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神戸角打ち学会(至福の立ち呑み)

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  • ハッシュタグ「#社会」の検索結果136件

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梅田は変わった、まだ変わる

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梅田は変わった、まだ変わる

この日、十三で呑んで、HAKUDOU師匠、六甲道ブログさんとは阪急十三で別れる。

一人です、阪急で梅田まで出て、JRに乗り換えです。

阪急とJRの連絡通路をいつも通ります。

余力があれば、梅田食堂街に寄り飲むのですが・・・帰ります。


正面に新しくなった大阪駅、右にヨドバシカメラ、左は梅田のビル街。


 ★乗り過ごせば明石、姫路まで行ってしまいます。



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光源氏(源融)は渡辺姓のルーツです(動画)

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光源氏(源融)は渡辺姓のルーツ...
  日本で5番目の多い姓といわれる渡辺姓。 

  【前回に引き続き動画入りでアップしました。】

「光源氏」 は、源融(とおる)がモデルといわれ 「渡辺」 のルーツ、遠祖なのです。

「源融(光源氏)」 の、玄孫(やしゃご・5代目)が源頼光四天王の一人として有名な 「渡辺綱」 です。

★渡辺綱(わたなべの つな/953年~1025年)は、平安時代の武将。
     嵯峨源氏の源融の子孫で、正式な名は源綱(みなもと の つな)
     坂田公時、平貞道、卜部季武とならんで 「源頼光の四天王」 と称された。
     大江山の酒呑童子退治や羅生門の茨城童子の腕を切り落とした逸話で有名。
 

中世に摂津国の旧淀川河口近くに存在した渡辺がもっとも有名である。

この渡辺は渡辺津と呼ばれる港であり、現在の大阪市中央区の天満橋から天神橋の間辺りにあった。

地下鉄の本町駅、御堂筋の方、南御堂と伊藤忠の裏側に面した所に大小三つの鳥居が組み合わさった珍しい三鳥居。

ビルに囲まれたその神社が渡辺姓の発祥地という 『坐摩神社』 である。

正式には “いかすり神社” というらしいが、“ざま神社” と呼ばれている。

この神社のある所がかつての渡辺の地で、渡辺姓のルーツの地。

摂津国一之宮の坐摩神社。 『大阪府大阪市中央区久太郎町四丁目渡辺3号』


 ★元はこの一帯は渡辺町だったのだが、昭和63年(1988)の地区統合に伴う地名変更の際、
   渡辺町は消える予定であったが、渡辺の名の消滅に対し反対が強く、
   丁目の次の番地の代わりに渡辺の名を残すことで決着をみたという。


【渡辺という苗字のルーツは、他の苗字のように全国いろいろな場所で発祥した苗字と違って、特定の一箇所から発祥。

わずか一箇所の地名から生まれた姓がこれほど全国に広がるなんて、これはすごいことです。】

 

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祭りのあと!

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祭りのあと!
「後の祭り」 ではなく 「祭りの後」 です。

気分の悪い場に出くわしました。

50~60人の若者がもめて大喧嘩。

最初は若者のグループが騒いでいるなと。

だんだんエスカレートして、取っ組み合い殴り合いの大喧嘩!

そばにあった自転車を投げ付けるなど大騒ぎ!

若い女性が止めに入り巻き込まれて怪我をする。


これは大事になると思い、警察に通報する。(野次馬も多かったが誰も警察には通報せず)

「場所は何処ですか? 何人位ですか? どんな状態ですか? あなたは誰ですか? お名前は? 等々・・・・」 

長々と電話で聞きます。 余りにもしつこく聞きますので。 「近いのだから誰でもいいから早く来い!」 と、

警察官が現場に来たのはかなりの時間が立ってから。(来るのが遅い!)

20名ぐらいの警官とパトカーが数台、それに警察護送用バスまでもが。

警官が到着したら、喧嘩を仕掛けたグループは蜘蛛の子を散らすように逃げました。

画像はその後、事情を聞かれてる片方のグループです。


地車(だんじり)祭りのその夜の事件、ある地車の若者グループと通りがかりの祭り見学の若者のグループとの喧嘩。

原因は、ささいな事で喧嘩になったようです、祭りの興奮と酒が入っての暴走でした。


  ★大きな怪我人が出なくてよかったですが、祭りの後なのに気分の悪さ・・・


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今年も県政モニターに

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今年も県政モニターに

昨年に引き続き、今年も大分県、県政モニターに委嘱されました。

先月、広瀬大分県知事より委嘱状が届きました。

昨年はモニターとして、たいした事はしませんでしたが、

県外在住のモニターとしての意見等を提言させていただきました。

県事務所より打診があり、私でよければという事で、お引き受けいたしました。


とにかく大分県政に関する質問や意見が多く、たくさんの質問状や資料が送られてきます。

全てに目を通し、アンケートや意見、提言・提案等を書き込むと大変な時間を要します。


  ★わが故郷、大分県のためと思い、今年も微力ですが頑張ります。



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佐伯市 歴史と文学の道 (画像と動画)

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佐伯市 歴史と文学の道 (画像...

大手門跡(佐伯市大手前)から毛利家の菩提寺である養賢寺までの、

山際通りを含むおよそ700mは、

昭和61年(1986年)に建設省(現在の国土交通 省)により 「日本の道100選」 に選定。


櫓門(県指定有形文化財)   山際史跡広場(山中屋敷跡)  矢野龍渓生家跡  安井(由緒ある井戸)

国木田独歩館(坂本邸)  野龍渓生家跡  茶室 汲心亭  城山


  ★歴史と文学の道を通って、角打ちに行きます。(歴史と文学の角打ちです)



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火災から1カ月 旧グラシアニ邸再建へ

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火災から1カ月 旧グラシアニ邸...

神戸・北野の異人館街のレストラン「グラシアニ」(旧グラシアニ邸)が全焼した火災から14日で1カ月。
生田署は、放火とみて捜査しており、近隣住民からは不安の声もあがっている。
一方、市伝統的建造物に認定されていた異人館として市民や観光客らに親しまれていた、
旧グラシアニ邸のかつての姿を取り戻すため、所有者や市は建物の再建に向けて動き始めた。

火災は2月14日午前5時半ごろに出火、木造2階建てを全焼した。
建物1階北西側の外壁が激しく燃え、室外から出火したとみられる。
現在も建物は外壁部分が焼け残り、崩落した天井や割れた窓ガラスを見ることができる。

◆市と協議始める
 
一方、旧グラシアニ邸を所有、レストランを運営する 「平川商事」(大阪府八尾市) は、
建物の再建に向けて市と協議を始めた。
火災の発生以降、同社には、利用客から励ましのメールや営業再開を望む声が多く寄せられているといい、
担当者は 「できるだけ早く建物を復元し、営業を再開したい」 と話している。

市は 「旧グラシアニ邸は北野の景観を象徴する伝統的建造物のひとつ。焼け残った部材を活用し、
文化財としての価値を残すことも提案したい」 と説明している。

                           =3/14・サンケイニュースより抜粋=


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青山繁晴氏の講演会

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青山繁晴氏の講演会

昨日、神戸市中央区の 「湊川神社楠公会館」 にて講演会がありました。

神戸の友人、Nさんのご案内により出席させていただきました。

  『防衛講演会』    演題 『祖国は蘇る』

       【主催: (社)全国自衛隊父兄会兵庫県支部連合会】 
       【後援:  防衛省】

講師は、数多くのテレビ等に出演して歯に衣着せぬ理論を展開して、明解なる解説で人気の、青山繁晴氏。

青山 繁晴(あおやま しげはる、1952年7月25日 - )
   独立総合研究所代表取締役社長
   近畿大学経済学部・総合経済政策学科客員教授(国際関係論)
   2006年から2011年まで、原子力委員会専門委員
   2007年、海上保安庁の公式政策アドバイザーに就任 他

青山氏は、神戸市長田区出身、この楠公さんあたりでよく遊んでいたようです。
また拉致被害者 有本恵子さんのお父さん、有本明弘さんとは同じ長田出身の先輩後輩になるとか。

この日の講演会の内容は、拉致問題、外交問題、原発問題、憲法問題、自衛隊問題、防衛問題等々・・・

中でも拉致被害者の話では涙交じりの熱弁、おいさんも涙が出るほど感動感銘を受けました。

2時間の講演時間でも時間が足らず、かなりの時間オーバー、熱弁が続きました。


  ★2時間以上の熱弁講演、時間が短く感じるほどの感動的な講演会でした。



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源氏物語の光源氏は渡辺のルーツです

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源氏物語の光源氏は渡辺のルーツ...
 
 『源氏物語』 の劇場映画が放映されていますね。
その主人公、「光源氏」 は何と! 源融(とおる)がモデルといわれ 「渡辺」 のルーツ、遠祖なのです。

  ★あなたの姓のルーツを調べると面白い事が分かるかも。

 
 【渡邊(渡辺・渡部)氏 の由来】
渡辺は渡部とも書かれ 「ワタナベ・ワタベ・ワタリベ」 と読み、渡部は古代の職業部の一つである。
船で人を運ぶ仕事に従事した人々が渡部で、その起源は古代に遡る。

一方、渡辺は嵯峨天皇の皇子から出た嵯峨源氏の流れである。
中国文化を好んだ嵯峨天皇は皇子や皇女に融・信・定・常など一字名を付け、源姓を授けて臣籍に降した。
 
渡辺は、嵯峨天皇の皇子、左大臣 源融(とおる)を遠祖とする。
★源融は 『源氏物語』 の主人公 「光源氏」 のモデルともいわれる人物です。

源信は相模や武蔵などの守や介を歴任して、子孫は東国に広まった。
源融の子、源昇は正三位大納言、民部卿に上り、融の孫源仕(つこう)は武蔵守となり、
武蔵国足立郡箕田(埼玉県鴻巣市)に下向し、箕田仕と称した。

源仕の子、源宛は平忠常と武勇を競って、勝負がつかず引き分けたことが 『今昔物語』 に記されている。

その源宛の子が、源頼光四天王の一人として有名な渡辺綱である。
 ★『源融(光源氏)』 の 「玄孫(やしゃご)・4代目」 が渡辺綱となります。

★渡辺綱(わたなべの つな/953年~1025年)は、平安時代の武将。
嵯峨源氏の源融の子孫で、正式な名は源綱(みなもと の つな)。
坂田公時、平貞道、卜部季武とならんで 「源頼光の四天王」 と称された。
大江山の酒呑童子退治や羅生門の茨城童子の腕を切り落とした逸話で有名。
摂津国西成郡渡辺(現在の大阪市中央区久太郎町四丁目渡辺)は母方の故郷。
源満仲の娘婿である仁明源氏の源敦の養子となり、父源宛の死後、母方の摂津に住み、
渡辺源次綱(わたなべ の げんじ つな)と称して渡辺氏の祖となった。

兵庫県川西市西畦野の小童寺の境内に綱の霊廟がある。
東京都港区三田2丁目の綱坂は、付近が渡辺綱の出生地という伝承から。
長運寺(港区三田4-1-9)には渡辺綱大明神像があり、渡辺綱の額が寺宝として保存されている。

港区三田の綱坂。近くで渡辺綱が生まれたという伝承がある。事実とすれば、ここも渡辺のルーツのひとつ

渡辺氏は、旧淀川河口付近難波江(中央区渡辺町付近)を本拠地に、渡辺党という武士団をつくり、
(かつて対岸へ渡る渡船口で渡しの舟守り渡部が居住していたことから、渡辺と呼ばれるようになったところ。)
瀬戸内海の水運を握り、水軍の棟梁的存在でもあった。
また皇室領の大江御厨を統轄し、御所では天皇の身辺警護(滝口の武士)や、衛門府、兵衛府などの官職に就いた。

いまも渡辺橋があり、最近、京阪電車の延伸で渡辺橋駅も生まれた。
 
綱の子孫は摂津渡辺党という武士団に成長、以仁王を奉じて源頼政が挙兵すると、その配下として活躍した。
以後、渡辺氏は各地を転戦し、その戦いぶりは勇猛をもって知られた。
戦国時代になると、武田・今川・織田・徳川・毛利など有力戦国武将に仕え、渡辺氏は全国に広まっていった。
山梨県では、「嵯峨源氏の後裔十六世。武田氏に仕えて功あり」と 『甲斐国志』 に記され、
古くから甲斐の豪族として勢力をもっていたことが知られる。
いまも甲府市では20人に一人が渡辺姓で、県下第一の大姓となっている。

一方、肥前国にも渡辺一族が広がり、松浦水軍として名をあげた。
これは肥前国の検非違使に任じられた綱の孫久が、肥前国松浦郡御厨に下向したことに始まる。
松浦郡に土着した久の子孫は、
御厨・松浦・志佐・有田・伊万里・波多・鶴田・有浦・山代・青方・石志・佐志などが分出した。
興亡のすえに松浦氏が戦国大名化し、近世は平戸五万石の大名として生き残った。
 
渡辺氏は、海上交通を通じて日本全国に散らばり、各地に渡辺氏の支族を残したのである。
渡辺氏と渡部氏は本来、その起こりは別のものだが、いまでは同化してしまった。
とはいえ、渡辺氏は全国的に分布しているのに比べ、渡部氏が日本海沿岸に多いのは発祥の由緒を伝えていて面白い。
 
中世、渡辺氏は一字名を名乗る者が多かったが、その伝統は嵯峨天皇の命名に始まったものである。
また、渡辺氏の家紋「三つ星に一文字」は「渡辺星」とも呼ばれ、渡辺氏のシンボルマークともなっている。
「一字名」 と 「渡辺星」、渡辺氏はまことに個性的な一族といえそうだ。


前記した地名の渡辺は、中世に摂津国の旧淀川河口近くに存在した渡辺がもっとも有名である。
この渡辺は渡辺津と呼ばれる港であり、現在の大阪市中央区の天満橋から天神橋の間辺りにあった。
また、「渡辺」のルーツで有名な神社が坐摩神社である。(社号は「いかすり」と読むが、通常は「ざま」)
現在地の住所は大阪府大阪市中央区久太郎町四丁目渡辺3号と言うが、1988年の地名変更まではここを渡辺町と言っていた。
渡辺の名のルーツが消えるのに反対する運動が渡辺姓の末裔の間で起こり、
結局は丁目○番○号の○番の部分に渡辺の名が用いられることになった。

大阪府大阪市中央区久太郎町四丁目1番、2番、3番、渡辺の順で街区符号が設定されている。


渡辺星で知られる渡辺姓は渡辺綱から出た名流!
渡辺(渡部・渡邊・渡邉・渡鍋・渡多辺・綿鍋・和田鍋・綿部・綿奈辺・競)
渡辺という苗字のルーツは、他の苗字のように全国いろいろな場所で発祥した苗字と違って、特定の一箇所から発祥。
わずか一箇所の地名から生まれた姓がこれほど全国に広がるなんて、これはすごいことです。

地下鉄の本町駅、御堂筋の方、南御堂と伊藤忠の裏側に面した所に大小三つの鳥居が組み合わさった珍しい三鳥居。
ビルに囲まれたその神社が渡辺姓の発祥地という坐摩神社である。
正式には“いかすり神社”というらしいが、大抵は“ざま神社”と呼ばれている。
この神社のある所がかつての渡辺の地で、渡辺姓のルーツの地。

摂津国一之宮の坐摩神社。大阪府大阪市中央区久太郎町四丁目渡辺3号。

少し前の姓氏事典には、渡辺姓の発祥地を摂津国西成郡渡辺、現在の大阪市東区渡辺町であると書いてあった。
しかし、最近の本には、現在は渡辺という地名はないなどとも書かれていたりする。
そこで神社の住所を調べてみると“久太郎町四丁目渡辺”と、番地の代わりに渡辺がついている。
元はこの一帯は渡辺町だったのだが、昭和63年(1988)の地区統合に伴う地名変更の際、
渡辺町は消える予定であったが、
渡辺の名の消滅に対し反対が強く、丁目の次の番地の代わりに渡辺の名を残すことで決着をみたという。

かつてここの社地は、渡辺津といわれて栄えた淀川河口の港町であった。
左大臣源融(とおる)を祖とする嵯峨源氏の源綱が渡辺津に住んでこの神社を掌り、
渡辺綱と名乗って渡辺氏の祖となった。
 
さらに、渡辺綱の子孫の渡辺党は源頼政の配下として活躍、南北朝から戦国期にかけて各地を転戦し、
その戦いぶりは勇猛をもって知られた。この系統は戦国末期、武田・今川・織田・徳川・毛利など有力戦国武将に仕え、
また、肥後の松浦党などの水軍として、渡辺氏は全国に広まっていった。

“嵯峨源氏の後裔十六世 武田氏に仕えて功あり”と 『甲斐国志』 に記され、
古くから甲斐の豪族として勢力を誇っていた渡辺氏は、現在でも山梨で大姓一位を占め、
栃木、新潟、静岡では二位となっている。また、東北地方や愛媛、島根などで「渡部」姓も多く見かけるようだ。
 
苗字のルーツがひとつだけというだけではなく、渡辺姓の家紋も通称“渡辺星”と呼ばれる、“三つ星に一文字”。
たしかに渡辺氏の家紋は、他に、
三つ星、重ね三つ星、丸に三つ星、渡辺扇、柏、蛇の目、笹竜胆、月に夕顔なども見かけるが、
ほとんどは三つ星に一文字の渡辺星で、この家紋は渡辺氏の独占紋である。

三つ星に一文字は、戦場における一番槍、一番乗りを意味し、また、一文字は“カツ”とも呼ばれ、
いかにも武人らしい家紋となっている。

  【森岡浩日本人の名字】 【プチたび】 【渡辺姓の探検室】 【渡辺星(お皿に団子)】 【姓氏と家紋】 (参考)



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中世の鳥居 (九州最古)

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中世の鳥居 (九州最古)

太宰府天満宮の入り口にそびえ建つ鳥居

  『中世の鳥居』  福岡県指定文化財

高さは6.17メートル、花崗岩製の明神型鳥居。

笠木の反りはゆるやかで、柱高より柱間が広く造られているのが特長です。

神社明細図には、「筑後国有坂城主新田大炊介建立」 と記されていますが、建築年代は不明。

その形式から南北朝から室町時代とみられています。

九州最古の鳥居といわれています。


その向こうに見える赤い橋は心字池(しんじいけ)にかかる、一番目の太鼓橋です。



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西郷、高杉、龍馬らの明治維新の策源地

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西郷、高杉、龍馬らの明治維新の...
  
  『延壽王院(えんじゅおういん)』


太宰府天満宮の参道を上がった所にあります。

安楽寺天満宮留守別当大鳥居家の宿坊で。(太宰府天満宮が安楽寺と呼ばれていた頃の宿坊)

宝暦4年(1754)桃園天皇より院号を賜わっています。

慶応元年(1754年)から約三年間、朝廷を追われた三条実美ら尊皇攘夷派の五卿が、

この延壽王院に滞在し、その間、西郷隆盛、高杉晋作、坂本龍馬ら大勢の勤皇の志士が去来して、

明治維新の策源地となったそうです。

他にも、中岡慎太郎、大山巌、伊藤博文、江藤新平らも訪れています。 

現在は、西高辻宮司邸になっているそうで、一般の方は中には入れません。



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