリーなどがある。現在の王室の、ウイリアム王子、その弟のハリー(ヘンリー)のことが頭に浮かぶ。
アングロサクソンは大衆として広くイングランドに住みついた。彼らの上に君臨したのがノルマン人。伝承小説「ロビンフッドの冒険」などはイングランドを乗っ取ったノルマン貴族を悪者に仕立てた、アングロサクソン人からみた物語。 北へ追われたのはケルト人で、彼らはのちにスコットランド人と称された。ケルト人を北やアイルランドに追ったのはアングロサクソン人。
ブリテン島の歴史において1066年はとても重要。この年にアングロサクソン人とフランスのノルマンジーからやってきたノルマン人とが戦争をした。その戦争が「ヘイステイングの戦い」という。これにノルマン人が勝ったので同年12月にノルマン王朝を樹立した。ノルマン兵を率いたギヨーム2世がウイリアム1世として戴冠式に臨んだ。ノルマン人は一般のアングロサクソン人を追い出さなかった。追い出しの対象になったのはアングロサクソン貴族であった。彼らの身分・土地・財産を没収して、有力な部下を貴族に昇格させ、働きに応じて没収した土地などを与えた。ダイアナ妃のスペンサー家もそのひとつである。
8 中世の職業を名前にしたもの
アーチャー(弓つくり)。カーター(馬車職人)(記録者の師であるカーター先生の父親はユタ州で運送業をおこなっていた。馬車職人と運送業と関係があるのであろうか?)。クーパー(樽、桶職人)。スミス(鍛冶屋)(これについてはもう述べた)。チャップリン(礼拝堂の牧師。チャップとはチャペルと音が似ている)。ベイカー(パン屋)。
9 聖書、キリスト教由来
デイビット、スティーヴン、ポール(パウロ)、マーク(マルコ)、アダム、マイケル(ミカエル)、クリストファー(クリストフォロー)(キリストに従う人という意味なのか?)、フィリップ(ピリポ)、ピーター(ペトロ)、ジョン(ヨハネ)、トマス、エブラハム、マシュー(マタイ)、サラ、エリザベス(エリザベト(聖母マリアの母親の名前))、メアリー(マリア)
10 あだな
ロングフェロー(長身)、ブラウン(褐色の皮膚)(現在のカリフォルニア州知事の名前)、リード(赤色の皮膚)、ケネディ(醜い頭)(ケネディー家の先祖は1850年アイルランドから移住した)、キャメロン(曲がった鼻)(わし鼻のことであろう)(映画『タイタニック』の監督の名前がこれだったはず)。Do-Little(怠け者)(『ドリトル先生航海記』のドリトルは Do-Littleからきている)。
11 虐げられた者の名前
ユダヤ人
◎ユダヤ教、旧約聖書、神職((モーゼス、ソロモン、アイザック、コーヘン、コーン、カーン、コーガン、カツツ、ラビン(ユダヤ教の最高の指導者のこと))
◎ヨーロッパのユダヤ人の多くは、姓を持たなかった。ナポレオンが徴税のため姓を名乗らせた。ドイツは18世紀後半、オーストラリア(1787)、ポーランド、ロシアは1795~1815年に名乗りを強制した。
◎美しい姓は当局に金を払わねばならなかった。Rosenberg(バラ山)、Golodberg (金の山)、Blimental (花の谷)。
  ◎一般人は、Lang(高い)、Klein(低い)、Grosss(太い)、Schneider(仕立屋)、Silverman(銀細工人)、 Kraufman(商人)。
◎貧乏人は、Chllowsrope(絞首台のロープ)、 Eselkopf(ロバの頭)、Taschenrieb(スリ)
アフリカ系黒人
◎地名(ブルストル、ヨーク)(奴隷貿易港の名前)
◎皮肉、ひやかし(ビッグ、ファット、オールド、ロフテイー、トムボーイ、キング(キング牧師)プリンス、マリンダ、シンシア、サリー)(奴隷貿易商人が適当につけた。逆につけたのが多いという。小さい男をビッグというように)。
◎奴隷解放後に黒人自ら選んだ姓(ワシントン、ジェファーソン、ジャクソン、スミス、ウイリアム、ブラウン、ジョーンズ、デイビス)(奴隷解放前、大統領は200人、300人の奴隷を所有していた。ところが、大統領ともなると、奴隷を酷にあつかわなかった。ワシントンの場合、「奥さんが亡くなったあと、奴隷を自由の身にするよう」遺言している。このようなことから、黒人の姓に大統領の名前が多い。大統領名を名乗っているアメリカ人の9割は黒人であるという。
電話での後藤氏の話
*レーガン大統領のレーガンはケルト系のアングロサクソン。レーガンは「小さい国の王子」という意味。エジソンはスコットランド系。スコットランド系のアメリカへの移住者はアメリカ全体からすると少ないが、レーガンを代表するように、結構立派な人が多い。
  *ビートルズの4人のメンバーすべてがケルト系。ケルト系の特徴として、赤毛で、体が小さい。
*アイルランドはブリテン島のなかでも早い時期に(3世紀だったかな?)、聖パトリックによるキリスト教の布教がなされた。 聖人聖パトリックの命日、3月17日をカトリックにおける祭日であり、アイルランド共和国の祝祭日である。
*アルルランドでの主食はジャガイモであった。天候異変でジャガイモがとれず多くの餓死者がでた。餓死を逃れるためにアメリカに移住した人が多い。
日本人の名前
四囲を海で囲まれてた日本人は太古に遡ればみんな親戚。
日本西暦9000年前は無人島。
西暦8000年前2万人(紀元前3500年前ごろはメソポタミア文明が栄えた)
紀元前2000年―紀元300年60万人。
聖徳太子の頃350万人。
鎌倉幕府684万人、明治維新1227万人。
綱吉3128万人、明治維新`3330万人。
新撰姓氏録(815) 賜姓族―― 源、平、橘、清原、藤原、物部、大伴、蘇我、葛城、 吉備 渡来系―― 秦、東漢、坂上、丹波、長宗我部、大内 ●源氏18流(家格は村上源氏。幕府を開いたのは清和源氏。  嵯峨源氏、宇多源氏(近江源氏の佐々木)●藤原4家のうち房前の北家が平安の摂関政治、鎌倉時代に近衛、  鷹司、九条、一条、二条の5摂家に。支流に三条、四条、西園寺   花山院、中御門 ●北家から藤原利仁、藤原秀郷が武家に下る②京都に一握りの貴族。  源氏18流や藤原北家から武士に下った○藤の一族が全国に。
*現在例えば藤原姓を名乗っている人で、上記の藤原氏を直系とする先祖である人は、ほとんどいないと考えてよい。あえていうならば2%以下。その2%に入っているような家は、300年以上の前の苔むしたる墓が現存し、寺の過去帳に少なくとも7代遡って記載されているような家。
藤原には大きく分けて二つの流れがある。貴族の藤原と、貴族という身分を捨てて武士になった藤原がある。後者のばあい、A)藤原の内の武者 B)天皇の警護に当たった内舎人(うちとねり)の役職にいた藤原がいた。西行になる前の藤原義清も藤原秀郷の流れで、天皇の警護に当たっていた。義清は天皇の近辺に仕えていたので「北面の武士」という特別の名称で呼ばれていた。平家武士を率いた平清盛も「北面の武士」であった。武士・藤原は今でいう知事、副知事、県警本部長になって地方へくだり土着した。源氏武士、平家武士とも交流があった。九州の藤原は平家に加担していたようだ。武士の三つの本流である藤原氏、源氏、平氏が威張れたのは室町時代まで。すっかり貴族化した藤原など三流の殿様は部下に寝首をかかれたり、だまし討ちにあったりして歴史から消えた。いわゆる下克上の戦国時代の到来であった。
*○藤の場合:後藤は肥後の藤原氏。貴族から武家に下った藤原の始祖は藤原利仁と藤原秀郷の二人。◯藤を名乗る源流はこの二人から来るといわれている。後藤は利仁から来ている、内藤は平将門を破った武家・藤原の名を高めた藤原秀郷の流れ。
藤原XXという武人が平安期に九州を統括する大宰府に赴任した。藤原XXは大宰府長官であった(?)。この人の子孫が九州に土着した。その有力者の一人が肥後の豪族になり九州一円に勢力を張っていた菊池家、阿蘇大神宮と深くかかわりを持つ。3家の家紋は違い鷹の羽紋。別の流れは後世、佐賀の大藩・鍋島家と姻戚関係に入り武雄城主になり、本家は鍋島を名乗り、分家が後藤姓を後世に残す。
加藤は加賀の藤原氏。
●中世日本人のほぼ全部が姓を持っていた(洞富雄早大教授)。
   武家Sは家来に自分の姓Sを授けた。
 領内の名主、農民の上・中流農民にもSを名乗らせた(苗字帯刀)。  後世、本流のSはどれかわからなくなった。
  4公6民の千石取り武士の場合、400石を自分がとり、600石を農民に与えた。江戸初期の1石は今の10万円(鎌倉、室町時代のことはよくわからない)に相当したから、400石は4000万円。このクラスだと武家諸法度等で17,8人の部下を常時抱えていなくてはならなかった。主な部下は日本差し(いわゆる武士)のほか足軽、中間(ちゅうげん)などがいた。
このなかで武士Sに忠勤を励む者を選んで自分の姓Sを授与することがあった。直接の部下だけではなく、現場(田畑)の総責任者(庄屋、名主、百姓代表など)などの中のお気に入りにも名前を与えた。武士は基本的に貧乏あったから、自分の名前や家伝の茶器、刀、名字帯刀の名誉などを与えて配下の人間の心を繋ぎとめていたようだ。
<ここからは、新たに、後藤氏から送れれてきた興味のある話が追加されている>
一般農民は住所や田の地名を姓に
●浪人は仕官の折に源平合戦等で活躍した加藤、熊谷といった姓を  名乗ることがあった。
江戸時代、姓を持てたのは貴族、武士と特別階級だけで、全体の5,6%に限られていた。ところが洞富雄、元早大教授らの研究によると農民も姓をもっていたことが証明された。東京・江古田の氷川神社の造営奉納取立帳(1846年)には、全村85件の戸主が整然と姓名を書き連ねてあった。長野県坂北村の碩水再建の奉加帳(1783年、1816年)や栃木県新井村の医土山浄光院の寄進帳(1870年)でも、全員が姓名を書き連ね、名前だけの例はひとつもみられなかった。
宗門人別帳や、藩に差し出す公文書には名前だけが通例だが、仲間内や私文書には姓名を書くのが通例だった。
●明治政府は徴税、徴兵のため、平民苗字許可令(1872)、平民苗字必称義務令(1875)。(平民苗字許可令では、苗字を申しでる人が少なかったので、そのあと明治政府は義務として強制した。農民にとって、苗字をつけることはそれほどメリットのあることではなかった。徴税や徴兵を避けたかったのである。しかし強制されたので、しぶしぶ私称の姓を公にした、姓を名乗る地盤(田畑など)のない最下層やホームレスは、掘っ建て小屋の地名を名乗ったり、周りの物知りに頼んで名前をつけてもらったりした)
農民、商人、私称していた姓を表に出す。姓を持たない者は勝手に姓をつけた。
日本人の名字の9割は地名。 名字トップ20は 佐藤、鈴木、高橋、田中、渡辺、 伊藤、山本、中村、小林、斉藤、 加藤、吉田、山田、佐々木、山口、 松本、井上、木村、林、清水の順。
  「子」の意味 中国・春秋戦国時代(紀元前770~同221)のころからの男性に 対する尊称、 先生。 孔子、孟子、聖徳太子、小野妹子。 のちに貴族、上流の女性の名前に。 紫式部は香子、父親は藤原為時。清少納言は諾子(なぎこ)、 清原元輔。
*本家本流はほんのひとつまみ。本家本流と呼べる家は1、2%、あるいはそれ以下だろう。
*後藤家の家紋は逢い鷹の波紋。だからといって本流とは限らない(後藤氏の言葉)。後藤家の主人にあたる肥後の後藤家では、部下に姓、刀、家伝の品々、家紋などを恩賞として授けていたからである。恩賞として姓を頂いた部下の武家や金持ち農家は本家の許しを得て、さらにその姓を関係のできた人々に与えている(むろんゆるされないこともあった)。農民の場合、姓や家紋をもらっても正式に苗字帯刀身分になるのはたいへんだったようだ。地位によっても違いがあるようだ。苗字帯刀の身分になれたのは農民の5%あるいはそれ以下であったようだ(さらにリサーチの要あり)。
*戦国時代の下克上でこれまで大殿様であった武家は部下や隣家の陰謀などにはまって歴史から消えていく。そして天下を治めた新興勢力、信長、秀吉、家康の功臣が大名となり、戦国時代を生きながらえた名家が新興勢力の下に仕える。戦国時代まで大名だった吉良家が家康に仕えたのが好例。
*生活が苦しい武家のなかには姓や家紋を部下や金持ち農民(名主、百姓代表など)に売って窮乏をしのいだ者も少なくなかったらしいし。本当のところ、今となってはなかなかわからないが。姓と家紋が本流と同じだからといって、決して自慢はできない。家系図だってだませる。鎌倉時代からうその家系図を書く職業があって、金持ちの間では大変重宝がられていたとの記録もあるそうだ。
*むしろだませないのは菩提寺にある先祖の過去帳や墓や位牌である。過去帳で七代ぐらいまで遡ればおよその見当はつく。江戸初期の先祖の位牌があれば武家か農民かぐらいは分かる。墓は大きな墓地を都市周辺か大寺に持っていることが目安になる。独立した広い墓地に苔むした墓石十本ほども立っていて墓石に姓と名が刻んであれば武家あるいは名門庄屋の可能性大。明治になって成り上がった家のなかには地方にあった墓地をつぶして東京にもってきた例もしばしば見かけられる。
*それでもかつての墓を世話していたお寺さんに訊けば大体のことはわかる。名家ともなれば、先祖がお世話になっていた寺に、時代が変わって東京に出たからといって、まったく挨拶なしということはないと思われるからだ。毎年盆ぐらいには少々の送金をお寺さんにしている家の位牌はほとんど永久保存されていると聞く。むろん、場所をとるからコンピューターに保存しているケースもあるようだ。
*自分とは何者ぞやと問うとき、先祖を探るのは当然。そのとき、姓名が手がかりのひとつになる。過去をたどれない家系はあまり自分の先祖を誇りに思っていなかった結果だと考えるべきだ。誇るなら、下手な武家を先祖に持つより裕福な名主の家のほうだろう。千石取りに相当する名主は珍しくなかったという研究もある。たとえば五百世帯を束ね、配下に五十人の小作人を抱え、数百町歩の田んぼと山持ちの身分は武家の千石取りとは違う。年貢を払ったあとの千石は今のお金で1億円。毎年1億円の収入があるから、1日10万円、月に300万円使っても年出費は3600万円、1日20万円、月に600万円使っても年の出費は7200万円になる。1億円は使いきれず財産は膨らむ一方。おそらく所領5,6万石の大名に相当する生活ができたはず。
大名は参勤交代や江戸城改築費用その他で物入りであった。大名家族(5,6人)だけの出費が1日20万円以上という身分の大名家はそう多くなかったはず。その点、農民は違う。明治に入って地方の名士になるような家はほとんど名主クラスで閉められている。
*地方の名主などを先祖に持つ旧家出のなかには人の上に立つべく生まれ、人柄も容姿もよい人が多いようだ。金と環境がよいDNAを育てるのかもしれない。太宰治は名主(青森)の六男で、その典型のようだ。
*田中、中村、山本、山田などは農民の姓であるが、田中の場合、田の中心的なところに住んでいたということで、農民でも地位が高い家ということになる。
*井上は井戸の上という意味で、井戸を支配していたというので、力をもっていた家ということになる。
*渡辺も渡部も、同じ系統。船頭や橋を造る家であった。
*安倍はアイヌ系。阿部と関係があるのかは聞き逃した。
*紫式部と清少納言は身分は同じぐらいであった。二人は結構仲がわるくて喧嘩している。同程度だから喧嘩できたのだろう。
巨勢(こせ)という姓は、朝鮮から流れてきた一族ではなく、土着の豪族である。播磨風土記に巨勢の里のことが記述されている。
記録者の師である、ベンソン先生は隠れユダヤ人であった。先生のフルネーム、ジェローム、アーサー、ベンソン、バーインスタインのどこがユダヤ人の名前かと後藤氏に質問すると、「バーインスタインである」と答えられた。ウエストサイド物語の多くの歌を作曲したバーインスタインという人がいた。彼は指揮者としても有名。
以上
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