確かに、今や90歳まで生きられることは当たり前の時代になりました。しかし、自活できる状態であることには疑問が残ります。
統計資料によると、要介護認定を受けた割合は、40~65歳代は0.3%、75~80歳代は10%と低い割合ですが、85~90歳代50%、95歳以上はなんと70%の人が要介護の認定を受けています。
未だ人生100年時代には程遠い。ベストセラーとなった「70歳が老化の分かれ道」や「80歳の壁」を一読しましたが、本の内容は理に適っていて読む価値があります。特に、自分の健康を医療制度に丸投げしている人は是非読まれると良いでしょう。日本ほど、自分の健康を医療制度に任せる国民はいないと思います。日本の医療制度の素晴らしさは定評がありますが、日本の医療制度は、病気を予防するのでなく病気の発見、その治療に重きを置いていることであることを理解すべきです。つまり、健康は自分で管理するものだということです。特に、食事、運動、睡眠に気を配ってください。生活習慣を正せば、病気になる確率は低いのです。
殆どの病気の原因か悪しき自分の生活習慣です。みなさん、自分の健康は自分で管理しましょう!
私は、一日の食事で一番大切にしているのは朝食です。寝る前に、明日、どんな朝食にしようかと考えるほど朝食党です。そして朝食によってその日の自分の健康度をチェックしています。やはり、食べ過ぎたり、呑みすぎたりした翌日の朝食は美味しくありませんね。人間関係からくるストレスも朝食の味を損ないます。一年、365日、朝食を美味しく頂ければ理想的なのですが・・・・、生身の人間はそうはいきません。私は、毎朝、朝食が美味しく食べられたかどうか〇✕△でチェックして、✕が連続して3個以上続かないように努力しています。それだけで健康が保たれていると確信しています。
人間の体は実に良くできていて、体自身が毎日修復作業をしているのです。その修復作業を妨げているのが睡眠不足。食事、運動も必要ですが、現代人の一番よくない習慣は睡眠の質ではないかと思います。日本人は何千年も前から和食ですから、欧米食より和食に重きを置くことをおすすめします。
文芸春秋に以前、「最後の晩餐は・・」というコラムがありました。70%以上の人が、「最後の飯はおふくろが作ってくれた食事」と答えていました。もう一度、昔の食事を復元してみては如何でしょうか?ご飯、具沢山の味噌汁、梅干し、そして焼き魚と卵があれば最高!よく噛んで食べれば最高の朝食です。
食品は健康な体を維持するためのものです。ですから食品はみんなヘルシーであるべきです。いつからアンヘルシーになってしまったのでしょうか?
それはビジネスの観点からなのです。効率の良い生産による大量生産、また長持ちさせるための早い収穫などは食品の栄養価を考えていないからです。農薬、化学肥料、着色などの食品添加物、加工食品など、本来の食材の栄養素が欠ける食品だらけです。このような食品を食べ続けるとどうしても栄養素が不足します。そんな時、健康食品は大いに力を発揮します。ですから、賢く健康食品を活用することは現代人にとって必須と考えます。勿論、宣伝に騙され、健康食品一辺倒は良くありません。
何と言っても毎日の食生活を充実させることに尽きますから。
日本政府は、「国民の健康は政府が守る」という姿勢が強いように感じます。従って、ちょっとした風邪でも病院に行って医師に診てもらい薬を貰っています。「風邪かな・・・」と思ったら、体を暖かくして早く床につけば治るのに・・・。
薬に頼る人(特にシニア)が多いのに驚きます。保険制度で自己負担が少ないのも病院頼りを助長しているような気がします。もっと自己管理をしっかりすれば健康は維持時出来ます。日本の医療費は年々上がっています。このままではこの良き制度は維持できなくなること必至です。「自分の健康は自分で管理する」を政府は国民に行わせるように啓蒙すべきではないでしょうか? 病院に行けば、徹底して検査をして悪い箇所を探します。結果、再検査して病状を発見し投薬です。医師から処方された薬を摂っていない人を探すのが難しいほど、私の多くの友人は薬を摂っています。国民病と言っていたものを生活習慣病と名付けたのは聖路加病院の日野原先生でした。生活習慣病とは、医師が治す病気ではなく自分が生活習慣を正せば治せる病気であることを肝に銘じて欲しいです。
子供の頃、食べ物がなくひもじい思いをした年代は、かなり少なくなり現人口の10%くらいかもしれません。
「エンゲル係数」を知っていますか?
「エンゲル係数」とはドイツの統計学者エンゲルが唱えた節で「生活費の中で食費の占める割合を表す数字です。この係数が高いほど貧しいことを現わします。現在は一般的には、文化生活が伸びて、エンゲル係数は低くなっていると思います。
コロナ禍で2年ほど前、日本に3か月ほど滞在を余儀なくされたことがありました。暇を持て余して、柄にもなく家計簿をつけました。そこで分かったことは、食費の割合が低いことでした。そうであるならば、新鮮な良い食材を買い、健康生活をしてはどうかと思ったのです。勿論、たまには気分転換のために美味しいものを食べに出かけることは必要ですが、手作りの家庭料理は健康的にもお勧めします。現代のエンゲル係数は、高いほど健康の人が多いと解釈しては如何でしょうか?
文化生活を少々削っても健康的な食費を多くするのがシニアにとっては得策と考えます。
日本で、立命館アジア太平洋大学の出口治明学長が書かれた 「復活への底力」という本を購入しました。脳梗塞で倒れ、右半身不随と言語障害になった氏の復活物語です。壮烈なリハビリを遂行する氏の意志の強さに敬服することより生きる目的意識の強さに惹かれました。「思いが強ければ・・・、必ず成就する」ことが良く理解できました。
人生には、三つの坂があると言われます。
上り坂、下り坂、「まさか」です。
「まさか」は予期しない時に訪れるものです。それを乗り越えることが出来るのは「意志」しかないことが氏の著書で再確認できました。プロ野球で、優勝が早く決まると、残りの試合は、単なる消化試合でつまらないように、高齢者も余生が消化試合のようであってはならないと思います。「生きる喜び」を見つけたいものです。それには「好奇心」を常に持つことではないでしょうか。
病気になって医学に頼るか、または自力で治すかは、その人の人生哲学が決めることだと思いますが、ある医師の著書の一部を紹介したいと思います。
「医学とは、健康についての学問ではありません。病気についての学問です。
私は六年間の医学部の講義で、一度も健康について習ったことがありません。何十冊という教科書も読みました。
健康についての記述を一度も読んだことがありません。医学部を卒業した後、通常、医師は病院に勤めます。そこで会うのは病人です。
来る日も来る日も病人に会います。健康な人に会うことはありません。
病人をなくすのが医師の仕事です。医師は病気についての知識は持っていますが、健康についての知識は少ないのです。」
更に彼は「医学の限界は、病気の予防ができないことです。今の医学からは、予防の観点が完全に抜けています。健康な人が病気にならないようにするにはどうしたら良いかという観点がないのです。医学は、病についての学問であって、健康についての学問でないのが現状です。」
少々長い引用でしたが、この医師の言葉を十分に理解することは、私たちの生活においてとても大切であると思います。
以前、東京郊外の住宅街に梅干しの手づくりをしている店があると聞き、小雨が降る中を3時間も探して行ったことがあります。
昔ながらの製法で丹念に手作りされた梅干しを買い、アメリカに戻りました。それまでは東京から新幹線で30分の小田原駅近くの梅干し屋で購入していたのですが、ワイフは手もつけませんでした。
しかし、この梅干しには「美味しい!」とすっかり病みつきの様子です。他の梅干しと比べて風味の違いが歴然です。
やはり心を込めて作られた本物は違うなぁと思いました。
梅そのものの選定が尋常ではありません。杉田という種類の梅で、その店で苗を育てて農家に栽培させています。
そしてその梅を特別の塩に一個ずつまぶし、塩漬けにしています。
その寝かせ方も、ひと工夫もふた工夫もあります。
梅干しに赤しそを入れて、ようやく完成品となります。
私が見つけた絶品梅干しです。
ロサンゼルスで日本語テレビを放映していたジャーナリストのK氏が、丁度一年前に他界されました。
彼は日本に帰国後、大学の政治学の先生として活躍していましたが、ある日、肝臓がん末期と診断され、それから闘病生活が始まりました。
彼とは、東京のマンションが同じということもあり、私が帰国する度に会っていました。
私より五歳下でしたが、彼の生き様は大変勉強になりました。
新薬をテストする『治験』を自分の治療手段に選んでいました。
一時体調が良くなられた際、ロサンゼルスを再訪され『死があって生がある』と題して講演されました。
「死ぬまでしっかり生きる!」の言葉通り、彼は頑張りました。
「死は怖くない?」と聞いたら、「どうせ人間死ぬよ。病気かもしれないし、また不慮の死だってあるじゃない。怖がってどうするの、普通に生きるだけだよ。」と、強がりでなく、淡々と言い切ったK氏の姿が私の脳裏に焼き付いています。
一日一日をしっかり生きることが大切なんだと、改めて思いました。
亡くなる二日前、K氏から「いつ日本に来るの? 美味しいところ見つけたから早くいらっしゃい!」と電話がありました。
声は元気でしたが、そのすぐ後で「実は明日から入院して手術することになった。」と付け加えました。
私は、「あなたは不死身だよ、退院できるよ!」と言って励ましましたが、これが彼との最後の会話になりました。
人間の一生に於いて『余った人生』なんてありませんから、『余生』という言葉は使いたくありません。
私は、これからの時間は『おまけ』だと考え、日々感謝して有意義に生きようと考えています。
私は、新しい物を何もかもただ単純に迎合することには反対です。人類の未来が空恐ろしくさえなります。温故知新「古きを温(たず)ねて新しきを知る」、昔の事柄を調べ直して、そこから新しい道理や知識を見出す、いう意味ですが、これを無視した進歩は、無意味な進歩としか思えません。
これから人間が生きて行く上で、今以上の技術進歩(つまり便利さ)が果たして必要でしょうか?人間を益々怠け者にするだけでしょう。更に、貧富の差を極端にし、人災に基づく自然災害が起き、食糧難や水不足に陥ること必至です。正直、もう世界のあちこちで起こっています。多くの犠牲者を出したコロナ禍の経験を無駄にしてはいけません。今こそ「世界」の進路について真剣に考える時です。世界を形成しているのは私達一人一人の人間です。その一人一人が「一日一善」を実践すれば、一日七十七億善、何と素晴らしいことでしょう!
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