・・・あれからもう一年経つのだと、カレンダーを見てフト思った。懐かしくて懐かしくて、最近ビデオばかり見ている。
一番最後の舞台・・・あれからやはりその衣装を着ることはない。
私にとって、かけがえのない子供を失ったような感覚は消えることがまだ無いのだ。自分が思おうと思わざると、「その時」が来て、否応なしに人生の場面が変わる。今までの私を思えば、今の結果は最善の道。でも懐かしい気持ちはあり、残念に思うのは思い出を共有できる人がいない、ということだ。でもそれが私にとっての報いなのかもしれないな。
その覚悟だけはしっかりと持たなくちゃ。本当に良い時を過ごせたのだと、そっと自分の中にしまって置けばいいのだ。これからはまた新しい思い出を作るんだ。
祝う歳でもないけど、やっぱり自分の誕生日は何だか嬉しい。この一年、よく乗り越えてきたね、と自分で自分を励ます。ホント、良くぞ耐えたもんだ。たまには自画自賛。そうでも思わないとやってらんない。
これからの一年が良い一年でありますように・・。
昨日、お見事に怪我してしまいました。ジャンプで転倒し、足首骨折・・・。でも軽い骨折だから、ひどい捻挫よりも予後は良いとのこと。そう言えば、ひっくり返る瞬間、鏡でスローモーションのようにその光景が見えたなぁ。・・・足首が、あり得ない方向に曲がってた・・・。
きっと、急ぎすぎる私に、神様が「もっとゆっくり行け」と教えてくれたのかも。無理をしないで、ゆっくり進もう。
例によって振り幅の大きい私なので、結構落ち込んでいた。省みてもしょうがないことに、思い悩んでばっかりだった。でも・・・・そんなこと思っていては、今の仲間に失礼だ。
長きに渡り苦しんでも、後ろを見てたら先へは行けない。ジョン・レノンのスターティングオーバーを聴きながら、本当の意味での「やり直し」はこれからなんだと、自分に言い聞かせた。
花の名前に疎い私だが、この花だけは印象に深い。ヒトリシズカ名前の由来は、子供を亡くした静御前が、悲しみをこらえて一人舞っている姿からついたとされる。その儚げな様子は、今の私の心に染みる。人生、なかなか上手くいくもんじゃない。
そんな時、ふっとこの花のことを思い出すのだ。
今までありがとう。いろいろ大切なものを教えていただきました。一番大変なときに励ましてもらったのも、本当に有難かった。
あの時の気持ちに偽りは無かった・・そう思っています。ずっとこのまま、楽しいまま行けるかと思ったけど、所詮は平行線、どんなに先に行っても交わる部分なんて無かったんですよね。
これからはスタンスを変えます。
良き仲間として、「先の光」を目指しましょう。そう、志の根は同じなのだから。
この1年半もの間、自分の知らない部分を見つけたようで、ホントに嬉しかった。そのことには、ホント感謝してるんですよ。
寂しいけど、今の気持ちにサヨウナラ。ん〜、これからは自分のために頑張らなくちゃね。連れ合いもいるのに、リアルで失恋しました。
と言っても片思いで終わり。
まぁ、そんな感情が自分の中にあったこと自体驚きの日々でしたが・・・。
切り替えます。
何だか、ここに書き込むのも久しぶり。いやはや怒涛の日々だった。2週間前は茨城へ一泊二日の祭り視察。
1週間前は岐阜での踊り合宿。
踊り関係の移動だけで、優に1060キロも走ってる・・・・うーん。この間、いろんな出会いがあり、再会があり、楽しかった。
怒涛のスケジュールではあったけど、それを上回るほどの収穫があったと言えるだろう。今までは視察や応援ばかりだったけど、今月からは自分の番。
いよいよ私も動き出す。私も、支えてくれる人のために頑張りたい。
頑張ることで、恩に報いたい。遠く離れていても、気持ちは繋がってると、信じてるから。
作家倉本聰氏が審査委員長を務める札幌YOSAKOIソーランのフォーラムでの言葉。「創」を意識する
「創作」という語はどちらの漢字も「つくる」と読むが、「作」はお金と知識でつくること、また「創」はお金がなくてもゼロからつくることを指す。
長年何かを続けると、始めは「創」だが、だんだん「作」へと変わってくる。
このとき、「創」へと意識を向かわせることがとても重要である。
祭りは人が感動を共有するために生まれた
現代は「個人」が重視される時代であるが、人間は唯一、他人と感動を共有できる生き物だと思われる。
そのために劇場ができ、映画館ができ、そして「祭り」が生まれた気がする。
祭りに人々が集まるのは、皆、感動の共有を求めているからではないだろうか。
人の心を打つには心が技術を越えることが大切 作品を創る上で、技術と心は両方必要である。練習をすれば技術は向上するが、逆に心が込められなくなる。
技術を上げ、それ以上に心をきれいにして充実させなければいけない。
心を磨くことは至極難しいが、常に心が技術を越えていれば人の心を打つことができる。
一つのものを更に深めレベルをあげること 新しいものを創ることも重要だが、一つのものをさらに深めることはもっと重要である。
一つの踊りの形態を変えていくことではなく、それを突き詰めていくこと、それがレベルアップしてきたYOSAKOIソーランチームの皆様が今やらなければいけないことだと思う。
昨年の踊りをより濃く深くしていくことが、今後のYOSAKOIソーラン祭りのグレードを上げるベストの道であると考えられる。
・・・含蓄があり、考えさせられる言葉である。
ちょっとやってみました。本名だと*****の72%は希望で出来ています
*****の20%は睡眠薬で出来ています
*****の5%はミスリルで出来ています
*****の2%は言葉で出来ています
*****の1%は理論で出来ています
木蓮だと木蓮の76%は不思議で出来ています
木蓮の16%は苦労で出来ています
木蓮の6%は気の迷いで出来ています
木蓮の2%はミスリルで出来ています
何か的を得てるようで笑ってしまった。こちらから行けますよ。そっかー、私は希望ばっかりなのね。
何か嬉しかったりして。
本音と建て前を使い分ける・・・・大人になったら、それは当然の振る舞いだ。本音を本音のまま出してしまう人は、バカ正直と言っても過言ではない。(私はどちらかと言えば、そのタイプ。だから年中問題が絶えない)建て前を使うのは何故か・・・。それはやっぱり、人間関係をうまく繋ぐためだろう。
本当はこう思っているのだけど、それをそのまま言うと相手から嫌われてしまう、または取り敢えず合わせないと話が先に進まない、相手にしてもらえない、そんなことから気を使わざるを得ないのだ。ただ、建て前だけの人は、要は八方美人なだけのような気がする。
自分の存在価値をアピールするため、自分の懐の広さを見せ付けるため、そんな言動に出るんだろう。実際、この建て前だけに乗ると痛い目にあうと思う。
本当の本音は違うのだから、上っ面だけ合わせても、人間関係にひびが入るのは間違いない。このときに入るひびは、壊れてもおかしくないほどのひびだ。
修復は困難だろう。それならば、先に本音を聞きだし、回避する方が余程相手と良好な関係を保てると思う。本当の自分はそれを望んでいないなら、NOと言っても、相手との関係は壊れるはず無いのだ。
もしそれで壊れるようなら、その相手と自分は縁が無かったものと見ていい。
自分の人生に必要な人間ではないのだ。本当に相手と長く付き合いたいのなら、その相手の本音を聞きだすことが一番だろう。
人間、誰しも本音の部分でしか心を開けない。
何故八方美人になるのか。
何故相手が迎合しようとするのか。
その裏を読み取るようにしないと、相手も傷つくし、自分も傷つく。
ただ、自分でも気づいていなくて建て前だけ言ってることもある。
話してて、少しでも引っかかること、まずいかな、嫌だな、と思うことはやはり本音が別にあるわけだから、そこは自省して考えないといけない点だ。この世で生きていくためには、良好な人間関係は必要不可欠。
思いやりを持って本音を出せるよう、常々考えていきたいものだ。
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