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休みを得た日-プリムの祭り A day of rest – Purim

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2014年9月14日日曜日礼拝 音声は、http://youtu.be/EZvGQKevl9Q から

エステル記9章14-19節

14 そこで王が、そのようにせよ、と命令したので、法令がシュシャンで布告され、ハマンの十人の子は柱にかけられた。15 シュシャンにいるユダヤ人は、アダルの月の十四日にも集まって、シュシャンで三百人を殺したが、獲物には手をかけなかった。16 王の諸州にいるほかのユダヤ人も団結して、自分たちのいのちを守り、彼らの敵を除いて休みを得た。すなわち、自分たちを憎む者七万五千人を殺したが、獲物には手をかけなかった。17 これは、アダルの月の十三日のことであって、その十四日には彼らは休んで、その日を祝宴と喜びの日とした。18 しかし、シュシャンにいるユダヤ人は、その十三日にも十四日にも集まり、その十五日に休んで、その日を祝宴と喜びの日とした。19 それゆえ、城壁のない町々に住むいなかのユダヤ人は、アダルの月の十四日を喜びと祝宴の日、つまり祝日とし、互いにごちそうを贈りかわす日とした。

22-28節

自分たちの敵を除いて休みを得た日、悲しみが喜びに、喪の日が祝日に変わった月として、祝宴と喜びの日、互いにごちそうを贈り、貧しい者に贈り物をする日と定めるためであった。23 ユダヤ人は、すでに守り始めていたことを、モルデカイが彼らに書き送ったとおりに実行した。24 なぜなら、アガグ人ハメダタの子で、全ユダヤ人を迫害する者ハマンが、ユダヤ人を滅ぼそうとたくらんで、プル、すなわちくじを投げ、彼らをかき乱し、滅ぼそうとしたが、25 そのことが、王の耳に入ると、王は書簡で命じ、ハマンがユダヤ人に対してたくらんだ悪い計略をハマンの頭上に返し、彼とその子らを柱にかけたからである。26 こういうわけで、ユダヤ人はプルの名を取って、これらの日をプリムと呼んだ。こうして、この書簡のすべてのことばにより、また、このことについて彼らが見たこと、また彼らに起こったことにより、27 ユダヤ人は、彼らと、その子孫、および彼らにつく者たちがその文書のとおり、毎年定まった時期に、この両日を守って、これを廃止してはならないと定め、これを実行することにした。
28 また、この両日は、代々にわたり、すべての家族、諸州、町々においても記念され、祝わなければならないとし、これらのプリムの日が、ユダヤ人の間で廃止されることがなく、この記念が彼らの子孫の中でとだえてしまわないようにした。

今週は、エステル記7章から10章までを読みました。今日は、特に9章からお話ししたいと思います。
みなさん、プリムの祭というのをご存じですか。イスラエルのお祭りで有名です。V18に続いて、22-28節にも説明があるとおりに。
本当は、あのユダヤ人絶滅をたくらんだハマンにより、くじ(プル)が投げられ、ユダヤ人大虐殺の日にちが決められた。しかし、神様の素晴らしい計らいによって、その日は、ユダヤ人の救いの日となった。インドからエチオピアまでの広範囲にわたるペルシャの各州の全ユダヤ人が救われました。それで、プリムと呼ばれるようになった。そして、悲しみが喜びに変った日として祝宴と喜びの日とし、互いにごちそうを贈りかわす日となった。
そして、V28 にモルデカイは、これを代々にわたり祝うようにと命令している。現に、今もイスラエルでは、この祭りをちゃんと祝っている。この祭りのときには、このエステル記が読まれるそうです。神様は、必ず、ユダヤ人を守られる。神に選ばれている者は必ず神の守りがあるということを思い出すことができるように。

ロマ8:39
高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から私たちを引き離すことはできません。nor height nor depth, nor any other created thing, shall be able to separate us from the love of God which is in Christ Jesus our Lord.

8章ではは、エステルの願いが王に聞き届けられ、ユダヤ人を殺せという証書decreeを取り消した。また王は、ユダヤ人を殺そうとするものたちを根絶やしに滅ぼすことを許し、彼らの家財もかすめ奪うことを許した。
そして、9章では、ユダヤ人たちが襲ってくる敵を滅ぼしたことが書かれています。
9章V15,16 を見てみましょう。16節だけ読みます。
王の諸州にいるほかのユダヤ人も団結して、自分たちのいのちを守り、彼らの敵を除いて休みを得た。すなわち、自分たちを憎む者七万五千人を殺したが、獲物には手をかけなかった。

◎獲物には手をかけなかった。  みなさん、ヨシュア記やサムエル記、最近のところでは思い出すのではないでしょうか。聖絶completely destroyedということばを思い出しますね。サムエル記では、神様はサウルに動物もみな殺せと言われました。私たちに適用するならば、これは、罪を根絶やしにするということです。すべてを神様のものとするということです。敵に関するものは、一切絶やすのです。ユダヤ人たちは、王に獲物をとっても良いといわれたが、一切それをしなかった。聖絶のコンセプトをもって、望んだのであろう。
◎敵を除いて休みを得た。 ユダヤ人は、敵を倒したので、もう命の心配をすることはありません。敵を倒すまでは、どこから敵が来て自分たちの命を狙うかわからない。私たちも、敵に脅かされていては、休みを得ることができません。

★ 私たちへの適用
私は、この箇所を読んでとても語られることがありました。

① 徹底的に、敵を滅ぼし、そして、分捕りものもとらなかったユダヤ人。
これは、私たちの罪に対する態度を神様は、示しておられる。罪に対して、敏感に、そして、完全に取り除こうという態度。
罪は、パン種のよう。小さいものだが大きく全体を膨らませる。聖霊様に敏感に、悔い改めることをすると喜びがかえってくる。罪の種というのは、ほんの小さい隙間から入ってきて。知らず知らずの内に私の心を支配するようになる。

(私の先週の証し)ふとした出来事をとおし、自分の心が罪に支配されたことを神に示され、悔い改めた。すると、神様の声がより聞こえるようになった。そして、喜びが心に戻ってきた。

☆ 心のバロメーター: 喜び
みなさん、喜びは、バロメーターです。喜びは天の御国のお金や食べ物、私たちを生かすのようなものです。

ヨハネ4:32、34
イエスは言われた、「わたしには、あなたがたの知らない食物がある」。・・・イエスは彼らに言われた、「わたしの食物というのは、わたしをつかわされたかたのみこころを行い、そのみわざをなし遂げることである。」

ヨハネ15:11
わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためです。

喜びのある人は、心も身体も元気です。そして、成功的に、勝利の中を歩んでいることに、私たちは気がつきます。
喜びがないなら、きっとあなたは、神様以外のことで心がいっぱいになっています。神様のためにしていると言って何かをしていても、喜びが無ければ、きっと違うことのためにしているのです。喜びがないなら、全てをやめて、神の前に礼拝するときです。悔い改めが必要なときです。

② 敵を除いて休みを得た。
罪が入ってから、人類に休みがなくなった。またこの時代は、大人も子どもも休みの無い時代。聖書の神は、休みの神。聖書の初め所から休みについて語っている。
またイエス・キリストは、休ませてあげようと私たちを招いている。

ヘブル4:10-11

10 神の安息に入った者ならば、神がご自分のわざを終えて休まれたように、自分のわざを終えて休んだはずです。11 ですから、私たちは、この安息に入るように力を尽くして努め、あの不従順の例にならって落後する者が、ひとりもいないようにしようではありませんか。

新約の私たちは、イエス・キリストによって休みを得ている。私たちの敵は、罪であり、罪がもたらした死です。イエス様が十字架の上で、私たちの罪の身代わりとなって、すべての刑罰を負って死んでくださった故に、私たちにとっては、罪の力は、何の効力もなくなっているのです。そして、安息に入れられたのです。罪と格闘しなくても、いいのです。このイエス様を信じる者には、かならず、永遠の命がもらえます。天国に行ける約束がされるです。イエス様故に。何の努力もなく。何も支払わないでです。
どんなにお金持ちも、こういいます。「すべての夢がかなった。欲しいものもこれ以上ない。あとは、長寿だけだ。」と。すべての人は、永遠の命を求めている。
永遠の命を得るのに必要なのは、信仰です。
信仰とは、信じることです。自分のやり方を捨て神様に委ねることです。サレンダー。することです。自分の働きをやめることです。なぜなら、すべてはイエス様が闘って勝ち取ってくれたからです。ですから、信仰とは、安息から来ているともいえます。安息なければ、信仰はないのです。

しかし、私たちは、一向に自分の働き、自分のやり方、自分の考え、自分で何とかしようとするその働きから離れられない性分がしみついています。
新約の私たちは、休みからすべてが始まることをもう一度思い出しましょう。イエス・キリストによって。戦いは、すでに勝利。勝利から始まっていると。

★忘れないように。。 Awareness, 私たちの意識
敵を除いて休みを得た。
この休みを得た日を祝うのがプリムです。そして、これを忘れないように。覚えているようにというのが、ユダや人への命令でした。

私たちの意識がどこにあるかによって、私たちが天にアクセスできるかが決まってくる。
私たちの神は、あなたの口を大きく開けよ、私はそれを満たそうと言う神。また、求めるものに与えられる。また、探すものに見つけられる神。

ビル・ジョンソン師の聖霊の描写。はとのようにというが、実際自分の肩にはとをのせて歩いていることを想像するなら、どのくらい、聖霊さまを意識して行動しなければならないかが分かるだろう。
私たちの意識のあるところから、神様の天の国のアクセスがある。
このアクセスがあるなら、私たちの行動においても休みがある。
自分で、自分を打ちたたいて、何かに到達しようと躍起にならなくても、単純な神の霊への従順があれば、神の国の目的を達成できるのです。

今も、ユダヤ人は休みを得た日プリムを祝っています。忘れないためです。
私たちも、休みに入り、また安息に入れられたことを日々確認し、罪を自分から除くために絶えず敏感に聖なる神と心一つに喜びと安息の中を生きていきましょう。



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MR-職人
MR職人さんからコメント
投稿日 2014-09-16 08:28

<ユダヤ人~イスラエル人>は昔から戦争が好きなのか・・
先日亡くなった <山口淑子~李香蘭さん>のコメント <平和は当たり前じゃない>が胸を打ちます。

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bokushi
bokushiさんからコメント
投稿日 2014-09-17 02:52

MR. 職人様
山口さんは、そのようなことをおっしゃってたのですか。本当にそうですね。人類に罪が入ってから、平和というものは、戦って勝ち取らなければならなくなりました。誰かの犠牲の上に平和はあり、平和は積極的に守ろうとしなければ奪われてしまう世の中となってしまいました。日本は、平和ぽけと言われています。それは、犠牲の払われていることに無知であるからでしょう。アメリカに住んでみて初めて理解できました。日本からくる若者たちは、危険、平和でないことに無防備です。また自分たちの権利については、無関心です。日本は、それだけ、誰かに守られているだからでしょう。

イスラエルは、エステル記を開いて下さったら、分かるのですが、戦争が好きなのではなく、絶滅の陰謀に立ち向かわなければならなかったのですね。

確かに、戦争状態といえば、現在イスラエルでは、大変なことになっていますね。イスラエルに平和が来るように、パレスチナに平和が来るように、今日もお祈りしたいと思います。

ぼ

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Smithe957
Smithe957さんからコメント
投稿日 2014-09-16 18:01

You are my breathing in, I possess few blogs and very sporadically run out from to brand. eaegfgkfbcedfgee

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bokushi
bokushiさんからコメント
投稿日 2014-09-17 02:55

Hi, Smithe957,
Thanks for your comment.
Your writing is very poetic. 
You must be very good blogger. 

I will keep praying for myself that God gives me revelation and inspiration. 

bokushi

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