“梅に想う”《襍囈 ・/・古往今来306》

緋梅系 一重 紅千鳥 べにちどり
学名:Armeniaca mume"benichidori"
(Prunus mume Sieb. & Zucc. f. mume)

うめ (梅)   バラ科(Rosaceae)
学名:Armeniaca mume (Prunus mume Sieb. & Zucc. f. mume)
別名:コウブンボク(好文木)、コノハナ(木花)、カザミグサ、ハツナグサ、
観賞用園芸種、カンコウバイ(寒紅梅)、ミカイコウ(未開紅)、
白花園芸種、ギョクエイ(玉栄)、ヤエカイドウ(八重海棠)、ミヤコニシキ(都錦)
今や数百種あるのでは??


野に彩りが少ない季節にあって楚々とした美しさを魅せる「梅花」。
紅梅・白梅、そんな中に地名的に豊後梅がある。
その地、「豊後」には並々ならぬ熱い視線を向けて来た。

人生恨むことなかれ ひと知るなきを 幽谷深山 花おのずから紅なり
・・・三浦梅園・・・

今なお鉄道が通っていない国東半島、江戸の昔は、いかなる地であったか!?!
昭和の時代に参っても素朴な所であった。
そんな自然豊かな地に、江戸期に富士山の如く孤高・崇高な学者があった。
儒学と洋学を調和させ独自の自然哲学で大宇宙の原理を解明しようとした偉人。
江戸中期の自然哲学・博物学者、思想家とも伝えられている。
独学独想で構築された論理は、「条理学」と称され今日に在っても輝いている。
現在の大分県国東市安岐町富永で生まれ、学問の師はいない。
本名は晋(すすむ)、梅の花を愛で自ら「梅園」と名乗った。
旧宅には、夥しい原稿が残っており実物を拝すると実に難解だがその量には圧倒される。
孤高の真理探究、当時、僅かな西欧の自然科学論文は、漢訳され中国から長崎に渡来していた。
梅園の論理を読むと西欧の実証的な学問方法を貪っていたやに見えるが、
その実は、東洋の「陰陽の法則」を独特の論理構成でまとめている。
自然界現象に規則性を見い出し、これを「条理」と名付けた。
物理を梅園は、数学・数式によらず、緻密な図形を基に思索に耽っている。
梅園が自分の思想を述べた著作には畢生の大著「玄語(げんご)」のほか、
「贅語(ぜいご)」と「敢語(かんご)」があり「梅園三語」と呼ぶ。
この三著作が梅園の思想の骨格を成すもの。だが、生前に印刷されたのは「敢語」だけ。
当時の多くの学者に受け入れられなかったのだろう。あまりにも難解であったが故に。
難解な余り、梅園自身それを他の学者に理解を求めていない。
梅園は近隣諸藩の仕官の招聘を固辞し、生涯、三回の旅行を除いては死ぬまで郷里を離れず、
学問と思索の日々に没頭している。
梅園の学問は、天文事・物理・医学・博物・政治・経済・文学に及び百科事典的なものまで在る。
それらのすべては、天地万物の条理を究めていくために必要なものだったのだろう。
旧宅等に生涯をかけて著した原稿はいまも残っており、思索を重ねた屋敷も残されている。
「理窟と道理との辨」
『理窟と道理とへだてあり。理窟はよきものにあらず。たとへば親羊をぬすみたるはおやの惡なり。
親にてもあれ惡は惡なれば直に訴ふべしといへるは理窟なり。
親羊を盗しは惡ながら、親惡事あれば迚子是をいふべき樣なしとてかくしたるは道理なり。
人死してはふたゝびかへらず、歸るべきみちあらば、なげきても歎くべし。
かへらぬみちなれば歎きて益なしといへるは理窟なり。
人死して再かへらず、歸るべき道あらば歎ずともあるべけれど、かへらぬ路こそ悲しきなど歎くは道理也。』
とてもおもしろく読める。常用漢字体に置き換えると、
    「理屈と道理との弁」
理屈と道理と、隔てあり。理屈は、よきものにあらず。
たとへば、親、羊を盗みたるは、親の悪なり。
親にてもあれ悪は悪なれば直(すぐ)に訴ふべし、といへるは、理屈なり。
親、羊を盗みしは悪ながら、親、悪事あればとて、子、是(これ)をいふべき様(やう)なしとて隠したるは、道理なり。
人死しては、再び帰らず、帰るべき道あらば、歎きても歎くべし、帰らぬ道なれば歎きて益なし、といへるは、理屈なり。
人死して再び帰らず、帰るべき道あらば歎かずともあるべけれど、帰らぬ路こそ悲しき、など歎くは、道理なり。
・・・・・本文は、国立国会図書館の近代デジタルライブラリーに入っている・・・・・

日本を代表する「富士山」と同様に博物学者(思想家)として歴史上でも高く聳える偉人であろうか。
梅園先生に直接お話をお聞きしてみたい衝動に駆られる。
「反観合一」と言う哲学の奥義を!?!


梅の記述では『古事記』(712)・『日本書紀』(720)・『風土記』(early 8c.)には見られない。
最古のものは、葛野王(かどののおう、669-705)が作った「春日鶯梅を翫(はや)す」詩(『懐風藻』)。
江戸期以前は、上流階級の人々の庭木であったのかもしれない。
流離いの俳人、 芭蕉(1644-1694)の句に、
むめが香に追もどさるゝ寒さかな
春もやゝけしきとゝのふ月と梅
忘るなよ藪の中なる梅の花
菎蒻(こんにゃく)のさしみもすこし梅の花
梅若菜まりこの宿のとろゝ汁
やまざとはまんざい遅し梅花
等々あるが、何とも言えぬ風情が漂う。

一尺に足らぬ木ながら百あまり豊けき紅梅の花こそ匂え
紅梅の散りたる花をわが手もて火鉢の燠(おき)のうへに焼きつつ
(1940,齋藤茂吉『のぼり路』)

梅に懷いをはせた歴史上の偉人、学ぶにも多過ぎる。

2月2日誌「藤沢市・長久保公園」
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梅と言えば梅の紋のある太宰府天満宮で、飛び梅が有名ですね。天満宮の祭神菅原道真公は、さぬき国の国司として4年間香川に赴任していた記録が有ります。この梅の時期に時間があると菅原道真公ゆかりの史跡を訪ねてみたいですね。
投稿日 2015-02-19 07:41

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コメントありがとう、ペガサスさん。

九州は、僕にとって「まほろばの国」です。
道真公が、香川に滞在していたとは!!

鎌倉の「荏柄天神」は道真公御祭神神社です。
投稿日 2015-02-19 17:29

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