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失ったものを見つけた喜び

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失ったものを見つけた喜び 失ったものを見つけた喜び 失ったものを見つけた喜び 失ったものを見つけた喜び



半日間失っていた財布。

数百ドルの現金やクレジットカード数枚、それにドライバーズライセンスや教会堂アクセスの鍵まで入っている。

机の周りや部屋中探しても、またあらゆるポケットを探しても出てこなかった。

息子に打ち明けてみると、

「車の中を探したか」
「助手席に置いてないか」

とのたもう。

そんなとこに置くわけないよ、と言いながらも行ってみると車の窓越しにちゃっかりと財布が助手席に座ってるのが見えた。

その時の喜び、開放感、満たされた思い(^^)

昨夜息子に運転させて自らが助手席に座った時どうやら財布を持ち出したのを忘れていたらしい。

聖書の次の言葉を思い出しました。

"また、ドラクマ銀貨を十枚持っている女の人が、その一枚をなくしたら、明かりをつけ、家を掃いて、見つけるまで注意深く捜さないでしょうか。
見つけたら、女友だちや近所の女たちを呼び集めて、『一緒に喜んでください。なくしたドラクマ銀貨を見つけましたから』と言うでしょう。
あなたがたに言います。それと同じように、一人の罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちの前には喜びがあるのです。」"
ルカの福音書 15章8~10節


財布が見つかるまでは食事をしても美味しくなかったし、息子とバスケットボールをしても気にかかって楽しめなかった。

財布がどれだけ貴重かと言えば、百ドル少々の現金と後は時間と手間をかければ回収できるものばかりのはず。

もしも悪用された場合カード会社は補填してくれるし、運転免許証だって再発行すれば良い。

考えてみれば全て取り返しの効くものばかり。

それでもあの半日間は空虚な気持ちでそわそわして生きた心地がしなかった。

「生きるって辛いな〜。こんなことも耐えねばならないなら死んだ方が楽か?」
少々大げさだけど、そんなふうにも思った。




失われた私たちに対して神がどんな思いでいらっしゃるかを主イエスが例えにして教えられた。

上記にある女性が銀貨を失った際の慌てぶりと発見の際の喜びの例え話。

銀貨も財布も取り返しのきくものである。

ところが私たちの命には取り返しがきかない。

そこで神は自らの命を差し出すことを決意された。

私たちが神によって発見されるために、
主イエスが十字架でその命を差し出さねばならなかったのだ。

神の目から見て私たち一人ひとりの命はそれほど重い。

「人の命は地球よりも思い」

ある政治家の言った言葉らしいが確かにその通り。

神のひとり子を犠牲にする程の重さだったのだから。


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