聖なる土曜日
4月
16日
イエス様は、十字架にかかって死んで、そしてすぐに蘇ったのではありません。
三日の後に蘇られました。
死の味を経験されたのでした。
墓には巨大な石でふたがされています。
死の中には、コミュニケーションもなく、父なる神との関係も断絶していました。
人類の罪の呪いを体に一手に引き受けるとはどんな重みでしょう。
私たちも、苦しみ、もがき、どんな苦しみにしろ、
もうだめだ、と思う時があります。
また、もう負けてしまって、もうずいぶん経つことがあるかもしれません。
土曜日は、イエス様のために、弟子たちも女たちも、その十字架を目の当たりにした人たちが傷み悲しみ、喪に服したのでした。
私たちは、復活ばかりに目がいきがちで、喪に服することを忘れます。
クリスチャンであってもなくても、喪に服することは、ある意味耐え難いことであります。
それは、自分の痛みや悲しみ、苦しんだあのつらい思い出に直面し、直視ししなければ、喪に服せないからであります。
しかし、本当の希望は、その悲しみに直面するところから始まるのです。
聖なる土曜日、忘れられがちですが、
もう一度スポットライトをあてたいと思います。
悲しんだっていいんです。悲しめることは健康なことです。
悲しんだだけ希望に意味があり、希望は強くなるはずです。
そして、その希望は決してあなたを二度と悲しませることはないでしょう。
今日は、墓の中のこと。ホーリーサタディのことでした。
ぼ