あれから2年、時の流れは早い!?!

画像1;公共施設の解体が進んだ... 画像1;公共施設の解体が進んだ陸前高田市内(東海新報社提供)
津波はコンクリートの壁を破って... 津波はコンクリートの壁を破って、陸へ押し寄せた=2011年3月11日、岩手県大船渡市三陸町(東海新報社提供)
宮城県岩沼市の計画。 宮城県岩沼市の計画。
三陸海岸線に予想だもしない大災害をもたらした東北大震災、早い、あの日から明日で2年。
拙宅ある神奈川県も地震には怯える地域。だが何となく他人ごとのような感じでの生活環だ。

被災地の全体像が見えない。それ程に広範囲で被災している。膨大な義援金が集まったと聞き及んでいるが、その全体像・・使途もよくわからない。
できることは何か?? 小さな我々仲間では・・個々の知り合いだけしか応援できない。それでも必死な被災過疎地の人々を思うと如何ともし難い。

改めて、被災地の現状を・・・甚大な被害、未だ進まない復興現場の凄惨さをリィポートしている記者の記事を紹介したい。


【忘れない、立ち止まらない】内外に広がる風化 「震災の恐怖」が「薄れていく恐怖」に
上記の表題で被災地;岩手県大船渡市・陸前高田市・住田町を販売エリアとする地域紙「東海新報」社の記者、鈴木英里(すずき・えり)氏の叫び。

            *   *   *   *   *   *

 「復興も進んで、だいぶ落ち着いたようですね」

 こうねぎらわれるたび、思わず言葉に詰まる。こちらが曖昧な笑みを返すだけなのを見て、相手もいぶかしく思うらしい。気まずい思いをさせて恐縮なのだが、なんと答えたら分かってもらえるだろうと考えを巡らせるうちに、つい絶句してしまうのだ。

 東日本大震災発生から、まもなく丸2年を迎える。

 カーテンを体に巻きつけ、寒さをしのいだ3月。消えた家族を捜し、徒歩で遺体安置所を回る毎日。足の踏み場なくうごめく蛆(うじ)、そして蜂ほどもある蠅の大群におびえる夏-そうした日々は確かに過ぎた。

 仮設住宅への入居で一段落、町にあふれた報道陣やボランティアも大半が去り、住民も落ち着きを取り戻したかのように見えるだろう。

 だが決して、被災前の暮らしが戻ったわけではない。むしろ、以前にも増して“失い続けている”と言っていい。

 陸前高田市では被災した公共施設の解体が始まり、昨秋から建物との「お別れ式」が相次いだ。がれきが片付けられ、初めから何もなかったと言わんばかりに広がる更地。ひとつ、またひとつと“町の記憶”が失われていく(画像1)。

 以前を知らない人にどれほど言葉を尽くしても、もはや「そこに町があった」と想像することはできまい。空恐ろしいのは、視界から消えた途端、そこで暮らしていた者さえ、どこに何が建っていたのか定かでなくなってしまうことだ。

 内にも外にも広がる風化。「震災の恐怖」が、「薄れていく恐怖」。このまま忘れ去られるばかりなのかと、住民は焦燥感を募らせる。

 さらに、だだっ広い浸水域を目にし、改めて「ここへ住むことまかりならぬ」という現実を突き付けられる。高台移転の実現は何年先になるのか、具体的なスケジュールはまだほとんど示されていない。見通しのきかぬ濃い霧中へほうり出されたような歯がゆさは諦念に変わり、「もうずっと仮設でいい」という声が、高齢者のみならず若い世代からも聞こえ始めた。

 これまで無我夢中で走ってきた人たちが、ふとわれに返り「まだこれしか進んでいないのか」と立ち止まってしまうと危険だ。下手をすれば、そこから先に進む気力を保てなくなってしまうからだ。

 この2年、闇の中から必死にはい上がってきたものの、多くの人は心身ともに、いつまた転げ落ちるか分からないギリギリのバランス上にある。被災地ではあの日から何も“終わって”などいない。それどころかまだ“始まって”すらいないのだ。


   【忘れない、立ち止まらない】「防潮堤」で気付かされた自然へのおごり(画像2)

「12・5メートルにするって、いつ、どう決まったんだ」「そんなもの本当に意味あんのか」。

 陸前高田市の防潮堤づくりに関する行政や議会とのやりとりのなか、市民はしばしばいらだちを滲ませた。

 4階建てビルに相当するコンクリートの壁が、海沿いに延々と続く…。想像するのも難しい非日常的光景であると同時に、それだけの高さ・規模と聞いて、まず住民が思い浮かべたのは、釜石市の全長2キロにわたる防波堤ではなかったろうか。

 「世界最新」のギネス記録を誇り、30年の歳月をかけて2009年に完成したこの“海の砦(とりで)”は、東日本大震災の大津波で崩壊。総工費1200億円が一瞬で水泡に帰した。

 津波を6分間遅らせる効果があったとも分析されているから、全く無意味だったとはいえない。だが。

 「人の造るものには限界がある」-。それがこの津波を経験した人に等しく宿る思いだろう。

 こうしたなか、「森で防潮堤を築こう」というプロジェクトが注目されている。埋め立てたがれきの上に盛り土して常緑広葉樹を植え、堤防を“育てる”-。横浜国立大の宮脇昭名誉教授が提唱するこの方法は、岩手の大槌町、宮城の岩沼市などで実現を目指すところだ(画像3)。

 10~15年かけて地中深く根を張った木々は、押し波に耐えるだけでなく、引き波で人や物が流出するのを防ぐ。実際、カシやタブノキの木立がこの津波にビクともせず立ち、何十台もの車をせき止めている光景は圧巻だった。

 発災後まだ半年のころ、京都の高僧と陸前高田で出会った。その僧が「人間の傲慢さに、自然が警鐘を鳴らしたのだろう」と口にした。「罰があたったのだ」。言外にその意を感じ取り、「なぜその罰を、東北がかぶらねばならなかったのですか」と叫びそうになるのをようやくこらえた。傷口に塩を塗るような、あまりに心ない物言いに思えてならなかった。

 だが今なら理解できる。人は自然のもとに、謙虚であらねばならないのだと。征してやろうなどというおごりは捨て、その力を借り、共存を探る姿勢が必要なのだ。

 大船渡、陸前高田の両市で、いまだ300人の行方が分からない。毎月一斉捜索が行われているが、この1年数カ月で見つかったのは「人骨がたった2片だけ」という事実を前に、森の防潮堤構想に携わる陸前高田出身の男性が思いを吐露した。

 「鎮守の森があれば、人が海へ“持っていかれる”のを防げたかもしれないのに」…。

 戻らない家族を、仲間を待ち続ける人たちの無念さを、置き去りにしてはならない。



※横浜国立大の宮脇昭名誉教授は、日本で「自然保護」という言葉・定義を定着させた方。自然を生かした町づくりを、40年も前から提唱されている。※
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