よみに降られた主イエスの働き
3月
27日
十字架で息を引き取られた主イエスは
直ちに墓に葬られました。
翌日の土曜日は終日、その墓に葬られたままです。
いえ、正確に言うなら、肉体は墓の中に安置されたままですが、
その魂はよみに降っていました。
聖書的観点からすると「死」とは分離を意味しています。
肉体の死とは、肉体と魂の分離のことです。
霊的な死とは、魂が神との関係から分離していることです。
「よみ」と翻訳されているものは
旧約聖書では「シェオール」、新約聖書では「ハデス」とされ
両者はヘブル語とギリシャ語の相違だけで場所や実態は同じものです。
そこは地球の中心にある異界であり、死者の行き先です。
信者も不信者もそこへ死後集められました。
(旧約時代は)
ただし、大きく4つのセクションによみが仕切られています。
❶信者の行く広義のよみ
「アブラハムのふところ」とか「パラダイス」と呼ばれることもあります。
❷人間の不信者の行く狭義のよみ
「アバドン」「よみの穴」と呼ばれることもあります。
❸一般の堕天使の幽閉された場所
「アビス」と呼ばれる場所で脱出して地上に出てくることも可能です。
❹ノア時代に人間の女性と肉体関係を持った堕天使
「タータルス」と呼ばれ完全幽閉されています。
さて、土曜日に主イエスの魂はよみの何処のセクションに行かれたのでしょうか?
答えは、「信者の行くパラダイス」です。
主イエスの隣で十字架に架けられた強盗に
「あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます」と主は語られています。
アブラハムや族長たち、ダビデやエレミヤなど旧約時代の信者と
主はそこで再会を果たされたことでしょう。
信者の行くよみ(パラダイス)と不信者の行くよみや悪霊の巣窟(アビスやタータラス)の間には
越えられない深い淵があり、行き来することは出来ません。ルカ16章19節以降参照。
ルカ16章のラザロと金持ちの死後の現実を見ると、
両方向へ行き来は出来ずとも、様子を伺い知ったりする事が出来るのが分かります。
よみへ降って行かれた主イエスは
悪霊たちへ向かって勝利の宣言となるお言葉を述べられています。
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「その霊のおいて、キリストは捕らわれの霊たちのところへ行ってみことばを述べられたのです。昔、ノアの時代に、箱船が作られていた間、神が忍耐して待っておられて時に従わなかった霊たちのことです」
(Ⅰ ペテロ3章19ー20節)
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「みことばを述べられた」という言葉を宣教と解釈し、
不信者に伝道されたと考える学者が時にいます。
この聖句を根拠にして人は死後にも信仰を抱き救いのチャンスが与えられていると考えるのです(セカンドチャンス論)。
これは誤った聖書理解です。
聖書が人の死後、救いのチャンスがあると教えている場所はありません。
「述べられた」とあるギリシャ語には、説教とか伝道の意味はなく
「宣言した」という意味を持つものです。
対象はノア時代の悪霊、それらが捕らわれているタータラスへ向かって
信者のいるパラダイスから勝利の宣言をされたということです。
悪霊が女性と結婚関係を結んだ理由は、それにより人間を地上から滅ぼし、
さらに女性から生まれるメシア到来を阻止しようとするものでした。
この非常事態に神は非常な手段で持って悪霊の働きをストップせねばならなくなり、
その結果もたらされたのが世界大の大洪水だったわけです。
神の人類救済計画に反乱したタータラスにいる悪霊らに対して
主はそのご計画が今やご自身の十字架の死を持って完遂される事を告げられたのでした。
土曜日に主の遺体は墓に放置されていましたが
その魂はよみにあってこのように活動されていたのでした。