詩篇 23篇1~6節
"主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。
主は私を緑の牧場に伏させいこいのみぎわに伴われます。
主は私のたましいを生き返らせ御名のゆえに私を義の道に導かれます。
たとえ死の陰の谷を歩むとしても私はわざわいを恐れません。あなたがともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖それが私の慰めです。
私の敵をよそにあなたは私の前に食卓を整え頭に香油を注いでくださいます。私の杯はあふれています。
まことに私のいのちの日の限りいつくしみと恵みが私を追って来るでしょう。私はいつまでも主の家に住まいます。"
「私は乏しいことがない」
本篇の作者であるダビデは、王位を確立した後だから断言してるのではない。
少年時代の貧しい羊飼いとしての務め、
青年時代に王から逃れた破綻した人間関係、
王となってからも家庭内の反目や部下の裏切り。
逆境のただ中にあってこのような高い調べを歌いあげることができたならば勝利であろう。
私たちの人生の旅路にも試練はつきものであるがこれらの3点に留意したならばそれが恵みにと変わる。
❶私を義の道に導かれる
過去にしでかした罪や過ちを恥じてさいなやまされる時がある。
そんな私を「義の道」に、すなわち神ご自身と顔と顔とを合わせられる聖なる場に導いてくださる。
それは私にふさわしいものがあるからではなく「御名のゆえ」イエスの贖いのゆえである。
❷あなたが私とともにおられる
神の臨在の伴わない生涯はどんな犠牲的で困窮していても、どれほど高貴に豊かであっても虚しいものだ。イエスご自身が共に同伴者として旅路を歩いてくださっているとの納得があるならば、どんな問題をも乗り越えて行けるものである。
❸主の家に住まいます
聖書で主の家とは神殿を意味している。
そこは礼拝(賛美といけにえ)が捧げられる場所である。地上のどこにいても生活のあらゆる場面で神殿を住まいとするとは、どういうことだろうか。
新約の光に照らして敷衍するならば、それは御霊ご自身を、キリストご自身を心中に保つと言うことに他ならない。
私どもの住まいをどことしてるだろうか。
"あなたがたは知らないのですか。あなたがたのからだは、あなたがたのうちにおられる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたはもはや自分自身のものではありません。"
コリント人への手紙 第一 6章19節
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