「契約の箱を担いで」
12月
9日
ホサナキリスト教会・日曜礼拝のメッセージアウトラインです。
「契約の箱を担いで」
ヨシュア記 3章14~17節
"民がヨルダン川を渡ろうとして彼らの天幕から出発したとき、契約の箱を担ぐ祭司たちは民の先頭にいた。
箱を担ぐ者たちがヨルダン川まで来たとき、ヨルダン川は刈り入れの期間中で、どこの川岸にも水があふれていた。ところが、箱を担ぐ祭司たちの足が水際の水に浸ると、
川上から流れ下る水が立ち止まった。一つの堰が、はるかかなた、ツァレタンのそばにある町アダムで立ち上がり、アラバの海、すなわち塩の海へ流れ下る水は完全にせき止められて、民はエリコに面したところを渡った。
主の契約の箱を担ぐ祭司たちは、ヨルダン川の真ん中の乾いたところにしっかりと立ち止まった。イスラエル全体は乾いたところを渡り、ついに民全員がヨルダン川を渡り終えた。"
⑴2千キュビトの距離を置く(4)
①契約の箱は神の臨在の象徴であり、新約の光からはキリストご自身
②契約の箱は先頭を進む(3)〜これまで通った事のない道。摂理を飛び越えて先回りしてはならない。
⑵祭司の足が水際に達したとき(15)
収穫時のヨルダン川は満水〜超える事の出来そうにない人生の大問題。健康、経済、事業の課題に直面して
② 「信仰の創始者・完成者」であられる主がすでに通られた道
⑶川の真ん中にしっかりと立つうちに(17)
①内住されるキリストを自覚しているか。
問題の只中で尚も臨在の主を礼拝し賛美しているか。
②その時の祈りがキリストの祈りとなっているか。
(結論)
私たちはヨルダン川渡河と言う前代未聞の劇的な奇跡に心奪われる。しかしここでちゅうし注目すべきは、
①主の御心の中に居続けているのか
②主に祈りの成就の時と方法とを委ねているのか
③主の祈りと同一化されているのか