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日曜日のメッセージから 信仰の人の生き方Honor

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Ⅰサムエル18章から

Ⅰサムエル記は、二人の王、ダビデとサウルが非常に対照的です。

サウル王は、ねたみと恐れにとらわれた肉の人でした。ダビデのあげた手柄を喜ぶことができず、かえって不安になり、ダビデを恐れるようになりました。 

☆神の御国の法則は、Honorと愛です。
本来ならば、ともに喜ぶべきであるし、もしも、部下に不満があるなら、神に任せるべきである。人殺しをしようとした。神の国の法則は、Honorと愛です。互いに尊敬し愛し合うことでハーモニーができる。すなわち、一致ができる。

★信仰の性質 ダビデ
 信仰というのは、目に見えない神を信じること。(ヘブル11:1信仰は望んでいる事がらを保障し、目に見えないものを確信させるものです。Now faith is the substance of things hoped for, the evidence of things not seen. 2 For by it the elders obtained a good testimony.)
先週のダビデの大勝利のお話しにも見られます。ダビデは、自分の信じている神様ならきっと勝たせてくれる。という信仰にたっているのです。神の心を知っているから信仰にたてる。自分のしていることは、神の心にそっているとはっきり言える。
V12, 主はダビデとともにおられbecause the Lord was with him V14ダビデはその行く所、どこででも勝利を収めた。主が彼とともにおられた。And David behaved wisely in all his ways, and the Lord was with him. 

 ☆信仰と行いについて  
v16 イスラエルとユダの人々はみな、ダビデを愛した。彼が彼らの先に立って行動していたからである。But all Israel and Judah loved David, because he went out and came in before them.
ヤコブ2:26魂のない肉体が死んだものであるように、行いを伴わない信仰は死んだものです。For as the body without the spirit is dead, so faith without works is dead also.
ダビデは、行いのある人でした。人々は、その人が何を言うかに注目し、また、その人が何をするかに注目しています。ダビデは、誰よりも先頭にたって、戦った人です。率先して、物事をする。そういう人に人々は信頼を寄せます。ダビデは、イスラエルとユダの人はみな、ダビデを愛したとあるほどに愛され信頼されていました。彼の心にあることがそのまま行動にでていたのです。
私たちクリスチャンはどうでしょうか。私たちは、心で信じているとおりに行動しているでしようか?世の人々がついてくる人となっているでしょうか。

★恵みと犠牲について
 V27 ダビデは立って、彼と部下とで、出て行き、ペリシテ人二百人を打ち殺し、その陽の皮を持ち帰り、王の婿になるためのことを、王に果たした。そこでサウルは娘ミカルを妻としてダビデに与えた。therefore David arose and went, he and his men, and killed two hundred men of the Philistines. And David brought their foreskins, and they gave them in full count to the king, that he might become the king’s son-in-law. Then Saul gave him Michal his daughter as a wife.
ダビデは、陽の皮100枚と言われたのに、200を取って来た。彼は、神の恵みによって、神に選ばれ、恵みによって、王の婿になることを許されたことを知っている。そして、神の恵みによって戦い100のところを200とって来るようになった。ダビデは、恵みを無駄にしない人であった。また、犠牲を払うことを知っている人であった。
犠牲を払える人は、神の豊かさを理解している人。神の気前の良さ。一マイルいけといわれたら、その人とともに二マイルいけ。And whoever compels you to go one mile, go with him two.マタイ5:41
私たちは、犠牲を払うから、恵みをいただけるのではない。恵みに感動しているので、犠牲が払える。また、私たちのために犠牲を払って下った、イエス様を知っているから、犠牲を払いたい。
なぜなら、私たちが神を愛して犠牲を払うとき、神がその行為によって、敬意をお受けになる。神が高められるからである。

証し:

私たちクリスチャンは、恵み、恵みといい。強調し、犠牲を払うことを忘れてはいないか??

★神とのヒストリー
 先週、まきおくんのお話にも出ましたが、ダビデは、羊飼いしている時も神様により頼み、きっと自分が任されている羊たちを神様は守ってくださると信じて、猛獣と戦っていた。また、神様と交わっていた。ハープ奏者。祈りの賛美をしていた。神の臨在のある人というのは、一晩では、出来上がらない。神様と自分との歴史がないと、神がともにおられると人が見て取れるひととはならない。ヨセフの上にも神様がともにおられました。その時も同じことを言いましたが。皆さん、どんな立派な牧師先生についていったって、神様との歴史は、きずきあげられません。自分がもがいて、悩んで、それを神様に聞いて、解決策を与えられたり、神様に救われたり、そういう中で、神様と自分との歴史ができるのです。他人がかわりに作ってくれないのです。
あなたには、神様との関係がありますか。また神様とのヒストリーがありますか?

★まとめ

信仰は、行いをうみ、その行いは、神に敬意を表し、神を高めるために犠牲を払うにいたる。
私たちの信仰は、生きているでしょうか?
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