今週は受難週。
エルサレムのヴィアドロローサでは巡礼が始まります。
ホサナキリスト教会・聖書広場からの抜粋です。
メッセージ・ノートはこちらから:
http://wdx.hosannamin.org/whatsnew/view/6697599
「イエスを否定するペテロ」
マタイ26章69~75節
~マタイ福音書連続講解説教 99~
ペテロは3度も主イエスを否認してしまう。
それは主が預言された通り、
鶏が鳴く前に3度も主を否認したのでした。
その数時間前に
「たとい死ななければならないとしても、
私は、あなたを知らないなどとは決して申しません」
(マタイ26:35)
と豪語したばかりであったのに…
使途集団トップであった彼にも手痛いばかりの失敗があった。
今回は失敗から何を学ぶかについて考察してみよう。
そこからでも益を引き出すことがあり得るのだろうか?
❶失敗の原因
そこにはぺテロの自負心とや自分へのこだわりというものがあった。
「自分だけは大丈夫。ここまで先頭を走って来たんだ…
これからだって…他者と比べたら私の実績や献身は優れているはず……」
そこに潜んでいるのは自己義認(自分は正しい)という態度だった。
そのような彼は
「誘惑に陥らないように祈っていなさい」との
主の言葉を素直に受け入れることは出来なかった。
謙遜になれなかったのである。
真の自己…それは神の視点から客観的に評価されるものであるが…
を知らないままであった。
❷回復の保証
主はペテロが否認するのをご存知の上で
「あなたの信仰がなくならないように、
あなたのために祈りました」(ルカ22:32) と語られた。
主は在命中ゆえにペテロのためにだけ祈れたのでしょうか。
現在の私たちのためにも祈っておられると聖書は教えています。
大祭司であられる主イエスは、
天においてとりなしておられるのです(へブル7:25) 。
私のために、
貴方のために。
そればかりではありません。
聖霊様がうめきをもって私たちのためにとりなしていてくださっています(ローマ8:26)。
それゆえ、自ら愕然とするような失敗をしでかしたとしても、
回復への保証が約束されていると言えるでしょう。
❸成長への変貌
ペテロは最も大きな失敗をしましたが、
後に最も大きな責任をゆだねられています。
初代教会のリーダーとして立たされるのです。
そこまでの大変貌をとげるために、主の視線は彼に常に注がれ続けました。
鶏が泣いた瞬間、
振り向いた主とペテロは目を合わせました(ルカ22:61)。
その時の主の視線はどの様なものだったでしょうか。
赦しと慈しみに富んだ主の眼差しにいたたまれなくなって
ペテロはその場を去り、
激しく泣いたのでした。
さらに、復活の知らせをペテロに先ず告げよ、
と御使いは墓場で会った女性たちに命じています(マルコ16:7)。
そして復活の主は、
ペテロに個人的に顕現されています(Ⅰコリント15:5)。
あの時の主の、
全てを包み込むような優しい視線はペテロをして悔い改めへと導きました。
それでは現在の私たちには、
主はどこで眼差しを向けてくださっておられるでしょう?
神の言葉、啓示の書である聖書からです。
そのお言葉に実存的に触れるとき、主と出会うのです。
その時同時に真の自己を客観視できるのです。
- ブログルメンバーの方は下記のページからログインをお願いいたします。
ログイン
- まだブログルのメンバーでない方は下記のページから登録をお願いいたします。
新規ユーザー登録へ