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3 トラウマ・心の傷の癒やし Empower Seminar

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トラウマ・心の傷・感情の癒やし |THREE

セミナー録音版は、youtube にて http://youtu.be/0zDcALbE1o8

私たちの問題解決の鍵は、感情の癒やし。心の中の痛みが消えたとき、初めて真の意味で人を赦せるようになる。人を赦せないのは、私たちの心の痛み、感情が癒えていないため。私たちの心の痛みは、もう消えているでしょうか。もし痛みが残っているなら、イエス様による、感情の癒やしが必要です。
 
イエス様と心の傷の癒やし

 イエス様ご自身、心の痛み、感情の傷を受けた方でした。また、心の傷ついた人たちを癒やす油注ぎを受けてこの地上に来られました。

イザヤ53:3-5

彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。

ルカ4:18-21  

「わたしの上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油をそそがれたのだから。※主はわたしを遣わされた。捕らわれ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために。しいたげられている人々を自由にし、主の恵みの年を告げ知らせるために。」イエスは書を巻き、係りの者に渡して座られた。会堂にいるみなの目がイエスに注がれた。 イエスは人々にこう言って話し始められた。「きょう、聖書のみことばが、あなたがたが聞いたとおり実現しました。」

※主はわたしを遣わされた。は、英語の聖書では、to heal broken hearted という言葉が遣わされたの目的語として付いている。

そして、私たちの感情の癒やし主であるイエス様は、きのうも、今日も、いつまでも同じ方です。イエス様は永遠から永遠までおられ、時間を作られた方です。私たちは、過去を変えたい、でも、過去が変えれないからいつまでも過去を引きずるしかないと考えがちですが、キリスト・イエス様にあっては、私たちの過去も贖われ、回復させられることが可能なのです。時間を所有しておられる方は、時間を越えてあなたにミニストリーすることができるお方です。このお方を信頼しましょう。

心の傷が引き起こす問題

 トラウマと心の傷は、それに派生し、また軸として多くの問題を生み出します。

① 心の傷は、家族の中から始まり、家族全体に影響を及ぼす。
    ・見ないふり … 現実から目をそらす  
    ・無言を保つ … 誰にも家族の問題を話さない
    ・感覚の麻痺 … 自分の感情や境界線に関して
    ・注意深くする … 誰も信頼することができない
    ・完璧になろうとする … 見返りがあるから

② 心の傷は、その人の全人に影響する。
    ・肉体 … 数々の病気や不調
    ・行動 … 自虐的、成長しない、感情を閉ざす
    ・考え … 痛みの伴うフラッシュバック、ungodly belief、不信、歪んだものの見方や目標。
    ・感情 … いつも動揺する、否定的な感情、つまり、恐れ、憎しみ、自分を憎む、怒り、悲しみ、不信、恥、拒絶、見捨てられた感
    ・霊 … 鈍い、抑圧を感じる、徐々に命の流れが薄れていく、神様から遠ざかる。

③ 心の傷は、他人を傷つける。
④ 心の傷は、うそ(Ungodly belief)の確立を導く。
⑤ 心の傷は、継続的に傷つき易い不安定な心の状態を作り、失望感に導く。
⑥ 心の傷は、恥じをもたらす。
⑦ 心の傷は、ディフェンスメカニズム(壁やコントロール癖)を作る。
⑧ 心の傷は、自分に「仮面」をつけさせるようにする。
⑨ 心の傷は、成長を妨げる。
⑩ 心の傷は、神への怒りや失望に導く。
    ・神様、あなたはあの時どこにおられたのですか? ・神様、もしあなたが私を愛していたなら、こんなことになる前にとめてくれたらよかったのに。・どうしてあなたは私の祈りに聞いてくれないのですか。等々

⑪ 心の傷は、感情の封鎖を起こす。
⑫ 心の傷は、性格を分裂させる。
⑬ 心の傷は、悪霊からの圧制を導く。


心の傷の癒やしのプロセス

 それでは、感情の癒やしはどのように成されるのでしょうか。

もちろん、私たちが探すのは、うそ、神様から来ていない信条、また、赦していない心です。しかし、それらを手放したくても、人を赦したくても、赦しきらないときがあります。
それは、感情に癒やしが来ていない場合です。感情の中に痛みや混乱がある限り、完全に人を赦すことができません。

Ⅰ 心の感情を注ぎだす

私たちの感情の癒やしのためには、感情を注ぎだすことが必要です。<感情を出し切るまで、癒やしを体験できなかった私の例>

私たちは、誰に感情を注ぎだすのでしょうか。それは、神様にです。神様は、私たちのお父さんですから、私たちの感情を受け止めてくださいます。幼い子が転んだり、けんかをして悔しい思いをしたときに、まっさきに、お父さん、お母さんのふところに泣いてとびこみます。そして、ひとしきり泣けば、すっきりしてまた遊びにできけます。ちょうどそのように、私たちも天のお父さんのところに真っ先に行けばいいのです。
感情の傷からの解放の証し…私が人に言うのをやめ、神様に感情を注ぎだしたとき、癒やしが始まった。
聖書の中では、モーセやダビデが自分の辛い感情を神様に表現し、ぶつけているいい例ですね。

モーセ 民数記11:10-15

モーセは、民がその家族ごとに、それぞれ自分の天幕の入口で泣くのを聞いた。主の怒りは激しく燃え上がり、モーセも腹立たしく思った。モーセは主に申し上げた。「なぜ、あなたはしもべを苦しめられるのでしょう。なぜ、私はあなたのご厚意をいただけないのでしょう。なぜ、このすべての民の重荷を私に負わされるのでしょう。私がこのすべての民をはらんだのでしょうか。それとも、私が彼らを生んだのでしょうか。それなのになぜ、あなたは私に、『うばが乳飲み子を抱きかかえるように、彼らをあなたの胸に抱き、わたしが彼らの先祖たちに誓った地に連れて行け』と言われるのでしょう。どこから私は肉を得て、この民全体に与えなければならないのでしょうか。彼らは私に泣き叫び、『私たちに肉を与えて食べさせてくれ』と言うのです。 私だけでは、この民全体を負うことはできません。私には重すぎます。 私にこんなしうちをなさるなら、お願いです、どうか私を殺してください。これ以上、私を苦しみに会わせないでください。」     


ダビデ 詩篇142編

私は主に向かい、声を上げて叫びます。声をあげ、主にあわれみを請います。私は御前に自分の嘆きを注ぎ出し、私の苦しみを御前に言い表します。私の霊が私のうちで衰え果てたとき、あなたこそ、私の道を知っておられる方です。私が歩く、その道に、彼らは、私に、わなを仕掛けているのです。私の右のほうに目を注いで、見てください。私を顧みる者もなく、私の逃げる所もなくなり、私のたましいに気を配る者もいません。主よ。私はあなたに叫んで、言いました。「あなたは私の避け所、生ける者の地で、私の分の土地です。私の叫びに耳を留めてください。私はひどく、おとしめられていますから。どうか、私を迫害する者から救い出してください。彼らは私よりも強いのです。私のたましいを、牢獄から連れ出し、私があなたの御名に感謝するようにしてください。正しい者たちが私の回りに集まることでしょう。あなたが私に良くしてくださるからです。」

神様に、心を注ぎだしてもいいのです。さあ、神様に話し始めましょう!


Ⅱ イエス様を見出す

心を神様に注ぎだし、文句も不満も疑問も感情とともに神様の前に注ぎだしているうちに、心が平安になっていくことでしょう。

※あまりにも、燃え上がる感情が高まり、おさまらない場合は、悪霊の影響があると考えられます。その場合は、契約の解除、誓いの言葉などのミニストリーにもどり、そちらをまず取り扱います。

きのうも、今日も、いつまでも同じイエス様に、痛みの光景の中にきていただきましょう。今まで、痛みが大きすぎて、その場所にイエス様を迎えることなど考えたことも無かったかも知れません。しかし、祈りの内に、その光景にイエス様をお迎えしましょう。
ある人は、イエス様があなたを守っているのが見えるでしょう。またある人には、イエス様があなたの代わりに戦っているのが見えるかもしれません。ある人は、イエス様があなたを抱きしめて優しい言葉をかけている光景が見えるかもしまれせん。
悲惨な出来事の只中にいて、イエス様のあたたかさ、愛に触れるとき、人の心、感情の傷は癒やされていきます。
人間は、あまりにも辛い体験をすると、自分を守るために、その感情にふたをして毎日痛みに直面しないですむようにしています。ですから、そのシステムが強く働いている人たちには、もちろん、一度に感情を出すことが難しいことがあります。その場合は、一度だけではなく、何度も、何ヶ月かおきに、神様に導かれるときにやってみるといいでしょう。


Ⅲ 完全な赦しへ

感情が落ち着き、イエス様に触れていただいたら、今度は、あなたの心の中に一つの変化が出てきているのが分かるでしょう。今までは、できれば、赦したくない。聖書に赦しなさいと書いてあるからこそ、赦しますと言うが、感情がゆるさなかった人がいませんか。
心を神に注ぎだした人は、今度は、自然にその人を赦したいと思うものです。というのも、いわば相手に負わせている自分の感情の負債というものをイエス様が払ってくれたので、もう相手を責める気にならないからです。そして、赦せるようになるでしょう。
そして、今後は、同じ光景を思い出しても、今までのように痛みは思い出さなくなるでしょう。また、自分が、相手を完全に赦せていることにびっくりすることでしょう。


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