ホサナキリスト教会・日曜礼拝のメッセージアウトラインです。
「誰を友と選ぶか」
ヨハネの福音書 15章13~16節
"人が自分の友のためにいのちを捨てること、これよりも大きな愛はだれも持っていません。
わたしが命じることを行うなら、あなたがたはわたしの友です。
わたしはもう、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべなら主人が何をするのか知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。父から聞いたことをすべて、あなたがたには知らせたからです。
あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命しました。それは、あなたがたが行って実を結び、その実が残るようになるため、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものをすべて、父が与えてくださるようになるためです。"
(1) チーム編成するときに選択する基準
①子供時代によく遊んだドロ(ドロボー)ジュン(巡査)鬼ごっこ
2つのチームに分かれ、最年長者の代表がチーム構成員を交互に選んでいく
②代表は有望な人員を優先して選ぶ
足が速いか、腕力が強いか、リスクを犯す勇気もあるか。
(2) 復活後の主イエスが選ばれたチーム(友)
①ペテロ: 全存在をかけてイエスを否定し、そんな自分に愛想がつき自分を見失っていた
②トマス: 弟子らの証言を信じずに何事も自分で確かめないと気の済まない懐疑心に富んだ実証主義者
③マグダラのマリヤ: 感性豊かで直感に優れるも、その感情に溺れ理性的判断に欠いた女性
(3) 選ばれた友のために命を捨てられた主イエス(13)
①友として選ばれた=ご自分を捨てられた=友を信じ抜かれた
②復活された主は、この私と共に歩き、声をかけ、お言葉を語ってくださっている
(結論)
我々がキリストを選んだのではない
キリストが私を選んでくださった。そしてこの私を信じ抜いてくださっている。
それなら自分自身ではなく、キリストを信じ抜き、キリストを見上げて行こう。
そしてキリストが友と選んでくださっている他のチームメンバーを信じて歩んでいこう。
ホサナキリスト教会日曜礼拝のメッセージアウトラインです。
「人生は出会いで決まる」
ルカの福音書 19章1~10節
"それからイエスはエリコに入り、町の中を通っておられた。
するとそこに、ザアカイという名の人がいた。彼は取税人のかしらで、金持ちであった。
彼はイエスがどんな方かを見ようとしたが、背が低かったので、群衆のために見ることができなかった。
それで、先の方に走って行き、イエスを見ようとして、いちじく桑の木に登った。イエスがそこを通り過ぎようとしておられたからであった。
イエスはその場所に来ると、上を見上げて彼に言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。わたしは今日、あなたの家に泊まることにしているから。」
ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。
人々はみな、これを見て、「あの人は罪人のところに行って客となった」と文句を言った。
しかし、ザアカイは立ち上がり、主に言った。「主よ、ご覧ください。私は財産の半分を貧しい人たちに施します。だれかから脅し取った物があれば、四倍にして返します。」
イエスは彼に言われた。「今日、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。
人の子は、失われた者を捜して救うために来たのです。」"
(1) 人はそれぞれがユニークな存在
①バルテマイ(ルカ18:35~)との比較
物乞い ・ 金持ち
個人事業主 ・ 税務署長官
盲人 ・ 背が低い
主イエスに叫ぶ ・ 隠れて主を見下ろす
②主のお取り扱いもそれぞれだった
当初、そっけない対応 ・ イエス自ら近づかれた
「何をして欲しいのか」 ・ 「今夜泊まらせてもらいたい」
「見えるようになれ」 ・ 宿泊客となった
(2) 人は霊的な盲目である
①霊の目が開かれていくザアカイ
背が低いことからの劣等感
才覚と努力による金銭的な成功~それでも孤独と挫折を経験
主イエスへの好奇心とつながりを求めた
②人の霊の目が開かれるために
正しい自己の理解~変えられない運命を持ち、自分尺度の成功を得ても、空虚や孤独に陥る
あきらめない求道心~障害は常にあるが、求めるものには応えてくださるとの信念を持て
主イエスは、振り向き、近づいて声をかけられる
(3) 人の目が開かれるために
① 主イエスはあなたの名を呼ばれる
ザアカイとは初対面のはずだが~すでにあなたのすべてを、その虚無と孤独とをご存知だ
客人として迎え入れるなら、さらに深いつながりが始まる
「私の財産の半分を貧しい人に施し」~彼の価値観の大変革
② これらは契約関係が土台 ~「Abrahamの子なのですから」
「子」とは「契約の下にある」という意味であろう
アブラハム契約締結の場面(創世記15章)
アブラハム契約の更新が主が成就された「新しい契約」
神とのつながりが回復できる保証のもとに私たちは置かれている
(結論)
かつては盲目であったが、主イエスによって目が開かれた
そこに至る経緯やその後の歩みは、人それぞれ異なる
しかし同じアブラハム契約の下にあるものとして、その救いの保証を受けている
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