あなたは神からのしるし You are God's Sign
10月
27日
エゼキエル24:15-27
15 次のような主のことばが私にあった。
16 「人の子よ。見よ。わたしは一打ちで、あなたの愛する者を取り去る。嘆くな。泣くな。涙を流すな。17 声をたてずに悲しめ。死んだ者のために喪に服するな。頭に布を巻きつけ、足にサンダルをはけ。口ひげをおおってはならない。人々からのパンを食べてはならない。」18 その朝、私は民に語ったが、夕方、私の妻が死んだ。翌朝、私は命じられたとおりにした。19 すると、民は私に尋ねた。「あなたがしていることは、私たちにとってどんな意味があるのか、説明してくれませんか。」20 そこで、私は彼らに答えた。「次のような主のことばが私にあった。
21 『神である主がこう仰せられるとイスラエルの家に言え。見よ。わたしは、あなたがたの力の誇りであり、あなたがたが愛し、心に慕っているわたしの聖所を、汚す。あなたがたが見捨てた息子や娘たちは剣で倒される。22 あなたがたはわたしがするようにすることになる。あなたがたは自分の口ひげをおおわず、人々からのパンを食べなくなる。23 頭に布を巻きつけ、足にサンダルをはき、嘆いたり泣いたりしないようになる。ただ、自分たちの咎のために朽ち果て、互いに嘆き合うようになる。
24 エゼキエルはあなたがたのためのしるしとなり、彼がしたとおりを、あなたがたもするようになる。このとき、あなたがたは、わたしが神、主であることを知ろう。
25 人の子よ。わたしが、彼らの力とするもの、栄えに満ちた喜び、愛するもの、心に慕うもの、彼らの息子や娘たちを取り去る日、26 その日、のがれた者が、この知らせを告げにあなたのもとにやって来る。27 その日、あなたはのがれて来た者に口を開いて言え。もう黙っていてはならない。あなたが彼らのしるしとなるとき、彼らは、わたしが主であることを知ろう。』」
今週も引き続き、エゼキエル書を読んでいますが、4章から24章までエルサレム滅亡の預言がされてきました。そして、今日読んだ24章でその預言は終わります。24章の最後は、エルサレム滅亡の予告と宣言という形になってしまいました。
この章のはじめに語られている通り、そのたとえによっても、こびりついて取れない錆のようなイスラエルの罪でした。とうとう、エルサレムは滅亡します。
ちょうど、エルサレムが滅亡しようとしているその時に、神様は、エゼキエルに告知します。もう、さびがどんなにしても取れないから、いっそのこと全て鍋ごととかすと言われた神様の言葉があったあと、最後の言葉になります。
★ ことの重大さを一人ひとり噛み締めるべき
エゼキエル24:16
16 「人の子よ。見よ。わたしは一打ちで、あなたの愛する者を取り去る。嘆くな。泣くな。涙を流すな。17 声をたてずに悲しめ。死んだ者のために喪に服するな。頭に布を巻きつけ、足にサンダルをはけ。口ひげをおおってはならない。人々からのパンを食べてはならない。」“Son of man, behold, I take away from you the desire of your eyes with one stroke; yet you shall neither mourn nor weep, nor shall your tears run down.
・わたしは一打ちで、あなたの愛する者を取り去る。… エルサレム滅亡の預言はされていたが、ずっと語られていたが、まさに、一打ち、一瞬のうちにそれが起きる。エルサレムは、イスラエル人にとってはアイデンティティに関わるほど、愛する町、神のいる町、象徴的な町でした。
・嘆くな。泣くな。涙を流すな。声を立てずに悲しめ。死んだ者のために喪に服すな。… ユダヤの世界では、泣き屋がいるほど、お葬式では、盛大に泣いて、家族を慰め、悲しみを表現するのが習慣でした。しかし、誰にとっても、エルサレムは、愛する者。お葬式をしたところで、ユダヤ人全員が喪主となるわけです。神様は、声を出さずに一人で悲しみを噛み締めるように言われました。
・頭に布を巻きつけ、足にサンダルを履け。口ひげを覆ってはならない。…よく聖書の中で悲しみの最大の表現として、また悲しみや喪に服する人の表現として、灰を頭からかぶったり、するな。サンダルを放り出して嘆くのではなく、そのまま履いていなさい。そして口ひげは、尊厳の象徴ですが、それを覆うことは、不名誉のしるしであったが、それもしてはいけない。ありのままの、自分、開かれている時に、悔い改めなかった日常のままの姿で、悲しみなさいと言われているのです。
・人々からのパンを食べてはならない。… お葬式では、食べ物がでますが、そのようなことをするな。と言うのです。
悲しみを慰められたりするなと言うのです。
★ エゼキエルの妻の死
預言者エゼキエルは、先の言葉を朝、民に語った後、その日の夕方、なんと自分の大切な妻が死んでしまいます。エゼキエルは、神様が言われた通りのことを自らしました。
灰をかぶったりせず、泣き叫ばず、しずかに、悲しみを噛み締めます。
エゼキエルのその姿は、イスラエルの人々の中で非常に目立ちました。そんなことは、普通はしないからです。不思議がった民は、どうしてそんなことをしているのか、説明してくれと言いに来ます。
そして、エゼキエルは説明しました。
21 『神である主がこう仰せられるとイスラエルの家に言え。見よ。わたしは、あなたがたの力の誇りであり、あなたがたが愛し、心に慕っているわたしの聖所を、汚す。あなたがたが見捨てた息子や娘たちは剣で倒される。22 あなたがたはわたしがするようにすることになる。あなたがたは自分の口ひげをおおわず、人々からのパンを食べなくなる。23 頭に布を巻きつけ、足にサンダルをはき、嘆いたり泣いたりしないようになる。ただ、自分たちの咎のために朽ち果て、互いに嘆き合うようになる。
24 エゼキエルはあなたがたのためのしるしとなり、彼がしたとおりを、あなたがたもするようになる。このとき、あなたがたは、わたしが神、主であることを知ろう。
★ エゼキエルがイスラエルの民のしるしとなる
神様は、この通常の喪に服さないことについて、二つのことをおっしゃっています。
① ただ、自分たちのとがのために、朽ち果て、互いに嘆きあうようになる。
通常のように、大切な人を失った人を慰める代わりに、みなが失ったのだから、それぞれがことの重大さと、自分の罪の重さに向き合わなければならない。と言うことでした。
私たちは、新約の時代に生きていますから、恵みのメッセージがもちろん一番語られます。神様の赦しは、ただである。十字架で私たちの罪の身代わりとなってくれた、イエス様を信じるその信仰だけで、私たちは、救われる。。。というメッセージです。
しかし、よく注意していただきたいことがあります。
この福音は、簡単なように聞こえますし、救いはいともた易いものに聞こえるかもしれません。
しかし、十字架につけられたイエスを信じるということは、真心からの信仰でなければならないのです。どのようにして、真心からの信仰にいたるのでしょうか。
ことの重大さに気がついていることが大切です。
自分の罪の重さ。自分のどうしようもなさを認めていなければ、真心からの信仰には至りません。
また、真心からの信仰の実は、真の悔い改めに根ざしているものです。
ことの重大さに気がついている人は、もう、その罪から金輪際離れたいと思うものです。そう思うからこそ、神様の前に悔い改めるのです。
ただ、口先だけで、後悔したり、ごめんなさいと言うだけのものではありません。
180度、態度を変えるものです。
神様は、いくら前もって警告しても、悔い改めなかった民に、愛するエルサレムをいよいよ失ってから、ことの重大さに、自分の責任で向かうことを促されたのです。
私も、心の癒しのカウンセリングをしますが、本当に行き詰まってどうしようもない人しか、カウンセリングしないようにしています。。なぜなら、行き詰まりを感じていない人は、自分が変わらなければならないとは、自覚していないので、何時間も時間を掛けて、話を聞いて、導こうとしても、良い方向に向かうために、何も行動を起こさないからです。行動に移すことが大切です。
しかし、もうこれ以上生きていけないというほどに悩んでいる人は、すぐに変わります。そして、神様の教えをしっかり受け取り従います。
エルサレム滅亡は、悲しい悲しい出来事ですが、本当の意味で、民の態度を変えられる一番最後の時であったのです。
② エゼキエルは、民のしるしとなる。
不思議なことがおきました。それは、神の人、預言者エゼキエルの妻の死です。
エゼキエルは、迷うことなく、イスラエルの民に語られた預言のとおりに自分も行ないます。
神のメッセンジャーである、預言者は、しばしば、生きている神のメッセージとなります。エレミヤもそうですし、ホセアもそうです。神様にこれをせよといわれたことをしますが、必ずしも、自分の頭で理解できないこともあります。
神が召された人たちは、全世界への神の生きた手紙なのです。その手紙であるあなたを見たら、神のメッセージが分かるのです。
時に、エゼキエルの通ったような、辛い体験をすることがあります。
みなさんも、神に選ばれた、神のメッセンジャーです。新約に生きる私たちは、キリストがわたしちの内に住んであられるのですから、私たちは、生きながらにして神のメッセージを日々運んでいるのです。
皆さん方の人生の中でも、どうして、こんなに辛いことが起きるのだろうかと思うことはありませんか?
どうして、他の人には、自然にできるようなことでも、私には難しいのだろうかとか。
私にもあるのです。
そして、この箇所を読んだときに、神様が語られました。
「あなたを人々のしるしとしている。」と。
悲しんだのは、民だけでしようか。エゼキエルだけでしょうか? エルサレム滅亡のために一番悲しんでいるのは、神ご自身ではないでしょうか。
神様は、その友に、悲しみや辛さ、感情を分かち合われることがあります。アブラハムを見てください。彼は、約束の子イサクをささげるように言われ、本当に手を下そうとしました。我々の神様は、まさに、それをされた方ではないでしようか。神様は、ご自分の一人子イエス・キリストを手放さなければならなかったのです。
その辛さをその友、アブラハムと分かち合ったのです。
アブラハムは、また、民のしるしとなりました。主の山には備えがある。主は、贖いを具えてくださるという証し、しるしとなったのです。
私たちの中で、苦しんでいる方、悩んでいる方がいたら、祈りましょう。
神様が、あなたが、その苦しみを神様にあって正しくとおり、回復していくことを人々へのしるしとされます。
メッセージとされます。あなたの人生を、神様からの生きたメッセージとされるのです。
ぼ
投稿日 2015-10-27 08:54
ワオ!と言っているユーザー
投稿日 2015-10-27 09:52
ワオ!と言っているユーザー
投稿日 2015-10-27 15:01
ワオ!と言っているユーザー