他人事が自分事になったときに
4月
3日
「ナザレのイエス」
ナザレ〜それは辺鄙な片田舎であり、
当時の聖書には一度も言及なく
「ナザレから何の良いものが出よう」(ヨハネ1:46)と言われるほど蔑まれたところだった。
そのナザレ出身の学歴なし支持基盤なしの30歳の青年イエス。
数ヶ月前、なぶりものにされた上、
十字架で死を遂げられたばかり。
さらに死から復活されたという知らせは、
弟子たちの間に広まっている。
生まれてこの方、足がなえていて歩いたことない男にとって
突然「歩きなさい」とのペテロの命令はあまりに唐突でハードルが高かったに違いない。
エルサレム神殿の美しの門に物乞いのために置かれていたこの男は、当然のことながらこれまでイエスの噂を耳にしていたはず。
そのイエスに賭けてみることにした瞬間だった。
ナザレのイエスと言う方が行なっていた、
病を癒し目の見えない者を開眼させていた他人事話を、
この時、自分にも適応してみたのだ。
つまりイエスと言う方が聖書に予言されたメシアであり、
神ご自身であり、
不可能はない救い主であられるとの信仰を抱いて自らの足で立ち上がった。
いや立ち上がろうと、決意して意思を動かした。
ペテロはその時、彼を助けて「右手をとって立ち上がらせた」(7)とある。
その瞬間、神の力が彼の全身を貫いてその足は飛び上がるほどまでに頑丈に癒されたのだった。
私たちも同様にしてナザレのイエスと言う方が
死なれたこと
復活されたこと
その前にも、イスラエルの地で様々な奇跡を行われたことを
聖書の中から知ることが出来る。
クリスチャンの知人から友人から聞いたこともあるでしょう。
これが単なる昔話、おとぎ話の段階から
自分自身に適応するときに神のみわざが始まる。
ペテロはその直後、その神のみわざがどうしてこの男に実現したかをまとめている。
"このイエスの名が、その名を信じる信仰のゆえに、あなたがたが今見て知っているこの人を強くしました。イエスによって与えられる信仰が、この人を皆さんの前で、このとおり完全なからだにしたのです。"
使徒の働き 3章16節
①この男を癒した直接要因〜「イエスの名」。
ヘブル的に名前はその人自身を表す。
すなわちイエスご自身。
②この男を癒した間接要因〜「その名を信じる信仰」その男がイエスに対して抱いたメシアとしての信仰のこと。
③信仰の起源〜「イエスによって与えられる信仰」
それ故私たちは自らの敬虔に根拠を置かない。
永久に保証されている救いをいただいているのである。