「主の山に備えがある」
7月
20日
「主の山に備えがある」
聖書拝読 創世記二十二・一~一四
主題聖句 創世記二十二・十四
百七十五年のアブラハムの生涯で最大の、
そして最終的な「試練」(一節)を迎えた。
故郷のウルを離れて以来、経済、道徳、災難、健康、
あらゆる面での試練を通り抜けて来たアブラハムであったが、
この最終的な炉を通ることで「信仰の父」・「神の友」
とのタイトルに相応しい人格が完成されることになる。
❶神の試練
「あなたの愛しているひとり子イサクを
モリヤの山で全焼のいけにえとしてささげよ」と神は言われる。
悍ましい人身供養の蛮習は異邦人世界にはあっても、
聖書の神が命じることがありえるだろうか?
すでに彼は直接的な神の顕現とメッセージを五回も体験している。
神からのものであるかどいうか、勘違いすることはない。
「モリヤの山」とは
後にエルサレムにて神殿の立てられる場所であった(Ⅱ歴代誌三・一)
❷アブラハムの応答
「翌朝早く」行動に移した即従。
しもべらに「私と子どもとは、~あなた方のところに戻ってくる」
と言えたのは復活信仰ゆえ。
「神には人を死者の中からよみがえらせることもできる、と考えました」
(へブル一一・一九)。
「考えた」とは
「理性的に計算して至った」の意。
これまでの生涯で、神のことばと約束の確かさを知った上での
論理的な結論であった。
❸神の備え
試練に真っ向から応えようとするものに、
神はいつでも必要な備えをされる。
直近ではイサクの代わりに角をやぶに引っ掛けた一頭の雄羊。
究極的には神のひとり子であられるイエスが
ゴルゴダの丘の上で十字架に磔刑とされた。
このイエスによる「神の備え」は、
私たちをしてアブラハム契約の継承者とし、
世界の相続人とさせるものであった。