ピラトによる裁判
5月
5日
「ピラトによる政治裁判」
マタイ27章11~26節
~マタイ福音書連続講解説教 101~
❶ピラトによる判決
当時のローマ総督ピラトは、
イエスが妬みからユダヤ人に訴追されており
ローマ法に照らして死刑に当たる罪はないことを知りました。
釈放の努力もむなしく、暴動になりそうなのを見て
ユダヤ人からの「イエスを十字架につけよ」
との
声に屈することとなったのです。
その判決に自らは無罪であるのを演出するために
ガバダ・裁判の席に着席(ヨハネ19:13)してから
わざわざ手を洗って言いました。
「この人の血について、私には責任がない」(マタイ27:24)
ユダヤ人たちは
「その人の血は、私たちや子どもたちの上にかかってもいい」と返答。
このユダヤ人らの発言は
イエス殺しの犯人とみなされる証拠とされ
長年の欧州でユダヤ人迫害・排斥の根拠となったものです。
アンティ・セミティズム運動の寄って立つ聖句。
しかし、
それは聖書の誤った解釈であると言わざるを得ません。
イエス殺しの罪の刈り取りをするのはその世代の者たちで、
世代継承して罪を負うと考えるのは明らかな誤りです。
❷ピラトの責任回避
民衆の前で無罪を演出したピラトでしたが、
彼はそれで責任を真逃れたのでしょうか?
ローマ法を忠実に執行する最高責任者として
正義を曲げて民衆の声に従ったのは自己保身ゆえです。
その責任は神の前から逃れることは出来ません。
その名は使徒信条の中で汚名として歴史に刻まれることになります。
AD36には、
皇帝カリギュラにより全財産没収され、のちに自殺をしています。
人には、蒔いた種は自らが刈り取らねばならないという
原則を聖書は教えています。ガラテヤ6:7
ピラトが責任回避したのは、
自分自身と向き合うことを逃げたことから来るものでした。
なぜなら主ご自身と向き合えず、
逃げてしまったからです。
主が彼と対面された時に
言われました。
「わたしは真理のあかしをするために生まれ、
このことのために世に来たのです。
真理に属するものはみな、
わたしの声に聞き従います」
ところがピラトは、
「真理とは何ですか」(ヨハネ18:38)
と言ったきり
主からの返答を得る前に
答えを遮るようにして
振り返り
その場を後にしてしまったのです。
もし「真理」が明らかとなったとすれば
真理そのものであられるイエスを捕縛しておくわけにはいかない…
するとユダヤ人からの大反対や暴動までが予想され
総督の地位を維持するのが困難となる…
……それがピラトの隠れた本音でした。
❸神のさばきから逃れるために
民衆の求めにより
強盗と殺人の罪で十字架にかかる予定でいたバラバが
イエスの代わりに釈放されました。
ここには私たちへのメッセージがあります。
私たちもまた
責任回避の出来ない罪を犯してきたものです。
厳正な神の法廷に立ったなら
誰一人として無罪でいることは出来ないのです。
身代わりにイエスが神のさばきを受けてくださいました。
そこの一点にのみ、私たちが神のさばきを回避できる道があります。
これを受け入れたキリスト者は
現代のバラバということが出来るでしょう。