今夕買物に出た折、ちょうど歩いている先のビルの間に
夕陽が落ちていきました。
娘が幼い時の思い出で、「夕焼け小焼け」の話を時々します。
今日のようにオレンジに輝く夕陽を見ながら
私は息子と娘と手をつないで、
夢中で歌を口ずさんいました。
次の瞬間、娘のおでこは電信柱に激突。
大泣きした思い出だけが残っているようです。
それにしても自然が醸し出す色の輝きは
人の力をこえているようです。
何か大きな流れのちっぽけで、
それでいて愛おしい自分の存在を感じさせます。
買物を済ませた帰り道、月がもう顔をだしていました。
福井
小田急線の各駅には待合室が設けられました。何か昔を思い出す懐かしさがあります。近代的な冷暖房完備のちょっとした場所です。
東急田園都市線の各駅には複数のベンチが設置されました。同時にエレベータやエスカレータも取り付けられました。電車もさまざまな配慮がなされています。感心なのはつり革です。これまでは全て同じ高さで一律に取り付けられていたものが、背の低い人向けに下に下げて取り付けられているものがあります。人に優しい工夫はあちこちで目に触れるようになっています。
ラッコ横山
デジタル化がどんどん進んでいます。そしてこのことが子どもを取り巻く環境にまでいろいろな影響を及ぼします。もちろん、プラスに作用することがたくさんで、普段の生活全般だけでなく、勉強や連絡、遊びにいたるまで、とても便利になったと思います。いつも電車に乗ると、乗客の過半数が携帯電話でメールかゲームをしている昨今、老人から小学生までも浸透しつつあるようです。
しかし、その反面、失われつつあるもの、弊害になってきていることも現実にはあるようです。最も大きな影響は人と人とのコミュニケーションではないでしょうか。「KY」に形容されるように相手の気持ちが理解できない、自己中心的な個人の集まりがそれぞれ集団を形成しているようです。それは子ども達だけにとどまらず、大人の中にも増えているようです。学校や会社さらには日々広がる身近なコミュニティも限りがありません。
子どもの勉強で言うと、「国語」を中心とした文章の読み取りに影響が出ています。作者の考えが理解できない、登場人物の心情把握ができないなど。論説文・説明文を嫌う子も増えています。中でも間接的な表現に弱くなっています。
今や大学にも「コミュニケーション学科」なるものが存在するほどです。人間社会における基本原則でありながら、その術を知らない人々の割合が急増しているようです。きっと自分自身もそうなのかも知れませんが、その尺度を測ることも難しいのではないでしょうか。だからこそ、何かで評価あるいは数値化することも今の時代を反映しています。見えないものをどんどん見えるようにしているのが近年の傾向のようです。しかし、このコミュニケーションはマニュアル通り、あるいは事例に従ってと言ってもそれが全てに当てはまるとは限りません。
そうならないためにも、できるだけ小さなうちから子どもと同士の関わりを多く持ち、さらに多くの大人との接点を持たせながら、家あるいは家族間では限界がある体験を積ませてほしいと思います。子ども達にこのような場数をどれだけ踏ませられるかが現代の課題のように思います。限られた空間や人間関係に押し込めず、どんどん可能性を広げていきましょう。
ラッコ横山
若い頃、ぜん息の発作で5〜6回ほど苦しんだことがあります。そのきっかけは、私の場合夜遅い夕食を目一杯食べた後にその発作が起こることがほとんどでした。のどがヒューヒューと音をたて、呼吸が困難になりました。苦しくて横にもなれず、四つんばいになり妻に背中をさすってもらってやっと呼吸ができるという状態でした。「病院に行ったら。」という妻の言葉に、病院ぎらいの私は、「これくらい大丈夫、すぐに治るから。」と言って、何とか発作がおさまるのを待ちました。しばらくすると私の背中をさすってくれていた妻はそのままの格好で寝てしまい、水におぼれているといった状態が3〜4時間も続きました。いつ死んでも不思議じゃないなとさえ思いました。四つんばいのまま苦しみ続け、何とか明け方になって発作がおさまりやっと眠りにつけました。
翌日、やはり病院に行きたくなかった私は早速薬局に行って、ぜん息に効く薬がないか尋ねました。するとそんな薬があったのです。市販の薬ですがかなり強い薬のようで、子供などが間違って飲んだりしないようにフタに工夫がされていました。ただ回しても開かないのです。フタをいったん下に押し付けて、そのままの状態で回さないと開閉できないといった仕組みでした。
薬に安心した私は、その後もこりずについ食べ過ぎて発作をおこすことが何度かありましたが、その薬を飲むと発作はおさまっていました。ある日、またその発作がおきてしまいました。早速その薬を飲んでおさめようと思い薬を用意しました。その薬は糖衣錠になっていて、口に入れたときには甘く、それを白湯で飲み込みます。この日は、こんなに良く効く薬はどんな味がするのだろうと思い、すぐには飲み込まずに口の中で糖衣がなくなるまでなめていました。すると間もなく、その薬本来の味がしてきました。その味はあまりにも苦く、すぐに口からはき出してしまいました。それでも口が曲がってしまうという表現がぴったりするような、口の中がしびれてしまったような状態でした。こんなものを体の中に入れて本当に大丈夫なのだろうかと真剣に思いました。しかしぜん息の発作も苦しく、新しい薬を出してすぐに飲み込みました。
それ以来その薬を飲むことに大きく抵抗を感じるようになり、自然と食べ過ぎも控えるようになりました。ぜん息の発作もきついのですが、その薬の苦さはもっと強烈に感じました。そのうち胃も弱くなり、もう以前のような食べ過ぎもできなくなり、ぜん息の発作もそれ以来おこしていません。
“良薬は口に苦し”と言い、この薬が良薬かどうかはわかりませんが、確かに良く効く薬でした。この味は、子供のころにお腹をこわすと『クマの胃』という名前の、クマのたんのうから作られた薬を飲まされましたが、この味に良く似ています。恐らく、強いアルカリ性のクマの胆液をかためたものなので、苦い味がするのだと思います。最近は胃酸過多になり胸焼けがするとアルカリ性の重そうを薬代わりに飲んでいますが、これもかなり苦い味がします。どうやら私にはアルカリ性の苦い薬との縁は切り離せないようです。
カーネル笠井
最近、担当している生徒2人から相次いで同じような相談を受けました。それは、こんなことです。
Aさん「先生、偏差値をどうしても10上げたいんだけど、私にできるかなあ。」
私「できるよ、簡単に。」
Aさん「え〜本当。だってお母さんが他の所で相談したら、すごく難しいことだって言われたみたいだよ。」
私「それはそうだよ。どこでもお母さんにはそう答えるよ。」
Aさん「それじゃあ、どうすればいいの。」
私「勉強に取り組む姿勢を変えれば、必ず上げられるよ。」
Aさん「どう変えればいいの。」
私「幸運かどうかわからないけど、Aさんの勉強に取り組む姿勢はまだ悪い所だらけだから、それを変えればいいんだよ。」
Aさん「え〜ひどい。」
私「だって、まだ大事なことを真剣に理解しようとしていないんだもの。」
Aさん「そうかあ。」
私「たとえばね、基本問題・練習問題・応用問題と分かれていたら、練習問題までは確実に理解しようという姿勢で取り組めば今の偏差値よりも10上がって、偏差値60はいつでも取れるようになるんだ。ただし、どの単元もモレがあってはだめだから、今までの分を取り戻すのに少し時間がかかるけれどね。」
Aさん「練習問題までできればいいのね。だったらできるかも知れない。」
私「取り合えず、少しがんばってみたら。」
Aさん「うん、やってみる。」
偏差値を10上げるなどと書くと夢のような話だと言われてしまうことが多いのですが、わずか2〜3ヶ月でこれを実現している生徒がたくさんいることは事実です。そして、その子達に共通しているのは勉強に取り組む姿勢が変わったことだと思います。今まで基本問題までが理解できればいいやと考え、少し複雑な練習問題ではわからないことが多く出てくるのですぐに無理と決め付けてしまうことがほとんどなのです。ところが、練習問題までは理解しなくちゃだめなんだと本人が意識して本気で考えるようになると、誰でもちゃんと練習問題まではこなせるようになるものなのです。
高校野球で、いつも地区予選の1回戦で敗退していたチームが、指導者が変わったことで準決勝あたりまで駒を進められるようになったという話を良く耳にします。やはり練習の質が大きく変わったからだと思います。勉強のレベルアップは運動ほどやればすぐに上達するというわけにはいきません。運動以上に本人の取り組む姿勢が大きく影響するからです。でも逆に、本人がその気になれば大きく変わるのです。
親から「自分の子供の偏差値を10上げたい。」と相談されても「子供の勉強に対する姿勢を変えればできますよ。」とは答えられません。実はこれが一番難しいことで、これを強いると大切な親子関係がとても悪くなってしまうからです。ですから大抵は「難しいですね。」となってしまいます。ところが子供本人から相談されると「簡単にできるよ。」と答えることができるのです。本人にその気があるのなら、取り組む姿勢はすぐにでも変えられることが多いからです。
子供達が本気で勉強に取り組むようになると、勉強しているときの体の姿勢も自然と変わってきます。背筋はぴんと伸び、使っていない左手もしっかりとテキストを押さえたり、ノートを支えたりしています。勉強も真剣にするときには頭だけじゃなくて体全体を使わなくてはならないからです。
今年の中学受験も一段落ついて、やっと一息といった気分でしたが、知らないうちにもう次の学年の受験学年がスタートしていました。子供達の意識も例年に比べて高いようです。塾でできること、家庭でできることをうまく分担して、良い二人三脚が組めればと思います。
カーネル笠井
先日の算数の授業風景です。
(先生)「鳥の足は何本?」→(Wさん)「4本!」・・・?
(先生)「じゃあYさん!鳥の足は何本?」→(Yさん)「4本!」・・・?
足の本数と聞かれると足の指の本数を思い出すのか、またはこれまでまじまじと見たり、考えたりすることがなかったのでしょうか。
さらに、国語の授業風景です。
(先生)「小春日和とはいつですか?」→(複数の生徒)「春です!」・・・?
今度は社会です。
(先生)「衆議院と参議院ではどちらの任期が長いですか?」→
(複数の生徒)「衆議院の方が人気があります!」・・・?
このようなことは氷山の一角かも知れません。常識が常識でなくなっている今日、当たり前だと思っても日々、子ども達に確認してみたいと思います。
おまけにもう一つ。今年のある私立中学校入試でのできごとです。試験中に受験生のお母さんから学校へ電話が入りました。「うちの子、今そちらで試験を受けているのですが、別の学校に合格したので、今すぐ帰らせてもらえますか?」
子どもの世界だけでなく、今や大人の世界でもこのようなことが起こっています。
ラッコ横山
先日、春が待ち切れなくて、府中市にある「郷土の森」に梅の花を見に行ってきました。ここには60種、約1100本の梅が植えられていて、長い間いろいろな梅の花と香りを楽しむことができます。ところが、昨年と同じ時期に行ったのですが、その時と比べてみると今年の方が咲き始めが遅く、まだ2〜3分しか咲いていませんでした。そのため、一番の楽しみにしていた梅の花の香りもまだわずかしかかぐことができませんでした。
風はあまりなかったのですが気温は低く、園内の茶屋で焼きたての団子と甘酒を飲んでやっと一息つくといった状況でした。実はこれが二番目に楽しみにしていたもので、こちらの方は満足できました。昨年は2月14日には春一番が吹いていました。しかし2月20過ぎにその冬の最低気温を記録するなどと変則的な冬でしたが、今年は春の訪れはもっと遅いようです。
郷土の森にはプラネタリウムもあります。そこには星に関する数々のデモンストレーションも備え付けられていて、星に興味を持たせてくれるようになっています。メインのプラネタリウムでは、今日は「銀河鉄道」というタイトルのものが上映されていました。ここでは、今頃見えている星座を中心にいろいろな星の話を説明してくれた後、テーマ物の上映をするという形式を取っており、小さな子供でも充分に楽しめるはずです。
園内は広々としており、梅の木の他に福寿草や水仙といった植物も沢山植えられています。また、ここで取れた梅の製品も数多く販売されていたり、その他に水車や古民家といった展示物も盛り沢山で、一度は子供を連れて行ってみてもらいたいスポットの1つだと思います。
鉢植えの梅も負けじと七分咲き(昨年行った時に作りました)
カーネル笠井
ずい分と前のことですが、ある2月の日曜日の早朝、以前住んでいた吉祥寺から千歳烏山に向かうバスの中にいました。何の変哲もない晴れた日曜日でした。暖かいバスの中でついうとうとと眠りかけていたとき、そのバスが突然急ブレーキをかけて停車したのです。何か事故でも起きたのかと思いバスの前方を見たところ、前面のガラスは真っ白にくもっていて何も見えませんでした。そして横の窓ガラスも真っ白になっていて、手でふいてもそのくもりは取れませんでした。まるでバス全体が厚い雲の中にでも入ってしまったようでした。周りの乗客達もざわめき始めたとき、運転手がワイパーを動かしました。すると前面のガラスのくもりはきれいに取れ、そこから見える景色はさっきと同じ何の変哲もない晴れた景色でした。冬のこの時期、窓ガラスがくもるのは必ず暖かい内側の方です。ところがこのときはバスの外側が一瞬にしてくもってしまったのです。
少し考えてようやく謎が解けました。バスの内部よりも暖かくてしめった風の中にバスが入ったからなのです。そう、春一番の風だったのです。さっきまでは周りの空気よりも暖かいバスの窓ガラスでしたが、この春一番の風よりはずっと冷たかったため、暖かい風に含まれていた水蒸気がこの窓ガラスによって冷やされて水滴になって窓ガラスについたのです。生涯まだたった1回だけの経験ですが、不思議なことってあるものですね。
ここにきて、真冬に逆もどりしたような寒い日が続いています。春一番が本当に待ち遠しいですね。
カーネル笠井
今日は久しぶりに渋谷を通り、時々立ち寄るお蕎麦屋さんへ入りました。すると、私立小学校に通う男の子を連れたお母さんが店に入ってきました。しかし、男の子は何も食べず、テーブルに突っ伏し、いつの間にか眠ってしまったのです。その間、あなたが遅くまで起きているからとか、言ったのに聞かないからとか、何か友達同士のようなせりふを男の子に浴びせてながらも、もくもくと蕎麦をすするお母さん。周りのお客さんもちょっと不思議な様子で見ていました。
それから自由が丘を経由して上野毛に。今度は自由が丘駅の階段。お母さんがとても怖い表情で子どもの手を強引にひっぱり階段を上ってきます。手を引かれる子どもは下を向いてうつむいたまま。きっとお母さんに叱られたのでしょう。足取りも重く辛そうでした。周りの雰囲気もちょっと重くさせてしまいます。
疲れている子ども達が多いのでしょうか。しかも遊び疲れのようにすがすがしい疲れではなく、勉強や習い事、あるいは塾通いで肉体的・精神的に疲れているのかも知れません。
ラッコ横山
中学受験が終わったら、2週間は存分に遊ぶよう子ども達に言ってあります。・・・存分にです。
ところが、一週間もしないうちに教室へ顔を出すものです。結局、この受験を通して学習習慣がしっかりと身についたのです。だから、毎日計算や漢字、授業の予復習をしないと落ち着かなくなったのでしょう。
面白いものです。こうして子ども達は幼い小学生の遊びを卒業し、中学生に成長していくのです。
それまでは、存分に遊ばせてください。すぐに気がつくはずです。
ラッコ横山
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