本日5月13日は、 私のイミグレーション・ディ(米国移住記念日)です。 1997年19年前の本日、両手にスーツケースを持った私は1人でシアトルの空港に降り立ちました。 どこまでも青く晴れ渡った空にベルビューの家々のシャクナゲやアゼリアの色とりどりの花花が映えて、 まさに百花繚乱と言う言葉がふさわしく溢れんばかりに咲いていたのが印象です。 この記念日を特別に祝うかと言えばそんな事はなく、 いつもの土曜日のように時は進んでいるところです。 そもそもこのイミグレーションディがいつであったか私自身覚えてなく、 数日前に家内から教えてもらって知った次第です。 子供たちにこれを伝えてこれまでの苦労話や今後の意気込みといった感じを垂れるまでもなく、彼らはそれぞれ友人宅へ泊まりに行ってしまってます。 家内はシアトルにある女子プロサッカーチームの会合に出かけていて残された私は1人で寂しくこれからうどんでも作りランチにしようかと。。 このまま筆を置いたのではあまりに寂しいので今朝のディボーションから頂いた励ましの聖書メッセージをシェアさせて下さい。 言うまでもなく「筆を置く」とは長く使われている比喩的表現であって、現実はiPhoneに話しかけて文字変換しているに過ぎません。 さてさて脱線する前に聖書メッセージでした。 「神は真実でありその方の召しによって、 あなた方は神の御子、私たちの主イエス・キリストとの交わりに入れられました」 (第1コリント1章9節) ①神の召しによって今がある。 神がCallしてくださった、すなわち呼んでくださったので私たちは今の場所に住み、職を持ち、家庭の中に置かれ使命を負っていると教えています。 19年前に米国に移住したのも私自身を超える大きな力と計画が働いていたことを認めざるを得ません。 ②イエスとの交わりの中に入れられた。 交わりとは、原語ギリシア語でコイノニア、英語でフェローシップと訳されるものですが これは「交友」「付き合い」「仲間」最近流行りの言葉で「絆」とも日本語訳できるものです。 生きておられるイエスが私と共に私のうちにおられてその生命的な絆の中にあるゆえに私たち自身が生かされるのです。 ③私を最後まで全うしてくださる。 信仰を持ったからといって問題や悩みが全て解決されるわけではありません。 むしろ信仰ゆえの試練や迫害、通常と同じような天災にも人災にもあいます。 にもかかわらず前節の8節にはこのような約束があります。 「主も、あなた方を私たちの主イエス・キリストの日に責められるところないものとして 最後まで堅く保ってくださいます」 世が改まって主イエスと面会するその瞬間、私たちを責められるところのない完全なものとして立たせてくださると言うのです。 えー、こんな失敗だらけの私が完全なものに?? それにふさわしく私たちは克己や努力をせねばならないと言うのでしょうか? そうではありません。この約束は神ご自身のご真実にかかっていると教えています。 もう一度、9節をご覧ください。 「神は真実でありその方の召しによって、 あなた方は神の御子、私たちの主イエス・キリストとの交わりに入れられました」 (第1コリント1章9節) 主イエスはご自身の血潮を流すことにより私たちと契約を交わしてくださいました。 それが2,000年前、エルサレムに立った十字架です。 その契約の確かさゆえに私どもの救いを完成してくださると言うのが聖書の言う約束です。 今日もこの方に信頼しながら、来年の20周年を目指して歩みたいと励まされました。