「この人に神のわざが現れるため」
2月
14日
ホサナキリスト教会・日曜礼拝のメッセージアウトラインです。
「この人に神のわざが現れるため」
ヨハネの福音書 9章1~12節
"さて、イエスは通りすがりに、生まれたときから目の見えない人をご覧になった。
弟子たちはイエスに尋ねた。「先生。この人が盲目で生まれたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。両親ですか。」
イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。この人に神のわざが現れるためです。
わたしたちは、わたしを遣わされた方のわざを、昼のうちに行わなければなりません。だれも働くことができない夜が来ます。
わたしが世にいる間は、わたしが世の光です。」
イエスはこう言ってから、地面に唾をして、その唾で泥を作られた。そして、その泥を彼の目に塗って、
「行って、シロアム(訳すと、遣わされた者)の池で洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗った。すると、見えるようになり、帰って行った。
近所の人たちや、彼が物乞いであったのを前に見ていた人たちが言った。「これは座って物乞いをしていた人ではないか。」
ある者たちは、「そうだ」と言い、ほかの者たちは「違う。似ているだけだ」と言った。当人は、「私がその人です」と言った。
そこで、彼らは言った。「では、おまえの目はどのようにして開いたのか。」
彼は答えた。「イエスという方が泥を作って、私の目に塗り、『シロアムの池に行って洗いなさい』と言われました。それで、行って洗うと、見えるようになりました。」
彼らが「その人はどこにいるのか」と言うと、彼は「知りません」と答えた。"
(1)イエスの個人に向けた眼差し
弟子たちの一般論〜病の神学的理由を尋ねて
「先生。この人が盲目で生まれたのは、だれが罪を犯したからですか。
この人ですか。両親ですか。」
イエスはカテゴライズせず、その当人自身に情熱を注いでいる。
「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。この人に神のわざが現れるためです。」
(2) 男に与えられた機会
①「道の途中で」(1)の偶然の出来事か
生まれつきの盲人や他に病を持った人は多くいたであろう。
②宗教的であっても信仰的な家庭環境出身ではなかった(20-23)
私たちに与えられている機会をどう生かすか。
⑶神の栄光が現されるため
①目の見えるものは盲目とされる(39)
パリサイ人らは「私たちは目が見える」と言っている。
罪の認罪なく、救いを必要としない人たち。
②目の見えないものが見えるようになった
真理について、まっさらな心で求道している(30-33)男の姿勢。
人には成し得ないことが実現する時、人々は神が生きたもう事を知る。
(結論)
神の奇跡のわざは、特定の選ばれし人にしか現わされないのだろうか。
その恩寵に与る機会は、全ての人に、この私にも与えられているはずである。
真理を探り求めるものに神は応えられる。