ディスペンセイション神学について
11月
26日
ある方とディスペンセイションについて意見を交わすことがありました。
ここに紹介して私のディスペンセイションについての考えを披露します。
Kさんのお考え:
「千年王国も個人的には存在する、と思っておりますが、それが、イエスの2nd Visitの前か後かは、確定できないというのが、現下のわたくしの立場です。この千年王国理解が米国で広がる根源になったディスペンセイション神学を生んだ教派におりますので、その背景はある程度存じ上げており、私が見る限り、千年王国に関しては、聖書の箇所のどこをとるかによって、艱難後千年王国説にも、艱難前千年王国説にも、どちらでも理解を持っていくことは可能です。うちのキリスト者集団のメインの理解は、艱難前千年王国説でございますが、一部には、艱難後千年王国説の方もおられます。プレ、ミレ論争に関しては、千年王国理解の聖書解釈というよりは、わがキリスト者集団においては、戦前の宗教迫害期をその教会の関係者が通過したかどうかによる感じです。宗教団体法を経由し、投獄者が出た教会では、艱難後をとられることが多いようです。私は、無千年王国主義ではなく、時期不確定のままでよい(あるいは、時期を安易に判断しない方がよい)、と思っております。
ところで、ディスペンセイション神学という大変迷惑な聖書理解を生み出したキリスト者集団にいるものが言うのも変な話ではありますが、私は、ディスペンセイション神学の問題にもう辟易していて、これで理解することの限界を感じており、有体に言えば、「ディスペンセイション神学を西ノ島かどこかに捨てた」とご理解いただいた方がよいかと思います。
ここらのことが、Left Behindへの対応と、この世の生き方にかかわるのではないか、と思います。
以上、グダグダと小弟の現下の理解を申し上げました。ご容赦賜りますように。」
わたしはKさんに以下のように応答しました。
「ご丁寧に応答していただいてありがとうございました。
空中携挙やプレミレに関してのお考えが整理されていて、よく伝わって来ます。
ディスペンセイション神学に辟易されたのちに、西ノ島に捨てられた経緯をいつか膝を合わせて伺って見たいものだと思わされました。
私の属している教団はディスペンセイションに対して可・不可を明確にしておらず、
各牧師の聖書理解に委ねられているものであると私は考えています。
中にはディスペンセイションを煙たがる牧師もいたりするのですが、よく話を伺ってみるとだいぶ曲がりもののディスペンセイションを知見したことから由来する誤解に基づくものだったりしています。
私自身、「そんなディスペンセイションなら私も嫌い」としたことがありました。
私の信じているディスペンセイションとは、
神の経綸のことであり、あるいは契約を主な要素とする時代区分のことです。
モーセ律法が機能していた時代には、動物の生贄を決められた方法でエルサレム神殿にて捧げるのが、神への礼拝の様式でした。
イエスによって新しい契約の元にある我々にはそれが命じられていません。
なぜ?
ディスペンセイションが異なるからです。
ユダヤ人には今も豚やタコの刺身を食べられない人がいますが、
メシアニックジューの人でそれらを自由に食べる人もいます。
ディスペンセイションが異なるのを理解できたからです。
確かに千年理論や再臨の順序に関しては「圧倒的な聖書箇所をもとに議論できないこと」であることには違いありません。
しかし、私は聖書の十全的な霊感を信じている者です。
たとい重複せず一箇所であったとしても、聖書が明確に教えていて、他の聖句とも整合できる教えであるのなら、それを神が啓示されている真理であると受け止めております。
終末論を学び出すと、理性や常識では図りきれない預言に対面せざるを得ず、
自らの聖書信仰がグラグラと揺さぶられたのを思い出します。
Kさんのブログも大変興味深く拝読しました。
ありがとうございました。」
…………ディスペンセイションという多くの方にとって耳慣れない神学用語があります。
ある方々はその教えを奉じているとしながら、だいぶ怪しい信仰生活だったようです。
それだからと言ってディスペンセイションの教えを評価できるものではないはずです。
それは、ブッシュ大統領がイラク侵攻をしたのでクリスチャンは嫌いだ、
という論理と変わりません。
その教えが真理であるかどうかは、
聖書が教えているかどうかが決めてとならねばならないはずです。
そしてその聖書は千年王国について、携挙について、
はっきりとした預言を残してくれています。
貴方の先入観や常識を先ず脇において、
丁寧にみ言葉に接して行けば何を教えているかは明確になってくるものです。
電子空間でのこの問題についてのやり取りは今後も紹介して行きます。