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昭和の二枚

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昭和の二枚 http://www6.pla... http://www6.plala.or.jp/ebisunosato/nomugi2.htm (引用)
http://www6.plala.or.jp/ebisunosato/nomugi2.htm (引用)  

「ああ野麦峠」は、、昭和43年(1968)朝日新聞社から出された山本茂実のルポルタ-ジュ。製糸工場の女工さんだった明治生まれのお年寄り達に、聞き取り調査したものを本にまとめた。故郷を前に野麦峠で死んだ若き製糸工女みね。富国強兵政策に押しつぶされていった無数の娘たちの哀しい青春を描く、戦後ノンフィクションの名作!

 明治から大正にかけて、外貨を稼ぐ手だては、生糸でした。養蚕が日本を支えていた時代、その陰では10代、20代のうら若き製糸工女たちの悲惨な生活がありました。

 諏訪地方には豊富な水のおかげもあり、製糸工場が集中していました。周辺農村部から集められた大半の少女達は、山深い飛騨の山中の村々から連れてこられた貧しい農家の子供達であった。多くの少女達が半ば身売り同然の形で年季奉公に出されたのだった。工女たちは、朝の5時から夜の10時まで休みもほとんどなく過酷な労働に従事しました。工場では、蒸し暑さと、さなぎの異臭が漂う中で、少女達が一生懸命、額に汗をしながら繭から絹糸を紡いでいた。苛酷な労働のために、結核などの病気にかかったり、自ら命を絶つ者も後を絶たなかったという。

(以下 ああ野麦峠より抜粋)

      工場づとめは監獄づとめ
           金のくさりがないばかり

      籠の鳥より監獄よりも
           製糸づとめはなおつらい


 工場の寄宿には厳重に鉄の桟がはめられていた。逃げた工女があれば監視員はいっせいに馬で四方にとび、各街道、峠、後には各駅をおさえ、たちまちつかまって引きもどされる、それは文字通りの監獄であった。
 「それでも行かずばならない。そういうもんじゃと思って歯を食いしばって、みんなのあとについていったのでございます」

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昭和の一枚

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オーイお姉ちゃん、玉が出ないぞ... オーイお姉ちゃん、玉が出ないぞ!!
小生20歳頃のパチンコです。勿論写真のように椅子はありません。
パチンコ台と台の空間に、人が左右に動く空間があります。
その空間には、女性がパチンコ玉を、パチンコ台の上部に入れています。

パチンコの玉が出ないと
「お姉ちゃん17番台玉が出ないぞ!」
「はーい少し待って、今入れますから」

のどかな、人間味のある昭和の光景でした。

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昭和の一枚

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昭和の一枚
あまりにも美しすぎる女性お二人。感動です!

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昭和の一枚

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昭和の一枚
この広告の意味分かりますか?

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昭和の三枚

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虚無僧 虚無僧 紙芝居... 紙芝居 ストリップ劇場 ストリップ劇場
虚無僧
(室町時代の普化宗(ふけしゅう)の僧朗庵が宗祖普化の風を学んで薦(こも)の上に座して尺八を吹いたから、薦僧(こもそう)と呼んだという。また一説に、楠木正成の後胤(こういん)正勝が僧となり虚無と号したからともいう)普化宗の有髪の僧。深編笠をかぶり、絹布の小袖に丸ぐけの帯をしめ、首に袈裟をかけ、刀を帯し、尺八を吹き、銭を乞うて諸国を行脚(あんぎゃ)した。普化僧。こもそう。浄瑠璃、仮名手本忠臣蔵「―(こもそう)の尺八」→梵論(ぼろ) 広辞苑の引用

紙芝居
物語の場面を連続的に描いた絵を、順次1枚ずつ出して劇的に説明するもの。携帯用の小舞台に切抜き絵の人形を立てて操るものもある。飴売りなどが客寄せに街頭で演じた。画劇。広辞苑の引用

ストリップ劇場
剝ぐこと。脱ぐこと。裸になること。ストリップ‐ショーの略(広辞苑)。
ちなみに【ストリップ劇場】と言う言葉は、広辞苑にはありませんでした。
....................................
男性にとって、女性の存在とはなんなんでしょうか? 女神?

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東京物語を鑑賞しました。

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東京物語... 東京物語
Amazonで小津監督の【東京物語】を鑑賞した。

『東京物語』は、1953年に公開されたモノクロの日本映画である。監督は小津安二郎、主演は笠智衆と原節子。『晩春』(1949年)、『麦秋』(1951年)、『東京物語』(1953年)で原節子が演じたヒロインはすべて「紀子」という名前であり、この3作品をまとめて「紀子三部作」と呼ぶことがある[2]。昭和28年度文化庁芸術祭参加作品。

上京した年老いた両親とその家族たちの姿を通して、家族の絆、夫婦と子供、老いと死、人間の一生、それらを冷徹な視線で描いた作品である。戦前の小津作品、特に『戸田家の兄妹』などにすでに見出されるテーマだが、本作でより深化させられることになった。「ロー・ポジション」[注 1]を多用し、カメラを固定して人物を撮る「小津調」と形容される独自の演出技法で、家族を丁寧に描いている。家族という共同体が年を経るとともにバラバラになっていく現実を、独特の落ち着いた雰囲気でつづっている。
(以上はウィキペディアよりの引用)

■岩魚太郎感想

1953年に公開された『東京物語』は、正に2018年の現代と同じ核家族の問題を、通説にに捉えいる。特に、笠智衆:東野英治郎:十朱久雄 (同じ世代の老人の役)、東京で笠智衆が会った旧友の子供に対する酔っぱらっていた三人の老人の愚痴は、現在の核家族の問題を的確に捉えている。
2018年の老齢者問題を、1953年に意識していた小津監督ではないと思うが、人間の本質的問題は、新藤兼人の「姥捨山」にも継承していたのかもとA……推測する。

唯一、紀子:原節子の夫が戦死した次男の妻、上京した笠智衆:東山千栄子(老夫婦役)の真心こもった対応が、心打たれた。しかし、夫が戦死して十年、夫の面影が徐々に遠くなっていく 紀子:原節子の心と、笠智衆:東山千栄子が演じる老夫婦の思いやり、次男のことは忘れ、紀子(原節子)の幸せを願う老父婦の心と、紀子(原節子)がこのまま一人で老いていく本人不安……そのギャップが、小津監督の一番表現したかった狙いだと思った。

そのシーンが、笠智衆と原節子の会話にあった。
その会話の後に、呉の海を滑る小型貨物船の汽笛で【東京物語】は終わった。

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昭和の一枚

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昭和の一枚
昭和25年頃、貧しくとも幸せな三兄妹?

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埼玉県にある大病院での怖い~話しです。

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岩魚太郎の手術と検査の日程表で... 岩魚太郎の手術と検査の日程表です
大腸検査=消化器内科(胃腸異変)
MRI検査=循環器内科(不整脈:カテーテル手術実施3年前)
服用薬AからBに処方薬が変更さ... 服用薬AからBに処方薬が変更されました。
脳神経内科(2004年:脳梗塞で言語障害)血液をサラサラにする薬です。
17日朝1回、この薬が服用Aが禁止された。
薬Aではなく、本当は薬Bを連続4日間服用禁止で手術をしなければならなかったんです。その間違いが、17日当日下剤を飲み終わった直前、病院から電話で薬剤Aの当日だけの服用禁止では、大量出血の恐れがあると言うと言うことで、手術は中止。


本当は、Bの薬剤が手術前から連日四日間服用が禁止されるべきでした

原因
①10日:胃カメラの検査を受け、食道がAのアムロジビン錠が合わず炎症が出来、Bのイグラザレルト錠に変更していました。

②13日:大腸検査の時、Aのアムロジビン錠が飲用当日飲用禁止なり、検査を受けました。 

③17日の大腸検査のポリープ削除手術当日も、Aのアムロジビン錠が飲用当日飲用禁止してなっていました。前回と同様でした。大腸検査のポリープ削除日手術を受けるため病院に向かう直前病院から連絡がありました。

理由は、Bの錠剤イグザレルト錠を下剤服用前4日間服用を中止しなければ大量出血のリスクがあると言う話しで、17日の手術は急遽中止になりました。
10日:胃カメラの検査を受け①で薬剤を変更して、Aのアムロジビン錠か服用していませんでした。Aのアムロジビン錠が服用禁止で、Bの錠剤イグザレルト錠を服用していました。

④ 改めてBのイグザレルト錠の服用を4日間中止して入院、いざ大腸検査のポリープ削除を行う寸前になって手術を中断しました。
理由は、24日に検査を受ける【MRI】も脳検査です。
大腸検査のポリープ削除を手術を実施する際、血止めに金属製の医療用ホッチキスを使用するため、大腸検査のポリープ削除を手術を実施した場合、【MRI】検査が出来ないためでした。

改めて、大病院のずさんな管理態勢に驚きました。
Aのアムロジビン錠 Bの錠剤イグザレルト錠 全て患者の自己申請。
大腸検査のポリープ削除を手術の際、PCで病状、投薬、症状、管理されているものの、全て医者の判断です。

大腸検査のポリープ削除を手術と入力したとき、Aのアムロジビン錠 Bの錠剤イグザレルト錠の警告、PCのシステム上では出来るはずです。
【MRI】検査に置いても、過去患者がどの用な手術を行い、PCの警告システムがあれば担当医は、自動的に分かるはずです。

もし17日の大腸検査のポリープ削除を手術受け、大出血した場合は、病院側は医療ミスだとは認めないでしょう。
私は、担当医にそう話しました。
担当医は「そうでしょうね……」と頷きました。

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岩魚太郎の敗戦記念日 「鬼畜米英!」「神国日本!」「欲しがりません勝つまでは!」「天皇陛下万 」

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松山大空将の爪痕 昭和二十年五... 松山大空将の爪痕 昭和二十年五月五日午前八時
岩魚太郎の敗戦記念日
岩魚太郎の運命は、防空壕によって決められた!

熟睡していた母菊子の耳に響いたのは、空襲警報と聞いたこともない爆撃機の飛行音だった。母菊子は、熟睡している太郞を起こし、とりあえず身の回りの品と現金を背(はい)嚢(のう)に詰め込み玄関を飛び出した。空襲警報が狂ったように鳴り響くさなか、太郞が寝ぼけ眼で※空を見上げた。 
飛行機(アメリカ軍B29)から、黒い点のような物がと、無数に空から、降ってくる線香花火のように見えた。8歳の太郞が初めて見る光景であった。瞬間、強烈な爆発音と地
響きがした。

母菊子は、慌てて太郞の手を引き、近くにあった防空壕に駆け込もうとした。防空壕の入り口に隣組の組長らしき老人が立っていた。

「あんた、見慣れない顔だが何処の組だ」
「主人が呉海軍工廠に配属されて、昨夜ここに引っ越して来たばかりです」
「そうか。引っ越して来たばかりか。この防空壕は隣組の人数しか、入れない広さしかない。残念ながら入れることは出来ん。外の場所に退避してくれ」
「外の場所って言いましても、引っ越して来たばかりで何処に避難したらいいか分かりません。お願いですから入れてください」
「いくら頼まれても駄目なものは駄目だ」

母菊子が哀願するそばを、「組長さんお願いします」と腰を低く頭を下げながら、子供ずれの中年の女が防空壕の中へ入って行く」
男が、母菊子と太郞の眼前で、防空壕の中に入り入り口の扉を閉める。

「母ちゃん」
母菊子は太郞の見上げる顔を見ながら
「母ちゃんの手を離すんじゃないよ!」
「うん!」

焼夷弾と爆弾とが、混合してしながら落下する炎の中を、あてもなく逃げる母菊子と太郞姿が、炎の中にフェードアウトされて消えてゆく。

昭和二十年五月五日午前八時

松山大空襲の翌日である。
市街地は焼け野原と化し、消火しきれない炎と煙が無数にくすぶっていた。その中を、顔面煤にまみれた母菊子が、太郞の手を握りよたよたと歩いて来る。太郞が左足を引きずっている。傷を負ったらしく、ふくらはぎの位置に布が巻かれている。
我が家の近くにようやくたどり着いた。

勿論周囲の建物は当然全焼している。
防空壕の入り口に大勢の人々が輪になって立っている。母菊子が肩越しに覗き見る。太郞が人々の足を分けながら最前列に進み出る。母菊子が太郞を追うように人をかき分け前に出る。数人の人々が防空壕から死体を運び出し、その死体をむしろの上に順番に並べている。

「焼夷弾と爆弾で、防空壕の入り口が塞がれ逃げられなかったそうだ」
母菊子は、小声で話す後ろの男の声を聞いた。
そのむしろの上に、昨夜防空壕に入ることを拒んだ男の顔があった。
太郞は母菊子に手を握られ、強引に輪になっている人々の外へ連れ出した。母菊子は、太郞の目線まで腰をかがめ黙って強く抱きしめた。

母菊子の涙は止まらなかった。

母菊子は、呉海軍工廠にいる夫の三郎に手紙を書いた。松山で空襲に遭ったこと、太郞も左足を火傷して火傷の跡は残ったが歩行に支障が無かったこと、愛媛県東温市北郷村に移住、太郞は北郷の国民小学校に通っていること、食料は配給と少額の蓄えでしのいでいると記した。

しかし母菊子は、防空壕の話は記さなかった。手紙の検閲を恐れたからである。夫の配属先、呉海軍工廠も空襲を受けていないかどうかを心配した。
手紙の返事はこなかった。戦況は、手紙どころではない緊迫した状況であることは、母菊子にも分かっていた。互いに分かっていたが口に出せば「非国民」と言う烙印を押された。

太郞の北郷国民小学校二年生の授業が始まった。
松山の空襲で焼け出された二年生も数人いた。焼け出された生徒達の教科書は無かった。地元の子の教科書を、机をくっつけ一緒に見ての勉強であった。

小学校は、雨降り以外は、八時に全校生徒の朝礼が校庭で始まる。整列は横に一年生から六年生、縦に身長の低い順番である。生徒が並んだ正面中央に奉安殿がある。奉安殿とは、戦前の日本において、天皇と皇后の写真(御真影)と教育勅語を納めている小さな神殿である。
 
その教育勅語を全校生徒で唱和させられる。2018年森友学園幼稚園児の唱和である。この教育勅語の唱和は、TVで大々的に報じられ話題になったが、当時の教育では義務化され、小学一年でも、暗唱出来ない生徒は、暗唱出来るまであらゆる手段を用いても暗唱させられていた
 
教育勅語の唱和の後、校庭にアメリカ兵の人形が立てられる。その人形の正面には、「鬼畜米兵」の文字が書かれてある。太郞の身長は1.2m。身長の約二倍もある長さの竹槍を小脇に抱え、走りながら人形に突進、「エイ・エイ・ヤアー」と叫びながら、「鬼畜米兵」と書かれた人形に竹槍を突き刺す。

そして先生は言う。
「今回は、松山に敵の空襲を受けたが、日本は必ず勝つ。日本人には大和魂がある。畏れおおくも陛下は教育勅語でこうおっしゃっています。我が臣民は忠と孝の道をもって万民が心を一つにし敵と戦えば必ず勝利する」
と教えていた。

1945年 昭和二十年)八月六日午前八時十五分
広島市原子爆弾が投下された。死亡者十六万六千人。
当時の広島市の人口は三十五万人。

1945年 昭和二十年)八月九日午前十一時二分
長崎市に原子爆弾が投下された。死亡者七万四千人。
当時の長崎市の人口は二十四万人

敗戦 昭和二十年八月十五日正午

玉音放送(天皇による大東亜戦争終結ノ詔(しょう)書(しょ)の朗読)
愛媛県東温市北郷村拝志公民館広場で、机が出され、その机の上には茶色の箱形ラジオが置かれていた。そのラジオは、上部が卵形の円形になっていて、全体が木目の茶色になっていた。太郞はそれが何であるか知らなかった。太郞は、妙に上部の円形型の箱が気になった。
 
子供を含め三十人ほどの人々が、机に置かれているその箱(ラジオ)の前に直列不動の姿勢で整列した。 太郞も母菊子にせかされて姿勢を正した。
机に置かれたラジオが正午の時報を告げる。
「只今より重大なる放送があります。全国の聴取者の皆様は御起立願います。天皇陛下におかせられましては、全国民に対し、畏くも御自ら大詔を宣らせ給う事になりました。これより謹みて玉音放送をお送り申しあげます」

君が代の演奏が聞こえ終了した後、玉音放送が始まった。玉音放送終了後、土下座して号泣する人、直列不動の姿勢で泣く人々、太郞は大人たちが涙を流す理由が理解出来なかった。
母菊子も泣いている。

「お母さん、何故泣いているの?」
「日本が戦争に負けたのよ」
「鬼畜米兵に負けたの?」
「そう。鬼畜米兵に負けたのよ」
「じゃあ防空壕に入らなくていいの?」
「そうよ。もう空襲もなくなり、防空壕にはいる必要も無くなったの……」

太郞は、母の言っている意味がよく理解出来なかった。
竹槍で鬼畜米英の人形を刺す行為と、飛行機で焼夷弾や爆弾を落とす行為との比較で、先生は「我が臣民は忠と孝の道をもって万民が心を一つにして敵と戦えば必ず勝利する」と言った。先生がそう言っているのに「何故負けたんだろう?」

飛行機の空襲もない。防空壕に入らなくてすむ。爆弾や焼夷弾で人が死ぬこともない。喜んでいいはずなのに何故泣くのだろう?

「戦争に負けたから?」

82歳になった今でも、玉音放送聞いて、大人達の涙する理由が理解出来ない。

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昭和の一枚

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昭和の一枚
謄写版(とうしゃばん)は、印刷方法の1つ。孔版印刷の1種である。ガリ版(がりばん)ともいう。

謄写印刷の原型は、トーマス・エジソンが、1893年ごろに開発した「ミメオグラフ」である。これを日本に合うように改良し、謄写版(堀井謄写版)として発明したのが、堀井新治郎父子である。完成は1894年であり、これが現代につながる最初の謄写版印刷機であるとされる。ほぼ20世紀全体を通して、日本で多く使われた。

1894年(明治27年)1月、堀井新治郎父子が謄写版を発明。7月に発売開始し、11月に旧原紙を発売した。 (ウィキペディアより引用)

岩魚太郎も中学生の時は使用していました。
細かいヤスリ状の板に、蝋を引いた紙に、鉄の鉛筆で文字を書く。
その文字を書く音が「ガリガリ」と音がするので「ガリ版」
要は、「簡易印刷機」です。

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