元気なボーイズ! 二週間も病欠で教会に来られなく、私たちも寂しかったですが、今週は元気に来ました! 良かったーーー。教会を楽しく満喫していました。
ワシントン大学留学中のSくん。。。エリックと趣味があうので、楽しく会話しています。。。今週は、帰国後のゼミの活動のために質問をしに来てくれました。。。
あと少しの滞在だけど、いろいろとがんばってねー。あちこちでのボランティアの機会を紹介しました。
エリックは、今日は、子どもに受けるために、マッハゴーゴーのTシャツを着ています。
2016年5月15日日曜日礼拝音声は、https://youtu.be/Fz-WvU8lrP4
1コリント12:6-14
働きにはいろいろの種類がありますが、神はすべての人の中ですべての働きをなさる同じ神です。7 しかし、みなの益となるために、おのおのに御霊の現れが与えられているのです。8 ある人には御霊によって知恵のことばが与えられ、ほかの人には同じ御霊にかなう知識のことばが与えられ、9 またある人には同じ御霊による信仰が与えられ、ある人には同一の御霊によって、いやしの賜物が与えられ、10 ある人には奇蹟を行う力、ある人には預言、ある人には霊を見分ける力、ある人には異言、ある人には異言を解き明かす力が与えられています。11 しかし同一の御霊がこれらすべてのことをなさるのであって、みこころのままに、おのおのにそれぞれの賜物を分け与えてくださるのです。ですから、ちょうど、からだが一つでも、それに多くの部分があり、からだの部分はたとい多くあっても、その全部が一つのからだであるように、キリストもそれと同様です。13 なぜなら、私たちはみな、ユダヤ人もギリシヤ人も、奴隷も自由人も、一つのからだとなるように、一つの御霊によってバプテスマを受け、そしてすべての者が一つの御霊を飲む者とされたからです。14 確かに、からだはただ一つの器官ではなく、多くの器官から成っています。
ハレルヤ、みなさんこんにちは。今日はペンテコステの日です。今年は、神様から大切なメッセージをこの時期にいただいています。特に、ペンテコステの意味について教会に語っていらっしゃいます。
毎週言いますが、ペンテコステは、イエス様の夢の実現でした。御父とイエス様がひとつであるように、イエス様と私たちが一つであり、私たち同志も一つとなること。それは、同じ御霊、聖霊の浸しを経験することによって実現しました。そして、キリストの体と呼ばれる教会が出来ました。
聖霊のバプテスマによって、開かれる超自然的な世界があります。聖霊様の与える賜物、超自然的な力にはどんなものがあるか、ということを先ほど読みました。
★ 聖霊の賜物の目的とは
V6-7 働きにはいろいろの種類がありますが、神はすべての人の中ですべての働きをなさる同じ神です。7 しかし、みなの益となるために、おのおのに御霊の現れが与えられているのです。And there are diversities of activities, but it is the same God who works all in all. 7 But the manifestation of the Spirit is given to each one for the profit of all:
聖霊のバプテスマは、私たちが一つとなるためでしたね。聖霊の賜物は、私たちキリストの教会、体に属するものたちの益となるために与えられています。
人それぞれに、働き方や与えられている賜物の傾向が違っていても、それは、教会のため、他の人のために与えられているのです。
「自分のため」ではありません。自分を含めた体のためなのです。私とあなたは、もはや別々の個体ではなく、共同体であり、互いに属しあっているのだということをここで覚えたいと思います。あなたの、益は、私の益。だから、私は、あなたの益のために捧げたいのです。
★ 互いに愛し合うために
賜物の言うものは、自分のためにあるのではなく、相手のために、誰かのために与えられています。考えてみてください。教会の中で、賜物が自由に与えられているとして、自分が、癒しが必要だ、または、知恵が必要だという時に、自分が自分に与えられている賜物を使って癒されり、立ち直ったりしたらいいのではないでしょうか。しかし、それが、神様の道ではないのです。先ほど読んだ1コリント12章の次の章13章では、愛について切々と書かれています。「賜物があっても愛がなければ意味がない」というのです。というのは、互いに仕えあい、愛し合うことが神のみこころであり、そのために賜物というものは、与えられているからです。
★ 真のコミュニティ、共同体とは
私たちは、アメリカに住んでいますから、ここの文化にとても感化されます。アメリカは、個別、個人主義です。共同体理解は、共同体にいくらお金をだしているからとか、自分たちのやりたいこととマッチしているからという、自分中心で共同体を作ります。
しかし、聖書の言う共同体とは、一つの体のようだというのです。手で、足、皮膚、肝臓、つめ、全てが互いにいたわりあってこそ、存在していけるというものなのです。あなたが痛みを持っていたら、体全体が痛むというものです。このキリストの共同体では、世の中とちがって「あなたが何ができるか」と言うことは、関係ないのです。あなたが体の一部であるからこそ、互いにいたわりあうのです。
鍵は、愛です。あなたが、体の一部である方の痛みを知るとき、共感し、愛によって、助けたいと思う、その時、神様は必ず、それに必要な賜物を与えてくださるものなのです。後でもう少し詳しく話します。
★ 聖霊の賜物の機能とは
ではどのようにして、こられの賜物が働くのかということを話したいと思います。
私が初めて聖霊のバプテスマを受けた時、劇的な違いがありました。霊、見えない世界の感覚が一気に開かれました。神様から、ビジョンや預言の言葉を次々に受け取りました。ある時には、教会のなになにさんのために祈りなさい、彼らにはこんな危険が迫っていると。。。そして、その通りのことが起きたりしました。
さて、聖書で読んだとおり、九つの賜物には、知恵のことば、知識のことば、信仰、いやし、奇蹟を行なう力、預言、霊を見分ける力、異言、異言を解き明かす力があります。その一つひとつの意味は、次のとおりです。
① 知恵のことば… 神様からの啓示。How を教えてくれる言葉。私たちが、いろいろな状況の中でどうしたらいいか分からない時に与えられる言葉。私の場合、もちろん、人をカウンセリングしている時に、こういう風に問題にアプローチしてはどうかとか、こういう風にアドバイスしてはどうか、という言葉がくる。一人ひとり、状況が同じ場合であっても、有効なアプローチは違う。クッキーカッターの様には物事は解決できない。神様が教えてくれる。また、知識の言葉が与えられるとき、それをどのように、相手に伝えたらいいか分からないとき、そのつど、神様に聞く。すると知恵の言葉が与えられる。
② 知識のことば… 神様からの啓示。What を教えてくれる言葉。知識の言葉とは、自分の知らないことを明らかにされる言葉。例えば、祈っている相手と神様しか知らないような言葉が与えられる。この言葉は、相手に伝える時に、時々注意が必要。時には、ストレートすぎて相手の気分を害することもある。しかし、神様が教えてくださるには、相手の益になるためですから、神様に知恵の言葉を求めます。
知識と知恵の言葉は、同じ祈りのセッションの中で与えられることが多い。また一緒に祈っている人に与えられることも、もちろんある。
③ 信仰… 救いにいたる信仰、神様を今私たちが信じている信仰と質の違う、はるかに大きい信仰。1993年に甲子園を貸しきってリバイバルミッションが開かれて多くの人が救われましたが、その言いだしっぺは、下条まきこ先生でした。先生が話し始めた時は、誰もが、どうやって。。まさかと思った話しでしたが、信仰の通り実現し多くの実を結びました。自分の現状や能力、信仰をはるかに超えた大きな信仰のことを指します。
④ いやし… 癒しの力、祈る時、語るとき、癒しが起きる。心の癒し。
⑤ 奇蹟を行なう力… 創造的な力が働き、無から有が生まれる力。食べ物を配っていると、その食べ物が無くならなかった。無かった目玉が出来た。虫歯が、癒しの祈りで、治療されて、金歯になった。死んだ人が蘇った。雨がやむ。降る。私の友達も集まって祈っていた時、宝石が降ってきたそうです。
時間がなくなってきたので、⑥から⑨は、次回に話します。ただ、大切なこと、一つだけお話しして終わります。
★ 必要に応じて与えられる
賜物は、違う人に違った形で与えられていますが、それは、誰かに仕えるためです。聖書のなかに次のような言葉があります。
エペソ4:7
しかし、私たちはひとりひとり、キリストの賜物の量りに従って恵みを与えられました。 But to each one of us grace was given according to the measure of Christ’s gift.
賜物は、英語では、Gift、すなわち、プレゼント、贈り物です。そして、それは、給料ではないのですから、私たちが稼ぐものでも代償でもありません。与え手の好意によります。
聖書、詩篇の中には、神様の私たちへの好意は、一生涯ものだとあります。私たちが神の子どもたちである限り、神様の好意は私たちの上に、キリストにあってあるのです。
また、エペソ4:7の通り、キリストの賜物の量りにしたがって恵みが与えられます。キリストの賜物の量りは、無限です。心配しなくてもいいのです。
プレゼントをもらうことは、そんなに難しいことではないのです。
神様に求めるなら与えられるのです。
神様に求めて、大いに互いに愛し合い、仕えあおうではありませんか。
ぼ
土曜日は、エリックのお父さんの誕生日を祝いにギッグハーバーまで行きました。88歳です!!!! 相変わらず、ジョークばっかり言っていました。本当に、ユーモアの塊のような人です。
いつも私たちのカードを声を出して読み上げます。今年は、天眼鏡を持ち出して読みました。。。
健康に気をつけているので、ミニカップケーキにろうそくを立てて、エリックが歌いました。甘いものに目がなく、ぺろりと一口! 今年も元気でよかったー。。。120歳まで生きてね、なんて話しながら、レストランでハンバーガーをぺろりとこれもまた食べました。さすが!
2016年4月24日日曜日礼拝音声は、https://youtu.be/Eld7MNzCVvE
使途1:3-11
イエスは苦しみを受けた後、四十日の間、彼らに現れて、神の国のことを語り、数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きていることを使徒たちに示された。4 彼らといっしょにいるとき、イエスは彼らにこう命じられた。「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。」5 ヨハネは水でバプテスマを授けたが、もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです。」6 そこで、彼らは、いっしょに集まったとき、イエスにこう尋ねた。「主よ。今こそ、イスラエルのために国を再興してくださるのですか。」7 イエスは言われた。「いつとか、どんなときとかいうことは、あなたがたは知らなくてもよいのです。それは、父がご自分の権威をもってお定めになっています。8 しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」9 こう言ってから、イエスは彼らが見ている間に上げられ、雲に包まれて、見えなくなられた。10 イエスが上って行かれるとき、弟子たちは天を見つめていた。すると、見よ、白い衣を着た人がふたり、彼らのそばに立っていた。11 そして、こう言った。「ガリラヤの人たち。なぜ天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります。」
先週は、復活のイエス様が再びペテロを召しだすところを読みましたが、今週は、復活のイエス様がみんなの見ている前で、天に帰ってかれる様子から学んで行きたいと思います。
私たちクリスチャンは、イエス・キリストの十字架の苦しみと死と葬りと蘇りを信じています。そして、バプテスマを受けます。水の中が死とし、水からでることで蘇りの新しい命を得たものと象徴します。そのことで、自分の信仰を明らかにし、そして、キリストと一つにされたことを宣言します。
しかし、一つ強調することを忘れている重要な点があります。それは、イエス様の昇天についてです。
私たちは、キリストとともに十字架につけられ、死に、葬られ、そして、復活しました。ガラテヤ2:2もはや私が生きているのではなく、キリストを信じる信仰によって生きているのです。そしてまた、信じるものは、キリストの昇天とも一つにされているのです。Co-crucified, co-buried, co-resurrected and co-ascended!
エペソ2:6
キリスト・イエスにあって、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。and raised us up together, and made us sit together in the heavenly places in Christ Jesus,
キリスト者の権威の回復のために、キリスト者が弱々しく生きるのでなく、強く雄々しく生き、主の働きをするには、この昇天の意味をしっかりと知っておく必要があります。
★ キリストは王となられた
イエス様は、四十日間、神の国について語られました。弟子たちは、イスラエルの国の再建のことが頭にありました。。。
V5-7 「主よ。今こそ、イスラエルのために国を再興してくださるのですか。」7 イエスは言われた。「いつとか、どんなときとかいうことは、あなたがたは知らなくてもよいのです。それは、父がご自分の権威をもってお定めになっています。, “Lord, will You at this time restore the kingdom to Israel?” 7 And He said to them, “It is not for you to know times or seasons which the Father has put in His own authority.
しかし、イエス様は、天で御座に着き王となりました。神の国の王です。
エペソ1:20,21
神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。」which He worked in Christ when He raised Him from the dead and seated Him at His right hand in the heavenly places, 21 far above all principality and power and might and dominion, and every name that is named, not only in this age but also in that which is to come.
★ 私たちは、その国民となった
ピリピ3:20
私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます」For our citizenship is in heaven, from which we also eagerly wait for the Savior, the Lord Jesus Christ,
私たちは、キリストの王国の市民です。
ルカ17:20-21
さて、神の国はいつくるのか、とパリサイ人たちに尋ねられたとき、イエスは答えて言われた。「神の国は、人の目で認められるようにして来るものではありません。21 『そら、ここにある』とか、『あそこにある』とか言えるようなものではありません。いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。」Now when He was asked by the Pharisees when the kingdom of God would come, He answered them and said, “The kingdom of God does not come with observation; 21 nor will they say, ‘See here!’ or ‘See there!’ For indeed, the kingdom of God is within you.”
★ 神の国民としてのしるし
御使いは、言いました。あなた方が見たように、イエス様は再び来られると。。。
This same Jesus, who was taken up from you into heaven, will so come in like manner as you saw Him go into heaven.
私たち、信じるものたちは、イエス様の昇天から再臨まで、どうしたらいいのでしょうか。
天に上がられる、イエス様を夢中になってみていた弟子たちは、今回ばかりは、イエス様が去られたことで、消沈せず、イエス様の言われたことに希望を持って待ち望んだようです。。。
私たちの役割は、違う箇所で、上への召しとも、高い召しともいわれていますが、神の国をひろげていくことです。神の国とは、住所、場所とは関係ありません。それは、あなたの只中にあります。あなたから始まるのです。
◎父の約束
水のバプテスマと聖霊のバプテスマ
イエス様は、言われました。父の約束が来るとどうなるのか。。。七節から、国の再建を考えてるが、本当の国とは、神の国であり、それは、聖霊が神の国民のしるしである。
V8 しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」But you shall receive power when the Holy Spirit has come upon you; and you shall be witnesses to Me in Jerusalem, and in all Judea and Samaria, and to the end of the earth.”
私たちには、二つのバプテスマがあります。水と、聖霊。水は、入信を公にし、神と人の前に証しします。そして、キリストの死と葬りと復活と一つにされます。
また、聖霊のバプテスマは、聖霊が望まれると、力を受けると書かれています。文字通り、まず恐れがなくなり、そして、神の霊に満たされ、喜びがあふれだし、とめることのできない喜びが流れ出します。また、神様の心が分かるようになり、罪に対して敏感にとぎすまされます。また、預言を初めとした、聖霊の九つの賜物が求めに応じて与えられます。聖霊様、すなわち、イエスの霊とともに、王と心を一つにして、御国のために働くのです。こうして、地の果てはてまでに福音が到達し、神の国が広がっていくのです。
それは、目に見える国ではなく、あなたの只中、人々の中に確立されていきます。
◎イエスの御名
イエス様は、御座につかれ、天にも地にも一切の権威があります。私たちは、イエスの御名が与えられました。この一番高い御名で祈り、そして、ミニストリーをするのです。イエスの権威は、今や私の権威となったのです。
私たちも、ペテロのように、金銀はわたしにはない、しかし、私にあるものをあげよう。イエスの御名によって! と大胆にミニストリーができるのです! ハレルヤ!
ぼ
土曜日は、ヒスパニックチャーチのマービン牧師と奥さんのベティさんの結婚25周年のお祝いに招かれました。この写真は、結婚した時の近いを確認して、今までそうしてきたことの感謝と、これからも守ることを誓いました。
真ん中の白いドレスがベティさん。マービンはその右。レセプションも結婚式バリのすばらしさ。音楽がメキシコ系で明るく、食事もメキシカンレストランからで、美味しかったです!
テーブルもこんなに素敵に、飾られました。素敵です!
日曜日は、子どもたちがみんな病気で、誰もいなく寂しかったです。。。今週は、まきさんのお誕生日を祝いました。マイカ君のお手製ケーキを楽しみました。まきさん、おめでとうごさいます!
2016年4月10日日曜日礼拝音声は、https://youtu.be/RM6vK9sBEm4
ヨハネ21:1-14
この後、イエスはテベリヤの湖畔で、もう一度ご自分を弟子たちに現わされた。その現わされた次第はこうであった。2シモン・ペテロ、デドモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナのナタナエル、ゼベダイの子たち、ほかにふたりの弟子がいっしょにいた。3 シモン・ペテロが彼らに言った。「私は漁に行く。」彼らは言った。「私たちもいっしょに行きましょう。」彼らは出かけて、小舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。4 夜が明けそめたとき、イエスは岸べに立たれた。けれども弟子たちには、それがイエスであることがわからなかった。 5 イエスは彼らに言われた。「子どもたちよ。食べる物がありませんね。」彼らは答えた。「はい。ありません。」 6 イエスは彼らに言われた。「舟の右側に網をおろしなさい。そうすれば、とれます。」そこで、彼らは網をおろした。すると、おびただしい魚のために、網を引き上げることができなかった。7そこで、イエスの愛されたあの弟子がペテロに言った。「主です。」すると、シモン・ペテロは、主であると聞いて、裸だったので、上着をまとって、湖に飛び込んだ。8しかし、ほかの弟子たちは、魚の満ちたその網を引いて、小舟でやって来た。陸地から遠くなく、百メートル足らずの距離だったからである。9こうして彼らが陸地に上がったとき、そこに炭火とその上に載せた魚と、パンがあるのを見た。10 イエスは彼らに言われた。「あなたがたの今とった魚を幾匹か持って来なさい。」11 シモン・ペテロは舟に上がって、網を陸地に引き上げた。それは百五十三匹の大きな魚でいっぱいであった。それほど多かったけれども、網は破れなかった。12イエスは彼らに言われた。「さあ来て、朝の食事をしなさい。《弟子たちは主であることを知っていたので、だれも「あなたはどなたですか。《とあえて尋ねる者はいなかった。13イエスは来て、パンを取り、彼らにお与えになった。また、魚も同じようにされた。14イエスが、死人の中からよみがえってから、弟子たちにご自分を現わされたのは、すでにこれで三度目である。
先週のイエス様の復活の後のお話しに続いて、場面は、ガリラヤに移ります。よみがえったイエス様にあって弟子たちは喜びましたが、少し、複雑な気持ちがあったようです。彼らは、以前にガリラヤであおうと言われていたとおりに、ガリラヤにやってきました。今まで三年間一緒にすごした師であるイエス様がいない。。。お腹もすいた。みんなを食べさせなくては。。。なんともいえない、不安な気持ちともどかしさ、そして、あの十字架の一件からの敗北感がまだあったのでしょう。世間が自分たちに背を向けている、負けた感覚があった。
昔は、漁師で、腕をならしていたペテロが、またあの達成感を味わって、自分の自信をとりもどそうとした。「昔は、ここで、良く漁をしたものだ。自分の腕にかかったら、大漁だ」と、仲間と漁にでたのです。しかし、夜通し水の上にいましたが、何もとれませんでした。またも、ここで、敗北感を味わいました。「なんだ、一匹も獲れないじゃないか。。。」と。がっかりしたに違いありません。
そんなとき、復活のイエス様が再び岸に現れます。
私たちが、落胆し、自信がなく、自分の得意な分野でさえうまく行かないとき、その時、イエス様体験をする時です。行き詰まりを感じているなら、喜びましょう。今こそ、イエス様が現れてくださいます。
キリスト者の成熟と言うものは、イエス様を個人的にどれだけ体験したかによります。頭の知識がどれだけあるかには、よりません。弟子たちは、復活のイエス様を体験し、成熟の歩みを一歩踏み出していったのです。
★ イエス様体験の始まり
イエス様は、岸から話しかけられました。5「子どもたちよ。食べるものがありませんね。」 “Friends, haven’t you any fish?”と。
すなわち、魚がとれませんでしたね? と言っています。弟子たちのイエス様体験は、この時から始まっています。まだ、岸にいるのが、イエス様かどうか遠くて分からなかった時です。しかし、イエス様の方では、それを良くご存知で、見守っていてくださっているのです。私たち状況を知っていてくださっているのです。後で、出てきますが、すでにイエス様は魚とパンで食事の用意をしてくれていたのです。「神様に知られている」という感覚は、私たちに安心を与え、そして、次のステップに私たちを導いてくれます。
私たちもそのようなことがあります。日常のふとした時に、あれ、前に祈ったことが今実現してる。とか、神様が出会わせてくださったと思える出会いがあった時など、神様の導きを感じます。そして、「ああ、私は、神様に知られてる」という確信が来るのです。
あなたが、主の導きを感じる時、イエス様体験がもう始まっているのです。
★ 右側に網をおろしなさい
次ぎに、岸にいる人が言うのです。6「舟の右側に網をおろしなさい。そうすれば、とれます。」“Throw your net on the right side of the boat and you will find some.”
弟子たちは、思ったことでしょう。「おかしなことを言う人だな」と。普通は、舟の左側に網を下ろして、漁をするものだったそうです。漁師なら、それが常識。それが、手順だったのです。一晩何も獲れなかったものが、右におろしたからといって何か変化があるとは思えません。
イエス様を体験する時には、「人間の常識」を忘れなければなりません。人間の常識と神様の業とは、無関係なのです。
弟子たちは、言われたとおりに網を下ろしました。するとたくさんの魚がかかりました。そこで、弟子たちは、それがイエス様だと気がつくのです。
神の一声に従う時、弟子たちは、奇跡を体験したのです。
成熟の鍵は、「言われたとおりにすること」です。
私は、若い時には、これがなかなか出来なかったのです。イエス様と深い交わりがない若いクリスチャンの時には、神の言葉に練られ、そして、群れ全体を見ているリーダーにどう従うかで成熟が表れます。私は、なかなかリーダーの言葉通りに従うのが難しかったことを覚えています。どうして、このやり方ではだめなのだろう。どうして、今、これをやらないといけないのだろう。主に仕えたい、教会を助けたい思いは、強かったのですが、この一言に従ってみるということが分かるまでに時間がかかりました。
これが、分からないと、クリスチャンとして成熟できないのです。私たちは、自分の国を確立するものではなく、神の国を建てるものだからです。時には、断片的にしか物事が見えていなく、どうして、今、これをするのか分からない時もたくさんあります。しかし、神の一声にしたがって見なければ、結果がでないのです。
★ 魚を持ってきなさい
9こうして彼らが陸地に上がったとき、そこに炭火とその上に載せた魚と、パンがあるのを見た。10 イエスは彼らに言われた。「あなたがたの今とった魚を幾匹か持って来なさい。」9 When they landed, they saw a fire of burning coals there with fish on it, and some bread.10 Jesus said to them, “Bring some of the fish you have just caught.”
イエス様はすでに一緒に食べるための魚も焼いて用意してくださっていた。
その上で、自分たちでとった魚も持ってきなさいと声をかけた。「自分たちで」とは言え、それは、イエス様の助けで獲ったものだった。
共に働き、共に報酬を分かちあう喜びを体験した。そして、ああ、そうだった、イエス様と過ごした三年間を思い起こしたことでしょう。
イエス様は、なぜ、弟子たちの取った獲物を持ってきなさいと言われたのでしょうか。聖書の中にイエス様のおっしゃった次のような言葉があります。
ヨハネ16:23-24
その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねません。まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが父に求めることは何でも、父は、わたしの名によってそれをあなたがたにお与えになります。24あなたがたは今まで、何もわたしの名によって求めたことはありません。求めなさい。そうすれば受けるのです。それはあなたがたの喜びが満ち満ちたものとなるためです。“And in that day you will ask Me nothing. Most assuredly, I say to you, whatever you ask the Father in My name He will give you. 24 Until now you have asked nothing in My name. Ask, and you will receive, that your joy may be full.
イエス様の言葉によって、その言葉が実現した。そこで、神の働きと、自分の働きが交わり一体化した。それを、確認するために、弟子たちの魚を持ってこさせたのです。それは、双方の喜びが増し加わるためでした。
良く私は、言いますが、天の国のお金は、喜びです。報酬は、喜びです。喜びの度合いが、私たちの報酬の大きさとなります。私たちが、祈り、神の言葉に従い、神のみ心がなることを体験する時に、喜びは、神の側と私の側で満ち満ちたものとなります。イエス様体験は、この喜びを私たちにもたらすものであります。必ず、天の報酬の伴うものであるのです。
★ 共に食事をした
13イエスは来て、パンを取り、彼らにお与えになった。また、魚も同じようにされた。13 Jesus came, took the bread and gave it to them, and did the same with the fish.
共に食事をするということは、とても親密な関係を作ります。食べ物を一緒に食べると心も開くそうです。ですから、ビジネスでも、取引先と一緒に食事をすると、商談がうまくまとまるのだそうです。
イエス様は、大酒の飲みの大食らいだと言われました。いつも、取税人や罪人、病人を訪ねてともに食事をしました。イエス様は、いつも私たちとの所に来て、私たちと親しくしたいと願っておられるのです。
「見よ。わたしは、戸の外にたってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする (ヨハネの黙示録3章20節)。」Behold, I stand at the door and knock. If anyone hears My voice and opens the door, I will come in to him and dine with him, and he with Me.
これは、クリスチャン教会にイエス様が語られた言葉です。イエス様は、私たちと親密さを保ちたい、いつも私たちのうちに来て、ともに食事をしたいと願っているのです。いつも、心のドアをノックしておられます。イエス様体験は、イエス様に心を開き、イエス様を心の中に入れなければ体験できません。
癒しや、解放も、イエス様をお招きしなければ、経験できないのです。
イエス様体験は、継続的なイエス様との個人的な交わりから来るのです。たくさん勉強して頭を鍛えても、私たちの霊は大きくなりません。私たち教会は、今まで頭を成長させることと霊を成長させることと勘違いしてきたと思います。
霊を養い育てるには、神の声が必要です。イエス様との親しい交わりが必要です。
今日、しばらく心をしずかにしてイエス様を心にお招きしましょう。。。。
ぼ
- ブログルメンバーの方は下記のページからログインをお願いいたします。
ログイン
- まだブログルのメンバーでない方は下記のページから登録をお願いいたします。
新規ユーザー登録へ