安息って良いものですね
12月
9日
「ぶどう園のたとえ話」②
マタイ20章1~ 16節
~マタイ福音書連続講解説教54~
聖書本文とメッセージノートはこちらから:
http://wdx.hosannamin.org/whatsnew/view/011654
聖書学の大原則
「聖書とは、一体何か。
それをどのように読んで、解釈・理解し、
さらにその上で自らに適用・実践すれば良いのか」
という視点からの体系化された学問を「聖書学」と言う。
意識してないかもしれないが、全て聖書を専門的に学んだ者たちは皆、
聖書学を実践しているはずである。
ここでその聖書学の原則について確認して見たい。
❶聖書を文学作品として読む
つまり書かれている通り、字義通りに読む。
あなたの国語で読解力を総動員して理性的に読む。
その点で他の文学書や雑誌を読む時と別段変わらない。
ただし、ユダヤ的な背景を理解し、文脈や文学的手法にも留意する。
聖書は2千年前にユダヤの地で、ユダヤ人によって書かれたものであるから、
その時間的・民族的な壁があることを前提としなくてはならない。
日本文化 の掛かったフィルターで、
貴方の常識や認識方法を前提として解釈するなら
本来意図されているメッセージを失うことになりかねない。
聖書時代の読者が、どういう意味として受け取ったかを探索して行くのが解釈学の王道である。
今日の聖書広場では、
「たとえ話には何が書かれているのか」
を解説してあるポイントⅠがこれに当たる。
メッセージ・ノートを参照。
❷聖書のメッセージ(神と聖書記者の意図するもの)は、一つである
聖書は神の霊感によって書かれ、
その66巻が調和と一つの意図を持った完結した書である。
一つの聖句が伝えようとしているメッセージは一つしかない。
二つの聖句が互いに異なって矛盾してしまうかのような解釈は
あり得ない(正しいものでない)。
その一つの箇所の解釈のためには、
その前後の文脈やその書全体、引いては聖書全巻からの裏付けが必要となる。
ゆえに聖書全巻の知識と合わせて、
これをどのように読み取るべきかの
聖書全巻の体系への理解が欠かせないものとなる。
今日の聖書広場では、
「たとえ話からどんなメッセージが引き出せるのか」
を解説してあるポイントⅡがこれに当たる。
メッセージ・ノートを参照。
かいつまんで言うと、そこでは、
①憐れみによって召された者の幸い
②自らの行いや実績に頼る者の不満
③神の与える報いは報酬(給料)ではなくて賜物(ギフト)であり、
気前の良いものである
とういうメッセージが引き出せる。
❸聖書の適用はいく通りもあり得る
その内容を正しく把握して解釈し、そこからメッセージを引き出した後に、
その教えの実践のために自らに適用しなくてなならない。
その適用は、状況や時代によりまちまちとなる。
そこに説教者の資質やセンスというものが反映される。
適用のためには❶と❷とに習熟してなくてはならない。
今日の聖書広場では、
「私たちへの適応」を解説してあるポイントⅢ がこれに当たる。
メッセージ・ノートを参照。
結論 :
奉仕は「気前のよい」(アガソス)お方に対してのものであり、
他者の評価や自己満足のためのものではない
私たちは多くの場合、この世の(特に儒教的)価値観に慣れ親しんでいる。
そこで教えられてきたことといえば、
「もっと頑張れ」
「もっと働け」
「成果を挙げよ」
という成功志向型の哲学ではないだろうか。
救いは、恵みによってただで与えられたと信じてはいても、
信仰を維持したり、また信仰を評価されるには
働き如何によると考えているのが多くの教会人の現実ではないか。
本来私たちは与えられた賜物で奉仕するよう勧められていて、
頑張りではない。
知識や知恵の言葉、奉仕や癒し、哀れみや献金の賜物、教えや助ける賜物、、、
これらは霊的な賜物でありそれぞれが神から与えられたものだ。
故に、神が貴方に備えられた能力を使い、
教会の中でバランスよく用いることによって教会は建て上がって行く。
もし貴方が頑張りで奉仕するなら、御霊の働きを妨げることになりかねない
頑張りは人を疲れさせ、愚痴や不満が出てくる元になる。
安息日とは、主イエスによって成就された平和・平安・調和
のひな型となるものである。
「信じた私たちは安息に入るのです。
『わたしは、怒りをもって誓ったように、
決して彼らをわたしの安息に入らせない。』
と神が言われたとおりです。
みわざは創世の初めから、もう終わっているのです。」
(ヘブル 4:3 )
「休みなさい」、「神に仕えるとはすなわち休むことである」
というのが新約的な安息日理解である。
さあ、リラックスして信仰生活を楽しませていただこうではないか。