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「私の名前を呼ばれる方」

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「私の名前を呼ばれる方」

ホサナキリスト教会・日曜礼拝のメッセージアウトラインです。






「私の名前を呼ばれる方」




イザヤ書 49章1~6節




"島々よ、私に聞け。遠い国々の民よ、耳を傾けよ。主は、生まれる前から私を召し、母の胎内にいたときから私の名を呼ばれた。

主は私の口を鋭い剣のようにし、御手の陰に私をかくまい、私を研ぎ澄まされた矢とし、主の矢筒の中に私を隠された。

そして、私に言われた。「あなたはわたしのしもべ。イスラエルよ、わたしはあなたのうちに、わたしの栄光を現す。」

しかし私は言った。「私は無駄な骨折りをして、いたずらに空しく自分の力を使い果たした。それでも、私の正しい訴えは主とともにあり、私の報いは私の神とともにある。」

今、主は言われる。ヤコブをご自分のもとに帰らせ、イスラエルをご自分のもとに集めるために、母の胎内で私をご自分のしもべとして形造った方が言われる。私は主の御目に重んじられ、私の神は私の力となられた。

主は言われる。「あなたがわたしのしもべであるのは、ヤコブの諸部族を立たせ、イスラエルのうちの残されている者たちを帰らせるという、小さなことのためだけではない。わたしはあなたを国々の光とし、地の果てにまでわたしの救いをもたらす者とする。」"

(1) 存在理由を尋ねて


①人が偶然に生まれてきたのなら、生きる価値を問う意味はない
 進化論教育に人を生かす力はない


②あなたの存在する以前よりあなたを知り、あなたを価値あるものとして創造された方がいる
 ここに初めて人は人生の生きる意味を見いだす



(2) あなたの名を呼ばれる方




名を呼ぶとは、他者と区別し、特別に価値あるものとして認識すること
 「母の胎内にいたときから私の名を呼ばれた」



②それはあなたと関わり、期待しあなたを通して何か目的を果たしたいとの思いゆえ
 (3節、6節)



(3)  創造者の栄光を現すものとして



① すかし、それとは逆の人生のように思える~無駄な骨折りをして来た
 それすら神の許しの中で起こった~「矢筒の中に私を隠した」(2節)


②神が力となられて
 無駄だと思っていたが、報酬は神と共にある。神は見えないお方だ(4節)


(結論)


 人は期待されて、愛を感じるときに生きる喜びを知る

 あなたを創られ生かしている方と出会うときに、生きる意味と自身の尊さを知る

 この方が、あなたの名を呼んでおられるのだから
#メッセージ

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「生きるにしても、死ぬにしても」

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「生きるにしても、死ぬにしても...
ホサナキリスト教会・日曜礼拝のメッセージアウトラインです。













「生きるにしても、死ぬにしても」



ローマ人への手紙 14章1~8節



"信仰の弱い人を受け入れなさい。その意見をさばいてはいけません。

ある人は何を食べてもよいと信じていますが、弱い人は野菜しか食べません。

食べる人は食べない人を見下してはいけないし、食べない人も食べる人をさばいてはいけません。神がその人を受け入れてくださったのです。

他人のしもべをさばくあなたは何者ですか。しもべが立つか倒れるか、それは主人次第です。しかし、しもべは立ちます。主は、彼を立たせることがおできになるからです。

ある日を別の日よりも大事だと考える人もいれば、どの日も大事だと考える人もいます。それぞれ自分の心の中で確信を持ちなさい。

特定の日を尊ぶ人は、主のために尊んでいます。食べる人は、主のために食べています。神に感謝しているからです。食べない人も主のために食べないのであって、神に感謝しているのです。

私たちの中でだれ一人、自分のために生きている人はなく、自分のために死ぬ人もいないからです。

私たちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死にます。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。"




(1) 自分のとは一体誰のものか

①子供から大人になると自立し、自己を確立し、自己決定権を増して行く
 すると私たちは自分自身の人生の全てをコントロールできると思いがちだ

②人生の決定的な事は何一つ選べない
 生まれた日も、両親も、自己の能力や賜物までも選べていない

 私たちは実は、主に属するものであると聖書は教えている


(2) こんな自分であったとしても


①自分自身を信じろと教えられてきた。「努力は裏切らない」とは本当か?
 信じたくても緊急な時、危機的状況で重大決意をする時に、私たちの足はすくんでしまう。

②自分で自分を信じること、頼るには到底弱いものであるにを知っている私たち
  何度失敗しても、そのだめな私を愛し私を支えてこられた方がおられた


(3)  主に対して生きるもの


①たとえ死に至ることがあったとしても
 主は私を迎え入れてさらに深い交わりの輪に入れてくださる


② もし生きるとしたなら、恐れや失望に取り付かれることがあるかもしれない。

 その中にあってさらに良いものを示してくださる。生きることで、さらに主にある生き方を学ぶのだ。それは今まで最高善と考えていた枠組みが再構築されること。


(結論)


 「愛情、厚遇、栄誉。金メダルはもらえなかったけれど、代わりにもっと大切なものを日本で手にしました」~銀盤の妖精・ジャネット・リン(朝日新聞、1996年12月9日)

自分の望む成功を手にしなかったとしても、たとえ最悪の死に直面しても、私たちを所有しておられる主は私たちから離れず、その愛から私たちを引き裂くものはない。
#メッセージ

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