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「対話する」とは共に問いを育てる営み

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「対話する」とは共に問いを育て...
対話するとは、どんなことなんだろう。
 
あらためて「対話」するということについて考えた。
 
「対話」と聞くと
 
「言葉を交わして理解し合うこと」「意見や価値観の違いをすり合わせること」だと思いがち。  

もちろん
 
理解や合意が生まれることもある。けれども、それだけが対話の目的ではない。
 
『本質的な対話』とは
 
わかる/わからないの境界に立ち、互いの声に耳を澄ませながら「まだ見えていない問い」をいかにして育てていくか、そんな営みだと思っている。  

つまり
 
「何を伝えるか」よりも、「どんな場をつくるか」に重心を置いた関わり方。
 
それは
 
結論や一致よりも、違いのなかで生まれる意味にまなざしを向ける姿勢だと思っている。
 
 
 
対話は、ただの情報交換ではない。  
なぜなら

言葉は「意味」としてだけでなく、「感情」や「関係性の温度」として機能していて、話している内容よりも「どんな関係性のなかで交わされているか」が場の質を左右するからだ。
 
一方的な伝達や議論では生まれない『変化の芽』が、対話の中では育まれ続ける。
 
だから
 
対話とは、「言葉のやりとり」だけでなく、言葉を介した「関係性の往復」から生まれる力なんだと思う。
 
また、対話は「問題解決」の手段でもない。  

むしろ

問題が「何なのか」をゆっくり探ったり、違和感や曖昧さも許し、結論が出なくても、問いの手ざわりをお互いに感じ合う
 
そうしたプロセスそのものが、「対話」という営みの本質なんじゃないかな。
 
そう
 
対話は、言葉と関係性のあいだに生まれるんだ。
 
 
とある支援の場でのこと。
 
ファシリテーターが「この問題についてどう思いますか?」と問いかけたが、参加者は沈黙。  

そこでファシリテーターは、焦って
 
「具体的な意見を出しましょう」
 
「どうすればよいかを考えてください」
 
と、ついつい矢継ぎ早に繰り出す。
 

結果、その場には発言は出たものの、どこか表面的で、納得のないまま終わってしまった。
 
 
別の日
 
同じような場面で、同じ問いに対し

前回と別のファシリテーターは『沈黙を尊重』し、
 
「急がなくていいですよ」
 
「何か言葉にならない感覚があるなら、それもこの場に出してみてください」と伝えた。
 
すると
 
参加者は少しずつ、  

「うまく言えないけれど、こんな気持ちがあります」  
 
「具体的な答えではないけれど、これって大切な気がします」
 
と、言葉にならない部分を共有し始めた。
 
場には、(答えを出すため)ではなく、『共に考えるための空気』が生まれ、参加者同士の関係性も、言葉のやりとりを超えて深まっていたのを感じた。
 
 
 
この違いは、まさに『対話のあり方』の違い。  

結論を求めるやりとりではなく、問いを大切にする姿勢があったからこそ、場がひらかれたんだ。
 
 
対話とは、理解し合うだけではなく、理解し合えなさも含めて尊重する関係のつくり方なんだと、そんなことを感じた瞬間だった。
 
 
さらに
 
対話とは、互いの違いを溶かすことでもない。  
 
なかったことにしてはいけないんだ。

むしろ
 
「違うまま、共にいる」ための営み。  

その営みには

正解のない問いに向き合う勇気があり、言葉にならない感覚を尊重する余白があり、自分と相手が「ずれている」ことを怖れない誠実さが、そこに宿っているんだ。
 

だからこそ
 
「対話とは」と問いかけるとき、私たちは「答えではなく、問いに向き合う勇気」を静かに思い出して、ともにこの問いを育てようとする意識を持てたらいいのかもしれない。
 
↓コーチ加藤雄一
 
 
問いを問う
 

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