■青春
岩魚太郞の愛妻も知らない昭和の我が青春の一枚を発見!
この日劇4階に【日劇ミュージックホール】と言う劇場がありました。
その劇場は、日本で一番美しい「ストリップ劇場」と言われていました。
■ストリップと言うと、男女を問わず卑猥な印象ですが「日本で一番美しいストリップ劇場」の内容は、現代番では「リオのカーニバル」と言うダンスです。
そのダンスを舞台で見せる……その舞台の俗称が「日本で一番美しいストリップ劇場」です。今では「よさこい祭り」と同様、路上で演じてる「リオのカーニバル」でした。
しかし、岩魚太郞はその女体(卑猥ですか?)の美しさに感動!しました。
当時、映画鑑賞券(当時は券と言う表現)¥300円ですが、【日劇ミュージックホール】の鑑賞券は¥600円ぐらいだと記憶しています。
■東京オリンピック
1964年:昭和39年東京オリンピック・記録映画・市川崑総監督・体操競技のスローモーション、そのワンシーンが衝撃的でした。
【日劇ミュージックホール】と【東京オリンピック】正に青春!真っ只中でした。
■1964年:昭和39年の物価
大卒初任給(公務員)17.100円 高卒初任給(公務員)12.400円
牛乳:18円 かけそば:50円 ラーメン:60円 喫茶店(コーヒー):70円
銭湯:23円 週刊誌:50円 新聞購読料:450円 映画館:300円
自転車の後ろにリヤカー。この車を「リヤカー」と言います。
自転車で引っ張って荷物を運ぶ車のことです。
人力で引っ張る場合もあります。円形の車輪はゴムです。
大八車の車輪は木製です。
何を販売している人でしょうか?
昭和40年前後の時代です。朝食の支度の前に、味噌汁に豆腐。
だから早朝です。
ラッパで「パープー」が「豆腐屋が来たよ」の合図です。
何故「ラッパ」なのか分かりなせん。
でもラッパの音が「トーフー」と聞こえるのです。
不思議です。
昭和の傑作広告!誰でも天才になれる「馬鹿につける薬」です。
紳士淑女諸君、どうぞお試しあれ!
1942年(昭和17年)に、文部省(現・文部科学省)主導で右書きから左書きへ変わったそうです。
で、この変な広告は、 1942年(昭和17年)より以前の、新聞広告??のようです。
合資会社:因縁堂 ユニークな社名?
品質保證?何を品質保證するんですかね?保證の「證」の文字をやっと見つけました。
松山大空襲(昭和二十年五月四日午前八時十分)
この時岩魚太郞は7歳、五月三日に引っ越しをして来たばかりで、母は隣組にご挨拶する時間もなく、空襲に遭遇しました。
隣組の組長さん共々、引っ越して来て挨拶もしないよそ者を、防空壕に入れることを拒否しました。事実、防空壕は満員の状態でした。
仕方なく、田んぼのあぜ道を通り陸橋の下に難を逃れました。
帰宅しました。勿論我が家は全焼です。ふと見ると、何やら大勢の人々が、防空壕の前に集まり、防空壕から死体の運び出していました。
私たち親子が防空壕に入ることを拒んだ、組長さんもむしろの上に横たわっていました。
死因は、焼けた家屋が防空壕の入り口を塞ぎ、逃げ道がなくなって窒息したそうです。
私は運命論者ではありませんが、わたしの運命は、明らかに防空壕の入ることを拒んだ組長さんに、自分の意思には関係無く、運命を変えられました。
「運命」と言う文字は「運ぶ命」と書きます。
松山大空襲(昭和二十年五月四日午前八時十分)~ 平成三十年七月十二日 迄、私の命は、時風という風にのり、運ばれて来ました。
この防空壕から出て来る一枚の写真……かすかに笑みを浮かべた優しい表情の女性……
私はしばらくじっと眺めていました。
年甲斐もなく、涙が止まりませんでした。
戦争って何だろ?
「ちゃぶ台」:「飯台」とも言います。
この昭和の写真が消えた原因は、何だと思いますか?
それは、公団住宅です。そうです。「団地族」の出現です。
公団住宅は「DK(ダイニンキッチン)」です。
食事風景は、テーブルと椅子に替わり、「ちゃぶ台」は消滅しました。
値段に注目!
看板に注目:「ばそ華中:酒は福は連」
福と連の間の文字は【は】のようです。
益々意味不明!?
昭和38年前後の値段です。
ミシン会社「ジューキーミシン」何故「国鉄指定」(現在のJR)なのでしょうか?
パチンコ屋。当時立ってパチンコをやっていました。
パチンコ台の裏側に、おねえさんがいて、パチンコ台の裏側にある上部の受け皿に、手動で玉を入れていました。
客の声「おねえちゃん、玉がないよ~!」
お姉ちゃんの声「は~い、今いれます」
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