イスラエルの海の玄関口ヤッフォ。
ヤッフォの歴史は古く、聖書にも登場する。
この場所から今のテルアビブへと人口が広がっていった。
「人は死んだ後にも救われるチャンスが残されている」
と考えるのをセカンドチャンス理論と言う。
不信者のまま死んだ者たちにも救いの二度目のチャンスがある
と考える方が生存者にとって慰めとなるし、
愛の神理論と合致するとする考えであるとして
キリスト教会でも最近流行っている教えである。
ところが
聖書はそのようなことを教えていない。
先ず、
二つのセカンドチャンス理論があるのを紹介する。
①限定的セカンドチャンス
幼児期に死んだ人や
福音を聞くチャンスがなかった人には
死後にもチャンスが与えられるとする。
②無限定的セカンドチャンス
⑴普遍的救い(Universalism)〜全ての人はやがて救われるとする
⑵回復主義(Restorationism)〜全ての人はやがてキリストの元に悔い改めに導かれるとする
⑶普遍的和解(Universal Reconciliation)〜火の池で苦しんだ後に悔い改めに導かれて神と和解する
これらのセカンドチャンス理論を裏付けるものとして
彼らは以下の聖句を上げる。
それぞれについての反論を記す。
① 「 このイエスは、神が昔から、
聖なる預言者たちの口を通してたびたび語られた、
あの万物の改まる時まで、天にとどまっていなければなりません。」
(使徒 3:21 )
「万物の改まる時」を万人の死者が救いを受けるときであるとする。
→それは預言者たちの語った内容であって、
そこにUniversalismは含まれていない。
② 「彼は万物をその足の下に従わせた」からです。
ところで、万物が従わせられた、と言うとき、
万物を従わせたその方がそれに含められていないことは明らかです。
しかし、万物が御子に従うとき、御子自身も、
ご自分に万物を従わせた方に従われます。
これは、神が、すべてにおいてすべてとなられるためです。」
(コリント 15:27-28)
「万物が御子に従うとき」とは、
未信者が信仰に至ったことであるとする。
→不信者のままで御子の権威に従うということで、
その救いを言及したものではない。
③ 「その十字架の血によって平和をつくり、
御子によって万物を、御子のために和解させてくださったからです。
地にあるものも天にあるものも、
ただ御子によって和解させてくださったのです。」
(コロサイ 1:20)
御子のための和解が、救いのことであるという。
→十字架によって全ての人に救いの道が開かれたこと、
すなわちその可能性のことを言っている聖句である。
④ 「それゆえ神は、この方を高く上げて、
すべての名にまさる名をお与えになりました。
それは、イエスの御名によって、天にあるもの、
地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、
すべての口が、「イエス・キリストは主である」と告白して、
父なる神がほめたたえられるためです。」
(ピリピ 2:9-12)
全てのものが救われてキリストは主であると告白するという。
→不信者を含めた全ての者がやがてキリストの権威に服することを教えていて、
救いを保障していない。
⑤ 「その霊において、キリストは捕らわれの霊たちのところに行って、
みことばを語られたのです。
昔、ノアの時代に、箱舟が造られていた間、
神が忍耐して待っておられたときに、
従わなかった霊たちのことです。
わずか八人の人々が、この箱舟の中で、
水を通って救われたのです。」
(1ペテロ 3:19-20)
シェオールに下ったキリストが御言葉を宣教したという。
→ここでの「語られた」は「ケイルッソ」であり本来、「宣言する」という意味である。
それは救いではなく、裁きを宣言されたことを意味する。
すなわち、悪霊たちの人類破壊の陰謀が
十字架によって葬り去られたことを宣言された。
⑥ 「 というのは、死んだ人々にも福音が宣べ伝えられていたのですが、
それはその人々が肉体においては人間としてさばきを受けるが、
霊においては神によって生きるためでした。」
(1ペテロ 4:6)
死んだ世界においても福音が伝えられているという。
→現在は死んでいるが、
生前生きていたときに彼らにも福音が伝えられていた、という意味である。
このように、
聖書からセカンドチャンスを教えているところは見出せないのである。
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