よくなりたいか ・第三のしるし Do you want to get well?
12月
7日
ヨハネ5:1-17 The Healing at the Pool on the Sabbath
1 その後、ユダヤ人の祭りがあって、イエスはエルサレムに上られた。 2 さて、エルサレムには、羊の門の近くに、ヘブル語でベテスダと呼ばれる池があって、五つの回廊がついていた。 3 その中に大ぜいの病人、盲人、足なえ、やせ衰えた者が伏せっていた。5 そこに、三十八年もの間、病気にかかっている人がいた。 6 イエスは彼が伏せっているのを見、それがもう長い間のことなのを知って、彼に言われた。「よくなりたいか。」 7 病人は答えた。「主よ。私には、水がかき回されたとき、池の中に私を入れてくれる人がいません。行きかけると、もうほかの人が先に降りて行くのです。」 8 イエスは彼に言われた。「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」 9 すると、その人はすぐに直って、床を取り上げて歩き出した。ところが、その日は安息日であった。 10 そこでユダヤ人たちは、そのいやされた人に言った。「きょうは安息日だ。床を取り上げてはいけない。」11 しかし、その人は彼らに答えた。「私を直してくださった方が、『床を取り上げて歩け。』と言われたのです。」 12 彼らは尋ねた。「『取り上げて歩け。』と言った人はだれだ。」 13 しかし、いやされた人は、それがだれであるか知らなかった。人が大ぜいそこにいる間に、イエスは立ち去られたからである。 14 その後、イエスは宮の中で彼を見つけて言われた。「見なさい。あなたはよくなった。もう罪を犯してはなりません。そうでないともっと悪い事があなたの身に起こるから。」 15 その人は行って、ユダヤ人たちに、自分を直してくれた方はイエスだと告げた。 16 このためユダヤ人たちは、イエスを迫害した。イエスが安息日にこのようなことをしておられたからである。 17 イエスは彼らに答えられた。「わたしの父は今に至るまで働いておられます。ですからわたしも働いているのです。」
今日は、ヨハネの福音書七つのしるしのうちの第三のしるしを見て行きたいと思います。
★ いやしを求めてベテスダへ v1-5
時は、ユダヤ人の祭りのとき。みんな、こぞってエルサレムへ行きます。羊の門のところにベテスダという池があり、天使たちが水をかき回したときに水に入れば癒されるとされていました。そして多くの人たちが癒しを求めて集まってきていました。
★ イエスさまとの出会い v6
イエス様の目がこの男に留まる。この男は、ほぼ四十年の長い間やんでいました。
もう長いことを知って。。。。イエス様は、他に大勢いる誰にはなしかけるのではなく、この男に話しかけたのだった。そして、もうこの病が長いことを知ってくださっていた。
私たちが、試練の中にいるとき、孤独を感じる。他の人には理解できない辛さがある。みんなは私よりましに見えるし、みんなは私より恵まれているように見えてくる。
しかし、覚えていただきたいのは、そんなあなたにイエス様の目が留まっていること。イエス様は、理解してくれ、あなたの痛みを知っていてくださるということ。
★ よくなりたいか?
イエス様は、この男に声をかけられる。「よくなりたいか」と。
なんとも、当たり前の質問だ。ベテスダまで来て、癒しを求めているのだから。。。
しかし、イエス様は、この言葉をこの男にかけなければならなかった。
男の口からついて出た言葉は、こうだった。「主よ。私には、水がかき回されたとき、池の中に私を入れてくれる人がいません。行きかけると、もうほかの人が先に降りて行くのです。」
なんと苦々しい言葉でしょうか。
不満がたまり、心に傷となり、その辛さでがんじがらめになっていたのです。自己憐憫とは、このように人を不自由にするのです。
私は、孤独だ、私を助けてくれる人なんていない。いつも強いものが私を押しのけて私をふんずけて幸せをつかんでいくのだ。。。と。
イエス様は、この人のこの苦々しい思いを吐き出させる必要を感じていました。
みなさん、心に重荷がある時、それを口に出せたらすっきりしますね。
だから、何でも話せる心の友は大切なものです。
しかし、心の癒しのセミナーでもよく話しますが、人間に話しては、すっきりはするものの、癒しは来ないのです。
けれども、神にその苦しみや思いを話す時に、私たちのうちがわに心の癒し、感情の癒しがやってきます。
この男は、身体よりも、心を癒されなければならなかったのです。
★ とこを取って歩きなさい。
イエス様の言葉の通りに、この男は、床を上げて、歩き出しました。癒されたのです。
★ もう罪を犯してはなりません。 V14
聖書の言語ギリシャ語では、癒しは、Sozo と言う言葉を使いますが
これには、救い、癒し、解放という意味があります。というのも、アダムとエバが罪を犯してから、死と病が入ったので、罪の問題が解決するなら死の問題も解決するからです。
イエス様は、癒しを受けたこの男に再びあい、もう罪を犯さないように、と話されました。これは、完全な癒し、救いと解放の宣言でもあります。
もう自由になったのだから、生まれ変わって、新しい生き方をしなさい、ということなのです。
★ それは、安息日だった v16-17
イエス様が、癒しを行なわれ、またこの病人の男が床を上げたのが安息日だったので、これが宗教界では大問題になりました。そして、イエス様は迫害されることとなりました。
しかし、そもそも、安息日は、神のためにあるのです。神のために心を沈め、神の前に養われる日です。それを含めた休みです。しかし、宗教の枠にとらわれた人たちは、何もしてはいけない、仕事をしてはいけないということで、過剰な解釈をしていたのです。
イエス様のこのみ業は、何をあらわすでしょうか。安息日の癒しにより、
宗教の枠にとらわれない、天のみ父の時に、み父のなさっていることを地上で行なう時代が来る。枠にとらわれない自由な神と人との協力による働きの時代が来るのだというサインとなりました。
イエス様は、彼らにこのように言われています。
「わたしの父は今に至るまで働いておられます。ですからわたしも働いているのです。」と。
今日のお話しに見る、神様のしるし、私たちのメッセージは、
キリストによって、身体だけではなく、私たちの心も癒されることと、
宗教の枠にとらわれない、父なる神と繋がった奉仕が始まるということではないでしょうか。
あなたに、資格がなくても、神のこころとあなたの心が一致していれば、メッセージを語り、人々を癒しに導き、救いに導いたらいいのです。神様との愛の関係があるものたちが、宗教の枠にとらわれずに、ミニストリーする時代が来ているのです。
私たちは、キリストによって新しい時代に生きています。ますます、神様と繋がって、神様の働きをしていこうではありませんか。
ぼ
投稿日 2015-12-07 18:19
ワオ!と言っているユーザー
投稿日 2015-12-10 05:15
ワオ!と言っているユーザー