6月
15日,
2007年
バリの怖い話
2月12日のことです。
今回はウブドの田舎のホテルで滞在したので、中部の観光地を回る事が出来ました。
その日は、大統領別荘のあるタンパクシリンを見た後、まだ一度も行ったのない「グヌンカウイ」に向いました。(写真)
すでに時計は3時を過ぎており、テロ以来激減した観光客はこの時間には僅かしかおらず、それも既に帰り支度の状態です。
この「グヌンカウイ」は800年ほど前のバリ王族の集合墓地で、日本人はあまり来ない聞かされています。
友人を車に待たせ、入場料を支払い、ながい坂道の階段を降りて墓地に向います。墓地は石灰岩の岸壁を削り取って作られており、歴代の墳墓が並ぶ様は圧巻です。
我々以外は誰もいない静けさの中、不気味さを感じながらも見て回り、傍らの寺院に入りました。
そこには、一人の老婆が墓守のように座っており、なにやら話しかけてきます。
ところがその言葉はバリ語なのです。
※インドネシアは各部族の共通語としてインドネシア語が使われていますが、通常の会話はそれぞれの部族の言語で行っています。
私は多少のインドネシア語は出来ますが、バリ語は全くわかりません。
インドネシア語で、「ティダ ムングルティ(わかりません)」と、答えたのです
がいっこうに通じません。
お金をくれとと言っているわけでもなく、不審に思いながらもその場を立ち去りました。
囂々と流れる川の音だけが静寂の中でいやに耳に響きます。
ながい階段を登り、友人の待つ車に戻り、今の出来事を話すと。「こんな時間に寺には誰もいないはずだ」と言います。
現に私が最後の入場者のため、ゲートは閉じられました。
不審な事は続きます、トイレを使い、外に出たとたん扉が風も無いのに猛烈な音を立てて閉じたのです
気味が悪くなり、早々帰路につきましたが、ウブドに向かう山中で猛烈なスコールに襲われました。
坂道を雨が小川のごとく流れ落ちきます。友人は危険を感じたのか、坂の途中の寺の前の空き地で、車を止め、雨が止むまで待とうと言います。
特に予定があるわけでもないので、言うまま待ちましたが、いっこうに雨足は遠のきません。
それでも1時間ほどで土砂降りはやみ、嘘のように雨雲が立ち去ると、夕日の残照でしょうか、周りは黄昏れ色に急激に染まってきました。
夕闇と山陰のせいか、木々の色も定かならざる程の色調です。
「逢魔が時」というこの場所では最も嫌な語彙を思い出したのは、先ほどの老婆の事が記憶にあったからかも知れません。
その時、前方の寺の割れ門から、祭り装束の一行が出てきました。そして道の反対側をゆっくり坂道を下って行きます。
一行がちょうど車の横あたりにきた時、体が凍り付きました。
行列の中ほどで打ち鳴らしているガムラン(インドネシアの民族楽器のドラ)の「音」が聞こえないのです。
友人が小さな声で、インドネシア語で、さらに念を入れてか英語で「フリムイテハイケナイ、マエヲミテ」といいながら、ゆっくりと本当にゆっくりと車を発進させました。
私も彼も無言で前方を見たままです、彼の手が震えているのがわかりますが、何も言えない程の恐怖感です。
坂道を上り詰め、人家が建ち並ぶ部落の小さなお店の前に車を止めると、話しかけようとする私を制して、ダッシュボードから、よれよれの紙と鉛筆を出し、まだ震えの残っている手でなにやら書いています。
文面は英語で(以下意訳)
今、見たことは決して口にしてはならない、誰にも語ってはならない。
私が質問しようとすると、口に人差し指をあて、紙と鉛筆を渡します。
(口に出すなと言うことか・・・)
なぜだ、恐ろしい事が起こるのか(祟りという英語を知らないため)?
と、書いたのですが、返事は「I am not sure」
彼はわざと話題を変え、喉が渇いた、ビールでも飲もうと強引に誘い、傍らのワルン(大衆食堂)を指さします。
ビールを飲むと、少し落ち着いたのか、
「バリにはあなた方の知らない事が一杯ある。
ここは、神々と悪霊が棲む島だ、ルールを守らないと彼らとは共存出来ない」と静かに、ゆっくりと話し始めました・・・・
バリ暦の5年が経過したので話す事が出来ます。
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