ゆだねる幸い
3月
10日
「あなたの道を主(イエス)にゆだねよ。
主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。
主を己の喜びとせよ。
主はあなたの心の願いをかなえてくださる。」
詩篇37篇5ー6節
「ゆだねる」という行為はどういうことだろう?
もし「ゆだねる」ことが出来るとしたら、どれほど幸いであることか。
その時、人は自由を取り戻し、ストレスから解放され、
アルコールやドラッグ、ギャンブル等の有害な中毒の牢獄から逃れ得るのではないか。
問題は自分のキャパを超える大きさで、自分には扱えそうにない事態はしばしば出来する。
そんな問題でさえも「ゆだねよ」と聖書は教える。
なぜなら、ゆだねる相手は主イエスであり、
このお方が人生最大の大問題である死を解決されたのだから、
ほかの問題なんて、なんでもないじゃん!という論理。
「そうは言っても、この私の問題を見てよ~」
「どうしてここで安心なんてできるものですかぁ!」
そんな重たい現実に直面せねばならないのは、
クリスチャンであってもなくても、
すべての人に共通した人生の原則であろうかとも思う。
私にはつい昨日も経済的な問題が発生した。
昨年、我が家のリファイナンスをして以来新しい毎月のローン払いが始まっていた。
ところが、である。
複雑な事が幾重にも重なっているのであるが簡略して言うと、
その新しいローン払いに加えて古いローン代金を二重に支払い続けていることが判明したのであった。
しかも3日月間も!
どうりでこの数か月間、出費が多く、銀行口座は常にネガティブであったわけだ!
そこでリファイナンスの際に世話となった銀行員に電話した。
もちろん払い過ぎの分は返金してもらえるはずだ!と確信しながらである。
ところが、である。
返金は出来ない!とのたもうたのである!!
ソ、そんな、、バナナ!!
電話口で我が耳を疑いながら銀行員の説明を聞く。
銀行口座にアクセスできる権利を持った私がその新しいローン払いを申請し、
古いローン払いをストップ出来る唯一の権利を持った私がしななったとして、責任はすべて私にあって、誰もこの現実を変えることが出来ない、とのたもうたのである。
冷静さを失いながら応答せざるを得なかったが、
銀行員としてはそのような巨大な組織(Wells Fargo)の中で決められていることを変えることはない、と一点張り。
カスタマーサービスの連絡先を教えるからそこに問い合わせてみよ、最後に言ってきた。
彼が出来ることはそれだけだった。
家内に相談しても、銀行員の言うことに分があり
返金はないだろうからあきらめざるを得ない、という。
私の心中は猛嵐が吹き荒れた。
翌朝、聖書を読んだ場所は、マルコ福音書の4章後半。
主イエスがガリラヤ湖の猛烈な嵐を
「静まれ」とおっしゃたのみで風も波も沈められたという記事。
自然界を統御される力をお持ちの方は、
この私の経済問題にも関与され、統制力をお持ちのはずである。
祈り、ゆだねることにした。
全てを。結果をも含めたすべてを。
カスタマーサービスに電話して、一からややこしい経緯を説明せねばならない。
これは家内に押し付けた。
どこまでの上級銀行員がこの問題にかかわってくれるか?
あの担当銀行員の言った通りで、どこまでたどっても結論は変わらないのか?
そうであってほしくないし、
この現実が撤回されるように願い、主に祈った。
それと同時に、主がこの問題を扱ってくださることをゆだねたのである。
不思議な事が起こった。
猛威を奮っていた心中の嵐は止み、鎮められた。
主が最善の結果を導き出してくださる。
〜それは、私の望むようにしてくださるかもしれないし、そうでないかもしれない。
それでなかったとしたら、それはそれで、今の私にはわからなくとも、
主が、その最悪から最善を引き出してくださることのできるお方であることを信じることにしたのである。
「ゆだねる」ことのできる幸いは
主を知っていることの幸いは、
何ものにも代えがたいもの。
人生の大問題を凌駕する現実である。