松山大空襲(昭和二十年五月四日午前八時十分)
この時岩魚太郞は7歳、五月三日に引っ越しをして来たばかりで、母は隣組にご挨拶する時間もなく、空襲に遭遇しました。
隣組の組長さん共々、引っ越して来て挨拶もしないよそ者を、防空壕に入れることを拒否しました。事実、防空壕は満員の状態でした。
仕方なく、田んぼのあぜ道を通り陸橋の下に難を逃れました。
帰宅しました。勿論我が家は全焼です。ふと見ると、何やら大勢の人々が、防空壕の前に集まり、防空壕から死体の運び出していました。
私たち親子が防空壕に入ることを拒んだ、組長さんもむしろの上に横たわっていました。
死因は、焼けた家屋が防空壕の入り口を塞ぎ、逃げ道がなくなって窒息したそうです。
私は運命論者ではありませんが、わたしの運命は、明らかに防空壕の入ることを拒んだ組長さんに、自分の意思には関係無く、運命を変えられました。
「運命」と言う文字は「運ぶ命」と書きます。
松山大空襲(昭和二十年五月四日午前八時十分)~ 平成三十年七月十二日 迄、私の命は、時風という風にのり、運ばれて来ました。
この防空壕から出て来る一枚の写真……かすかに笑みを浮かべた優しい表情の女性……
私はしばらくじっと眺めていました。
年甲斐もなく、涙が止まりませんでした。
戦争って何だろ?
「ちゃぶ台」:「飯台」とも言います。
この昭和の写真が消えた原因は、何だと思いますか?
それは、公団住宅です。そうです。「団地族」の出現です。
公団住宅は「DK(ダイニンキッチン)」です。
食事風景は、テーブルと椅子に替わり、「ちゃぶ台」は消滅しました。
値段に注目!
看板に注目:「ばそ華中:酒は福は連」
福と連の間の文字は【は】のようです。
益々意味不明!?
昭和38年前後の値段です。
ミシン会社「ジューキーミシン」何故「国鉄指定」(現在のJR)なのでしょうか?
パチンコ屋。当時立ってパチンコをやっていました。
パチンコ台の裏側に、おねえさんがいて、パチンコ台の裏側にある上部の受け皿に、手動で玉を入れていました。
客の声「おねえちゃん、玉がないよ~!」
お姉ちゃんの声「は~い、今いれます」
バス停で待っている人は誰でしょうか?
バス停は「赤坂見附」です。
ビルディングはゼロです。懐かしい昭和を彷彿とさせている一枚です。
あぁ!懐かしき昭和です。
全員一生懸命働いていました。これが日常だったのです。
しまった!俺変なこと言っちゃたかな?
そんなことないよ。君のこと理解してるから。変なこと遠慮なく言えることが友達なんだから。
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2018/06/17、埼玉県上尾市西口の「居酒屋笑福」で、禿げたお友達と、酔っぱらって意味不明な話を3時間を交わしました。
その時間が、私の至福時間でした。
感謝!
この「ぬけられます」の意味分かりますか?
70歳以上の青年は知ってると思いますが?
この当時は、セクハラなんて言葉がなかった時代ですね。
国民は生きることで必死でしたから!
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